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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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19/21

第十八話:必要だと言う日

第十八話では、一週間離れて一人ずつ描いた二人が、もう一度向き合います。

歌音は一人の絵に止まる場所がないと気づき、賺は一人の線に色が入らないと気づきます。

二人は、ひとつになるためではなく、半分のまま隣に置くために、互いを必要だと言葉にします。


一人で絵を描くのは、ひさしぶりだった。


共同制作を止めて、一週間。


私は美術室の隅で、一人の机を使っていた。


相原くんは、反対側の窓際。


同じ部屋にいるのに、間に、机が三つ分ある。


近くない。


声も、かけない。


それが、今の約束だった。


最初の二日は、色が、まだ戻らなかった。


筆を持っても、選べない。


赤も、青も、灰色の手前で止まっている。


あの日、見えなくなった色は、すぐには帰ってこなかった。


私は、焦らないようにした。


焦ると、また、賺の方へ引っぱられそうになる。


だから、ゆっくり、水だけ溶いた。


色のない水を、紙の上に置く。


ただ、それだけ。


◇◇◇


三日目に、青が戻ってきた。


ほんの少し。


水入れの水が、窓の光で青く見えた。


それを見た瞬間、あ、と思った。


これは、青だ。


私の知っている、青。


私は筆に青を取って、紙に置いた。


久しぶりの、私の色だった。


誰かの心の色ではなく、私が選んだ色。


その日から、色は少しずつ帰ってきた。


赤も。


黄も。


緑も。


机の上に、私の色だけが並ぶ。


人の心の絵も、また見えるようになっていた。


廊下を歩く人の、明るい風景画。


職員室の前の、ぐちゃぐちゃのクレヨン画。


見えるけれど、今は、手を伸ばさない。


見えることと、描くことは、別のことだから。


色が戻ったのは、嬉しかった。


でも、嬉しいだけでは、なかった。


◇◇◇


一人で描いた絵は、きれいだった。


破綻していない。


色も、ちゃんと選べている。


なのに、何かが足りなかった。


私は、自分の絵を、しばらく見ていた。


足りないものの名前が、分からない。


分からないまま、筆を置いた。


「歌音」


玲子が、私の机の横に立っていた。


「それ、上手」


「ありがとう」


「でも、静かすぎ」


「静か?」


「うるさくない。歌音の絵にしては」


私は、自分の絵を見た。


うるさくない。


確かに。


いつもの私なら、色を増やしすぎる。


玲子に「うるさい」と言われるくらい、置く。


でも、今日の絵は、行儀がよかった。


行儀がよくて、止まる場所がない。


「相原くんの線が、ないからかな」


言ってから、口を閉じた。


依存みたいに聞こえた気がした。


「言い直す?」


玲子が聞いた。


「……今のは、なし」


「議事録には残す」


「消して」


「消さない」


玲子はノートを閉じた。


閉じる音だけ、聞かせてきた。


◇◇◇


その日の帰り、相原くんと、久しぶりに少しだけ話した。


机三つ分の距離が、廊下では、隣になる。


「相原くんは、描けた?」


「描けました」


「どんな絵?」


相原くんは、少し考えた。


「線だけです」


「色は?」


「入れませんでした」


「入れたくなかった?」


「入れ方が、分かりませんでした」


私は、足を止めそうになった。


止めなかった。


線だけの絵。


色の入れ方が、分からない。


それは、私が「止まる場所がない」と思ったのと、たぶん、裏と表だった。


相原くんは、ファイルを持っていた。


いつものファイル。


ポケットのところが、まだ、少しふくらんでいる。


一週間、離れていても、それは、そこにあった。


ほどけてもいないし、なくなってもいない。


相原くんは、それを持ったまま、一人で線を引いていた。


「相原くん」


「はい」


「今度、絵、見せ合わない?」


相原くんは、すぐには答えなかった。


「見せ合うと、また、近づきますか」


「近づくかも」


「怖いですか」


「ちょっと、怖い」


私は、正直に言った。


「でも、見たい」


相原くんは、歩きながら、考えていた。


「僕も、見たいです」


その一言を、私は、両手で受け取るみたいに聞いた。


◇◇◇


次の週、美術室で、絵を持ち寄った。


私の絵。


色はあるのに、止まる場所のない絵。


相原くんの絵は、まだ、鞄の中だった。


「出さないの?」


私が聞くと、相原くんは鞄の口を持ったまま、止まった。


「出すと、また、近づきます」


「うん」


「近づくと、この前みたいに、なりますか」


この前。


二人で、二人を、苦しくした日。


私の手が、反射で、机の端の白い紙片へ伸びた。


止まるための合図。


伸ばしてから、気づいた。


まだ、何も、始まっていない。


始まる前に、私は、もう、止まろうとしていた。


「……ごめん」


私は、白い紙片から手を離した。


「先に、止まろうとした」


相原くんは、私の手を見ていた。


少し、考えた。


「止まれるなら」


それから、ゆっくり、鞄を開けた。


「近づいても、大丈夫かもしれません」


線だけの絵が、机に置かれる。


私の絵の、隣。


二枚が、横に並んだ。


並んだ瞬間、玲子が「あ」と言った。


私も「あ」と言った。


相原くんだけ、何も言わなかった。


でも、目だけは、二枚を行き来していた。


二枚の絵は、別々の絵だった。


サイズも違う。


紙も違う。


