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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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20/21

第十九話:世界的な名画の前夜

第十九話では、二人がこれまでのすべて――白い怪物、青い線、白い余白、古い赤、黒い糸――を含む卒業制作の巨大な一枚絵に挑みます。

ほどけない黒い糸を、賺は自分で「絵の中に残す」と決めます。


卒業制作の紙は、私より大きかった。


床に広げると、美術室の半分が埋まった。


端に立つと、向こうの端が遠い。


「広いら」


私が言うと、相原くんは紙の角を、一つずつ画鋲で留めていた。


「四隅を、先に固定します」


「几帳面」


「めくれると、危ないので」


玲子が、入口から覗いた。


「絵?それとも、運動場?」


「絵です」


相原くんが即答した。


「走らないでください」


「走らないよ」


玲子は、紙のふちを、つま先でちょんと触った。


「これ、どうやって運ぶの」


「搬入経路は、もう測りました」


相原くんは、別のノートを出した。


「ドアの幅。階段の角度。トラックの荷台」


「絵より先に、引っ越しの見積もり」


「両方、必要です」


私は笑った。


大きな紙の前で、笑い声も、少し大きく響いた。


◇◇◇


テーマは、決まっていた。


『きみの心は怪物でした』。


私たちが、ずっと描いてきたもの全部を、一枚に入れる。


白い怪物。


青い線。


白い余白。


古い赤。


そして、黒い糸。


私は、絵の前に座った。


色は、もう、ちゃんと見えていた。


赤も、青も、迷わず選べる。


あの日、消えた色は、すっかり帰ってきていた。


帰ってきたことを、いちいち確かめなくても、もう、そこにあった。


それが、いちばん、安心することだった。


◇◇◇


最初に、青い線を引いた。


相原くんの線。


海まで続いて、それから、世界まで続いた線。


紙の左下から、右上へ。


長い、一本。


その隣に、私が色を置く。


止まる場所のある色。


相原くんの線があるから、私の色は、止まれた。


次に、白い余白を残した。


絵の右上。


何も描かない場所。


賺が名前をつけた場所。


そこは、塗らない。


塗らないことが、いちばん難しかった。


手が、つい、伸びる。


でも、伸ばさない。


「余白、確保」


玲子が、小さく言った。


議事録の声だった。


でも、今日は、茶化していなかった。


◇◇◇


古い赤を、絵の隅に入れた。


いちばん古い色。


私が、初めて誰かの心を、人前で叫んでしまった日の色。


文化祭の前の、あの赤。


真央さんの心に見えた、黒い線のとなりにあった、赤。


私は、それを、長いあいだ、絵に入れるかどうか迷っていた。


入れたら、思い出す。


入れなかったら、なかったことにする。


私は、入れることにした。


小さく。


でも、消さずに。


「これ、何の赤?」


玲子が聞いた。


「私が、いちばん最初に間違えた色」


「残すんだ」


「うん。間違えたことも、絵だから」


玲子は、それ以上、聞かなかった。


ノートに、一行だけ書いた。


◇◇◇


最後に、黒い糸が残った。


本物の、刺繍糸。


あの日、相原くんが持ってきた、黒。


ファイルのポケットで、ずっとふくらみだったもの。


相原くんは、それを台紙から、ゆっくりほどいた。


机の上に、黒が伸びる。


細い。


くるりと癖がついている。


何度、巻き直しても、まっすぐにはならない。


相原くんは、それを、絵の中央へ持っていこうとした。


白い怪物のいる場所。


余白の、すぐそば。


でも、手が、止まった。


紙の上、あと少しのところで。


止まったまま、動かない。


私は、見ていた。


何も言わなかった。


ほどこうとも、しなかった。


この糸の先に、何があるか、私はもう知っている。


廊下。


倒れた水筒。


こわい、という声。


幼い相原くんの手。


知っているけれど、それは、私のものではない。


だから、待った。


◇◇◇


「天野さん」


「うん」


「この糸は、ほどけません」


「うん」


「ずっと、ほどこうとしてきました」


相原くんの声は、低かった。


でも、震えてはいなかった。


「ほどけたら、きれいになると思っていました」


「うん」


「でも、ほどけませんでした」


相原くんは、黒い糸を、指でそっと押さえた。


跳ねないように。


