第十九話:世界的な名画の前夜
第十九話では、二人がこれまでのすべて――白い怪物、青い線、白い余白、古い赤、黒い糸――を含む卒業制作の巨大な一枚絵に挑みます。
ほどけない黒い糸を、賺は自分で「絵の中に残す」と決めます。
卒業制作の紙は、私より大きかった。
床に広げると、美術室の半分が埋まった。
端に立つと、向こうの端が遠い。
「広いら」
私が言うと、相原くんは紙の角を、一つずつ画鋲で留めていた。
「四隅を、先に固定します」
「几帳面」
「めくれると、危ないので」
玲子が、入口から覗いた。
「絵?それとも、運動場?」
「絵です」
相原くんが即答した。
「走らないでください」
「走らないよ」
玲子は、紙のふちを、つま先でちょんと触った。
「これ、どうやって運ぶの」
「搬入経路は、もう測りました」
相原くんは、別のノートを出した。
「ドアの幅。階段の角度。トラックの荷台」
「絵より先に、引っ越しの見積もり」
「両方、必要です」
私は笑った。
大きな紙の前で、笑い声も、少し大きく響いた。
◇◇◇
テーマは、決まっていた。
『きみの心は怪物でした』。
私たちが、ずっと描いてきたもの全部を、一枚に入れる。
白い怪物。
青い線。
白い余白。
古い赤。
そして、黒い糸。
私は、絵の前に座った。
色は、もう、ちゃんと見えていた。
赤も、青も、迷わず選べる。
あの日、消えた色は、すっかり帰ってきていた。
帰ってきたことを、いちいち確かめなくても、もう、そこにあった。
それが、いちばん、安心することだった。
◇◇◇
最初に、青い線を引いた。
相原くんの線。
海まで続いて、それから、世界まで続いた線。
紙の左下から、右上へ。
長い、一本。
その隣に、私が色を置く。
止まる場所のある色。
相原くんの線があるから、私の色は、止まれた。
次に、白い余白を残した。
絵の右上。
何も描かない場所。
賺が名前をつけた場所。
そこは、塗らない。
塗らないことが、いちばん難しかった。
手が、つい、伸びる。
でも、伸ばさない。
「余白、確保」
玲子が、小さく言った。
議事録の声だった。
でも、今日は、茶化していなかった。
◇◇◇
古い赤を、絵の隅に入れた。
いちばん古い色。
私が、初めて誰かの心を、人前で叫んでしまった日の色。
文化祭の前の、あの赤。
真央さんの心に見えた、黒い線のとなりにあった、赤。
私は、それを、長いあいだ、絵に入れるかどうか迷っていた。
入れたら、思い出す。
入れなかったら、なかったことにする。
私は、入れることにした。
小さく。
でも、消さずに。
「これ、何の赤?」
玲子が聞いた。
「私が、いちばん最初に間違えた色」
「残すんだ」
「うん。間違えたことも、絵だから」
玲子は、それ以上、聞かなかった。
ノートに、一行だけ書いた。
◇◇◇
最後に、黒い糸が残った。
本物の、刺繍糸。
あの日、相原くんが持ってきた、黒。
ファイルのポケットで、ずっとふくらみだったもの。
相原くんは、それを台紙から、ゆっくりほどいた。
机の上に、黒が伸びる。
細い。
くるりと癖がついている。
何度、巻き直しても、まっすぐにはならない。
相原くんは、それを、絵の中央へ持っていこうとした。
白い怪物のいる場所。
余白の、すぐそば。
でも、手が、止まった。
紙の上、あと少しのところで。
止まったまま、動かない。
私は、見ていた。
何も言わなかった。
ほどこうとも、しなかった。
この糸の先に、何があるか、私はもう知っている。
廊下。
倒れた水筒。
こわい、という声。
幼い相原くんの手。
知っているけれど、それは、私のものではない。
だから、待った。
◇◇◇
「天野さん」
「うん」
「この糸は、ほどけません」
「うん」
「ずっと、ほどこうとしてきました」
相原くんの声は、低かった。
でも、震えてはいなかった。
「ほどけたら、きれいになると思っていました」
「うん」
「でも、ほどけませんでした」
相原くんは、黒い糸を、指でそっと押さえた。
跳ねないように。
逃げないように。
「ほどけなくても」
そこで、一度、止まった。
