第十八話:必要だと言う日
第十八話では、一週間離れて一人ずつ描いた二人が、もう一度向き合います。
歌音は一人の絵に止まる場所がないと気づき、賺は一人の線に色が入らないと気づきます。
二人は、ひとつになるためではなく、半分のまま隣に置くために、互いを必要だと言葉にします。
一人で絵を描くのは、ひさしぶりだった。
共同制作を止めて、一週間。
私は美術室の隅で、一人の机を使っていた。
相原くんは、反対側の窓際。
同じ部屋にいるのに、間に、机が三つ分ある。
近くない。
声も、かけない。
それが、今の約束だった。
最初の二日は、色が、まだ戻らなかった。
筆を持っても、選べない。
赤も、青も、灰色の手前で止まっている。
あの日、見えなくなった色は、すぐには帰ってこなかった。
私は、焦らないようにした。
焦ると、また、賺の方へ引っぱられそうになる。
だから、ゆっくり、水だけ溶いた。
色のない水を、紙の上に置く。
ただ、それだけ。
◇◇◇
三日目に、青が戻ってきた。
ほんの少し。
水入れの水が、窓の光で青く見えた。
それを見た瞬間、あ、と思った。
これは、青だ。
私の知っている、青。
私は筆に青を取って、紙に置いた。
久しぶりの、私の色だった。
誰かの心の色ではなく、私が選んだ色。
その日から、色は少しずつ帰ってきた。
赤も。
黄も。
緑も。
机の上に、私の色だけが並ぶ。
人の心の絵も、また見えるようになっていた。
廊下を歩く人の、明るい風景画。
職員室の前の、ぐちゃぐちゃのクレヨン画。
見えるけれど、今は、手を伸ばさない。
見えることと、描くことは、別のことだから。
色が戻ったのは、嬉しかった。
でも、嬉しいだけでは、なかった。
◇◇◇
一人で描いた絵は、きれいだった。
破綻していない。
色も、ちゃんと選べている。
なのに、何かが足りなかった。
私は、自分の絵を、しばらく見ていた。
足りないものの名前が、分からない。
分からないまま、筆を置いた。
「歌音」
玲子が、私の机の横に立っていた。
「それ、上手」
「ありがとう」
「でも、静かすぎ」
「静か?」
「うるさくない。歌音の絵にしては」
私は、自分の絵を見た。
うるさくない。
確かに。
いつもの私なら、色を増やしすぎる。
玲子に「うるさい」と言われるくらい、置く。
でも、今日の絵は、行儀がよかった。
行儀がよくて、止まる場所がない。
「相原くんの線が、ないからかな」
言ってから、口を閉じた。
依存みたいに聞こえた気がした。
「言い直す?」
玲子が聞いた。
「……今のは、なし」
「議事録には残す」
「消して」
「消さない」
玲子はノートを閉じた。
閉じる音だけ、聞かせてきた。
◇◇◇
その日の帰り、相原くんと、久しぶりに少しだけ話した。
机三つ分の距離が、廊下では、隣になる。
「相原くんは、描けた?」
「描けました」
「どんな絵?」
相原くんは、少し考えた。
「線だけです」
「色は?」
「入れませんでした」
「入れたくなかった?」
「入れ方が、分かりませんでした」
私は、足を止めそうになった。
止めなかった。
線だけの絵。
色の入れ方が、分からない。
それは、私が「止まる場所がない」と思ったのと、たぶん、裏と表だった。
相原くんは、ファイルを持っていた。
いつものファイル。
ポケットのところが、まだ、少しふくらんでいる。
一週間、離れていても、それは、そこにあった。
ほどけてもいないし、なくなってもいない。
相原くんは、それを持ったまま、一人で線を引いていた。
「相原くん」
「はい」
「今度、絵、見せ合わない?」
相原くんは、すぐには答えなかった。
「見せ合うと、また、近づきますか」
「近づくかも」
「怖いですか」
「ちょっと、怖い」
私は、正直に言った。
「でも、見たい」
相原くんは、歩きながら、考えていた。
「僕も、見たいです」
その一言を、私は、両手で受け取るみたいに聞いた。
◇◇◇
次の週、美術室で、絵を持ち寄った。
私の絵。
色はあるのに、止まる場所のない絵。
相原くんの絵は、まだ、鞄の中だった。
「出さないの?」
私が聞くと、相原くんは鞄の口を持ったまま、止まった。
「出すと、また、近づきます」
「うん」
「近づくと、この前みたいに、なりますか」
この前。
二人で、二人を、苦しくした日。
私の手が、反射で、机の端の白い紙片へ伸びた。
止まるための合図。
伸ばしてから、気づいた。
まだ、何も、始まっていない。
始まる前に、私は、もう、止まろうとしていた。
「……ごめん」
私は、白い紙片から手を離した。
「先に、止まろうとした」
相原くんは、私の手を見ていた。
少し、考えた。
「止まれるなら」
それから、ゆっくり、鞄を開けた。
「近づいても、大丈夫かもしれません」
線だけの絵が、机に置かれる。
私の絵の、隣。
二枚が、横に並んだ。
並んだ瞬間、玲子が「あ」と言った。
私も「あ」と言った。
相原くんだけ、何も言わなかった。
でも、目だけは、二枚を行き来していた。
二枚の絵は、別々の絵だった。
サイズも違う。
紙も違う。
なのに、私の絵の止まらない色が、相原くんの線の上でなら、止まれそうに見えた。
相原くんの色の入らない線が、私の色の隣でなら、息をしそうに見えた。