なのに、私の絵の止まらない色が、相原くんの線の上でなら、止まれそうに見えた。


相原くんの色の入らない線が、私の色の隣でなら、息をしそうに見えた。


どちらか一枚では、足りない。


二枚で、やっと、一枚になりかける。


「これ」


私は言った。


「一人ずつだと、足りないんだ」


「足りない」


「うん。色だけでも、線だけでも、止まらない」


相原くんは、二枚をしばらく見た。


「重ねると、どうなりますか」


「重ねない」


私は、自分でも少し驚いた。


すぐに、そう言っていた。


「重ねたら、また、見えなくなる」


「では」


「並べる。隣に、置く」


相原くんは、二枚の紙のあいだに、指を一本、置いた。


くっつけず、離さず。


ちょうど、紙一枚ぶんの距離。


「この距離なら、どちらも、消えません」


「……すごいら、それ」


私は、その指の置き方が、好きだった。


◇◇◇


玲子が、そっと部屋を出ていった。


ドアの閉まる音が、いつもより小さかった。


気をつかわれた、と思った。


少し笑った。


美術室に、二人だけになる。


二枚の絵と、夕方の光と、私たち。


「相原くん」


「はい」


私は、言葉を選んだ。


選んでいるあいだ、心臓が、勝手に速くなる。


「相原くんがいないと、描けない」


言ってから、すぐに、首を振った。


「ううん。今のは、違う」


「違いますか」


「うん。それだと、相原くんが、私の道具になる」


私は、もう一度、言い直した。


第三話で、相原くんが言ったことを、思い出していた。


便利な道具みたいに使わないでください。


あの言葉を、今も覚えている。


「相原くんと、描きたい」


私は言った。


「必要だから」


相原くんは、動かなかった。


長い時間が、過ぎた。


美術室の時計の音が、やけに大きい。


窓の外で、誰かが部活の声を出している。


その声も、遠くなる。


相原くんは、ファイルを見た。


ポケットの、ふくらみを、一度だけ、指で押さえた。


確かめるみたいに。


それから、顔を上げた。


「僕は、予定外のことが、苦手です」


「うん」


「今も、苦手です」


「うん」


「でも、天野さんといると、予定外を、少しだけ、許せます」


相原くんは、ゆっくり言った。


一つずつ、言葉を、机に置くみたいに。


「それは、楽です。でも、怖い」


「うん」


「楽で、怖いことを、僕は、ずっと、一人で抱えてきました」


私は、息を止めて、聞いていた。


「でも、今は、言えます」


相原くんは、私を見た。


「怖い、と」


「うん」


「言える相手が、必要です」


相原くんは、そこで、少し止まった。


そして、最後の一本の線を引くみたいに、言った。


「僕にも、天野さんが、必要です」


その言葉は、机の真ん中に置かれたまま、動かなかった。


私も、動かなかった。


美術室の時計が、何回か、鳴った。


二人とも、しばらく、何も言わなかった。


言わなくても、よかった。


◇◇◇


私は、泣かなかった。


泣いたら、たぶん、相原くんが手順を増やす。


だから、泣くのは、家に帰ってからにした。


「相原くん」


「はい」


「これって、告白?」


私が聞くと、相原くんは、少し考えた。


「定義を、確認したいです」


「出た」


「告白の定義が、複数あります」


「複数」


「『好きと伝えること』なら、まだです」


「まだ」


「でも『一緒にいたいと伝えること』なら、今、しました」


私は、笑った。


笑いながら、目の奥が、熱かった。


「じゃあ、半分は、告白」


「もう半分は、共同制作の宣言です」


「一つにはならない?」


「並べて、置きます」


私は、頷いた。


今度は、ちゃんと頷いた。


分かったふりではなく。


分かったから、頷いた。


恋人になるかどうかは、決めなかった。


急がなくていい。


私たちは、そういうのを、急いで決めて、何度も失敗してきた。


だから、今日は、これでいい。


好き、よりも先に。


一緒に描きたい。


隣にいたい。


必要だ。


その順番で、いい。


◇◇◇


帰り道、空は晴れていた。


一週間前の、曇った帰り道とは、違った。


夕日が、まだ高いところにある。


相原くんは、ファイルを、片手で持っていた。


一週間前より、少し、軽そうに見えた。


中身は、たぶん、同じなのに。


ふくらみも、まだ、そこにあるのに。


「相原くん」


「はい」


「次の絵、何描く?」


「決めていません」


「決めてないのに、描くの?」


「天野さんと決めます」


「私と」


「はい。一人では、決めません」


私は、その答えを、しばらく持っていた。


すぐには、色を増やさなかった。


二人で決める。


一人では描けない絵を、二人で描く。


それが、どんなかたちになるのかは、まだ分からなかった。


駅までの道に、私たちの影が伸びていた。


近くにあって、端のところだけ、少し触れている。


ひとつなのか、二本なのか。


今日は、まだ、言い切れない。


その答えは、たぶん、次に描く絵の中にある。


影は、同じ速さで、駅の方へ伸びていった。


第十八話では、歌音が一人で描く時間の中で、いったん消えた色を取り戻しました。

そのうえで、歌音は「必要だから、一緒に描きたい」と言い直し、賺は自分の不安を言葉にしながら「僕にも、天野さんが必要です」と答えます。

二人は恋人になるかどうかを急いで決めず、半分のまま隣に置く関係を選びます。

次回は、これまでのすべて――白い怪物、青い線、黒い糸、白い余白――を含む卒業制作へ向かう回です。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

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