美術室が、静かだった。
玲子も、息を止めていた。
「ほどけなくても、描けます」
相原くんは、黒い糸を、絵の中央に置いた。
隠さなかった。
白い余白の下にも、入れなかった。
怪物の角に、巻きついたまま。
見えるところに。
結び目も、癖も、ふくらみも、そのまま。
「これで、いいです」
私は、頷いた。
ちゃんと、頷いた。
分かったから、ではなく。
賺が、自分で決めたから。
◇◇◇
絵は、完成に近づいていた。
あと、中央の一本。
白い怪物の、すぐそば。
そこに、最後の線を引けば、終わる。
私は、筆を持った。
相原くんは、鉛筆を持った。
そのとき、また、あれが来た。
シンクロ。
相原くんが引こうとしている線が、私には分かった。
私が置こうとしている色を、相原くんも分かっていた。
呼吸が、揃う。
筆を持つ手と、鉛筆を持つ手が、同じ高さで止まる。
近い。
前より、ずっと近い。
このまま、一本に重ねたら。
二人の線を、一本にしたら。
きっと、いちばん、きれいになる。
そう、思った。
手が、そっちへ動きかけた。
相原くんの手も、同じ方へ動いた。
一本に、なろうとした。
◇◇◇
「待って」
私は、言った。
手が、止まる。
相原くんの手も、止まった。
「重ねない」
私は言った。
第十八話の、あの距離を思い出していた。
紙一枚ぶんの、距離。
くっつけず、離さず。
「一本にしたら、どっちの線か、分からなくなる」
「分からなく、なりますか」
「なる。たぶん、いちばんきれいに、見えなくなる」
相原くんは、自分の鉛筆を見た。
それから、私の筆を見た。
「では」
「二本、引く」
私は言った。
「並べて。近くに。でも、別々に」
これは、机の上の指の距離ではなかった。
私より大きな紙の、端から端まで。
その長い距離を、二本の線が、並んで進む。
途中で、近づく。
近づいても、交わらない。
交わらないまま、同じ方へ伸びていく。
私たちは、それを、一本ずつ引いた。
私の線。
相原くんの線。
二本。
紙の上で、いちばん長い、二本だった。
◇◇◇
引き終わって、私たちは、絵から離れた。
美術室の、入口まで下がる。
そこから見ると、絵の全体が見えた。
白い怪物。
青い線。
白い余白。
古い赤。
黒い糸。
そして、中央を、並んで伸びる、二本の線。
二本のあいだに、細い隙間がある。
塗っていない、白い隙間。
それが、この絵の、最後の余白だった。
「埋めなくて、いいの?」
玲子が聞いた。
私は、首を振った。
「そこは、空けておく」
「なんで」
「二人が、まだ、一本になってないって、分かるように」
玲子は、絵を、長いあいだ見ていた。
それから、議事録を閉じた。
「これは、書けない」
「なんで?」
「言葉にすると、減る」
私は、その言い方が、好きだった。
◇◇◇
帰り道、絵は、美術室に置いてきた。
明日、乾いたら、搬出する。
世界へ続く線が、初めて、部屋の外へ出る日だった。
「相原くん」
「はい」
「明日、緊張する?」
「します」
「私も」
「でも」
相原くんは、空を見た。
晴れていた。
「あの絵には、黒い糸も、古い赤も、入っています」
「うん」
「全部、入れたので」
相原くんは、少し考えた。
「隠すものが、ありません」
私は、その言葉を、しばらく持っていた。
すぐには、色を増やさなかった。
隠すものが、ない。
怪物も、糸も、赤も、全部、見えるところにある。
それは、たぶん、いちばん怖くて、いちばん自由なことだった。
駅までの道に、二人の影が伸びていた。
今日は、影のことを、確かめなかった。
一本か、二本か。
もう、絵の中に、答えがあったから。
第十九話では、賺が「ほどけなくても、描けます」と言い、黒い糸を隠さず絵の中央に残しました。
完成間際、二人の心は重なりかけますが、一本に溶け合うのではなく、二本の線が並んで伸びる構図を選びます。その二本のあいだの細い白が、この絵の最後の余白になりました。
次回はいよいよ最終話。完成した絵が世界へ出たあと、二人は始まりの場所――城ヶ崎の海岸へ戻ります。