どちらか一枚では、足りない。
二枚で、やっと、一枚になりかける。
「これ」
私は言った。
「一人ずつだと、足りないんだ」
「足りない」
「うん。色だけでも、線だけでも、止まらない」
相原くんは、二枚をしばらく見た。
「重ねると、どうなりますか」
「重ねない」
私は、自分でも少し驚いた。
すぐに、そう言っていた。
「重ねたら、また、見えなくなる」
「では」
「並べる。隣に、置く」
相原くんは、二枚の紙のあいだに、指を一本、置いた。
くっつけず、離さず。
ちょうど、紙一枚ぶんの距離。
「この距離なら、どちらも、消えません」
「……すごいら、それ」
私は、その指の置き方が、好きだった。
◇◇◇
玲子が、そっと部屋を出ていった。
ドアの閉まる音が、いつもより小さかった。
気をつかわれた、と思った。
少し笑った。
美術室に、二人だけになる。
二枚の絵と、夕方の光と、私たち。
「相原くん」
「はい」
私は、言葉を選んだ。
選んでいるあいだ、心臓が、勝手に速くなる。
「相原くんがいないと、描けない」
言ってから、すぐに、首を振った。
「ううん。今のは、違う」
「違いますか」
「うん。それだと、相原くんが、私の道具になる」
私は、もう一度、言い直した。
第三話で、相原くんが言ったことを、思い出していた。
便利な道具みたいに使わないでください。
あの言葉を、今も覚えている。
「相原くんと、描きたい」
私は言った。
「必要だから」
相原くんは、動かなかった。
長い時間が、過ぎた。
美術室の時計の音が、やけに大きい。
窓の外で、誰かが部活の声を出している。
その声も、遠くなる。
相原くんは、ファイルを見た。
ポケットの、ふくらみを、一度だけ、指で押さえた。
確かめるみたいに。
それから、顔を上げた。
「僕は、予定外のことが、苦手です」
「うん」
「今も、苦手です」
「うん」
「でも、天野さんといると、予定外を、少しだけ、許せます」
相原くんは、ゆっくり言った。
一つずつ、言葉を、机に置くみたいに。
「それは、楽です。でも、怖い」
「うん」
「楽で、怖いことを、僕は、ずっと、一人で抱えてきました」
私は、息を止めて、聞いていた。
「でも、今は、言えます」
相原くんは、私を見た。
「怖い、と」
「うん」
「言える相手が、必要です」
相原くんは、そこで、少し止まった。
そして、最後の一本の線を引くみたいに、言った。
「僕にも、天野さんが、必要です」
その言葉は、机の真ん中に置かれたまま、動かなかった。
私も、動かなかった。
美術室の時計が、何回か、鳴った。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
言わなくても、よかった。
◇◇◇
私は、泣かなかった。
泣いたら、たぶん、相原くんが手順を増やす。
だから、泣くのは、家に帰ってからにした。
「相原くん」
「はい」
「これって、告白?」
私が聞くと、相原くんは、少し考えた。
「定義を、確認したいです」
「出た」
「告白の定義が、複数あります」
「複数」
「『好きと伝えること』なら、まだです」
「まだ」
「でも『一緒にいたいと伝えること』なら、今、しました」
私は、笑った。
笑いながら、目の奥が、熱かった。
「じゃあ、半分は、告白」
「もう半分は、共同制作の宣言です」
「一つにはならない?」
「並べて、置きます」
私は、頷いた。
今度は、ちゃんと頷いた。
分かったふりではなく。
分かったから、頷いた。
恋人になるかどうかは、決めなかった。
急がなくていい。
私たちは、そういうのを、急いで決めて、何度も失敗してきた。
だから、今日は、これでいい。
好き、よりも先に。
一緒に描きたい。
隣にいたい。
必要だ。
その順番で、いい。
◇◇◇
帰り道、空は晴れていた。
一週間前の、曇った帰り道とは、違った。
夕日が、まだ高いところにある。
相原くんは、ファイルを、片手で持っていた。
一週間前より、少し、軽そうに見えた。
中身は、たぶん、同じなのに。
ふくらみも、まだ、そこにあるのに。
「相原くん」
「はい」
「次の絵、何描く?」
「決めていません」
「決めてないのに、描くの?」
「天野さんと決めます」
「私と」
「はい。一人では、決めません」
私は、その答えを、しばらく持っていた。
すぐには、色を増やさなかった。
二人で決める。
一人では描けない絵を、二人で描く。
それが、どんなかたちになるのかは、まだ分からなかった。
駅までの道に、私たちの影が伸びていた。
近くにあって、端のところだけ、少し触れている。
ひとつなのか、二本なのか。
今日は、まだ、言い切れない。
その答えは、たぶん、次に描く絵の中にある。
影は、同じ速さで、駅の方へ伸びていった。
第十八話では、歌音が一人で描く時間の中で、いったん消えた色を取り戻しました。
そのうえで、歌音は「必要だから、一緒に描きたい」と言い直し、賺は自分の不安を言葉にしながら「僕にも、天野さんが必要です」と答えます。
二人は恋人になるかどうかを急いで決めず、半分のまま隣に置く関係を選びます。
次回は、これまでのすべて――白い怪物、青い線、黒い糸、白い余白――を含む卒業制作へ向かう回です。