逃げないように。


「ほどけなくても」


そこで、一度、止まった。


美術室が、静かだった。


玲子も、息を止めていた。


「ほどけなくても、描けます」


相原くんは、黒い糸を、絵の中央に置いた。


隠さなかった。


白い余白の下にも、入れなかった。


怪物の角に、巻きついたまま。


見えるところに。


結び目も、癖も、ふくらみも、そのまま。


「これで、いいです」


私は、頷いた。


ちゃんと、頷いた。


分かったから、ではなく。


賺が、自分で決めたから。


◇◇◇


絵は、完成に近づいていた。


あと、中央の一本。


白い怪物の、すぐそば。


そこに、最後の線を引けば、終わる。


私は、筆を持った。


相原くんは、鉛筆を持った。


そのとき、また、あれが来た。


シンクロ。


相原くんが引こうとしている線が、私には分かった。


私が置こうとしている色を、相原くんも分かっていた。


呼吸が、揃う。


筆を持つ手と、鉛筆を持つ手が、同じ高さで止まる。


近い。


前より、ずっと近い。


このまま、一本に重ねたら。


二人の線を、一本にしたら。


きっと、いちばん、きれいになる。


そう、思った。


手が、そっちへ動きかけた。


相原くんの手も、同じ方へ動いた。


一本に、なろうとした。


◇◇◇


「待って」


私は、言った。


手が、止まる。


相原くんの手も、止まった。


「重ねない」


私は言った。


第十八話の、あの距離を思い出していた。


紙一枚ぶんの、距離。


くっつけず、離さず。


「一本にしたら、どっちの線か、分からなくなる」


「分からなく、なりますか」


「なる。たぶん、いちばんきれいに、見えなくなる」


相原くんは、自分の鉛筆を見た。


それから、私の筆を見た。


「では」


「二本、引く」


私は言った。


「並べて。近くに。でも、別々に」


これは、机の上の指の距離ではなかった。


私より大きな紙の、端から端まで。


その長い距離を、二本の線が、並んで進む。


途中で、近づく。


近づいても、交わらない。


交わらないまま、同じ方へ伸びていく。


私たちは、それを、一本ずつ引いた。


私の線。


相原くんの線。


二本。


紙の上で、いちばん長い、二本だった。


◇◇◇


引き終わって、私たちは、絵から離れた。


美術室の、入口まで下がる。


そこから見ると、絵の全体が見えた。


白い怪物。


青い線。


白い余白。


古い赤。


黒い糸。


そして、中央を、並んで伸びる、二本の線。


二本のあいだに、細い隙間がある。


塗っていない、白い隙間。


それが、この絵の、最後の余白だった。


「埋めなくて、いいの?」


玲子が聞いた。


私は、首を振った。


「そこは、空けておく」


「なんで」


「二人が、まだ、一本になってないって、分かるように」


玲子は、絵を、長いあいだ見ていた。


それから、議事録を閉じた。


「これは、書けない」


「なんで?」


「言葉にすると、減る」


私は、その言い方が、好きだった。


◇◇◇


帰り道、絵は、美術室に置いてきた。


明日、乾いたら、搬出する。


世界へ続く線が、初めて、部屋の外へ出る日だった。


「相原くん」


「はい」


「明日、緊張する?」


「します」


「私も」


「でも」


相原くんは、空を見た。


晴れていた。


「あの絵には、黒い糸も、古い赤も、入っています」


「うん」


「全部、入れたので」


相原くんは、少し考えた。


「隠すものが、ありません」


私は、その言葉を、しばらく持っていた。


すぐには、色を増やさなかった。


隠すものが、ない。


怪物も、糸も、赤も、全部、見えるところにある。


それは、たぶん、いちばん怖くて、いちばん自由なことだった。


駅までの道に、二人の影が伸びていた。


今日は、影のことを、確かめなかった。


一本か、二本か。


もう、絵の中に、答えがあったから。


第十九話では、賺が「ほどけなくても、描けます」と言い、黒い糸を隠さず絵の中央に残しました。

完成間際、二人の心は重なりかけますが、一本に溶け合うのではなく、二本の線が並んで伸びる構図を選びます。その二本のあいだの細い白が、この絵の最後の余白になりました。

次回はいよいよ最終話。完成した絵が世界へ出たあと、二人は始まりの場所――城ヶ崎の海岸へ戻ります。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

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