第十七話:シンクロの代償
第十七話では、近づきすぎた二人の心が、互いを助けるだけでなく、互いを苦しくもさせます。
シンクロが強くなりすぎて、歌音は賺の不安を、賺は歌音の焦りを、自分のものとして引き受けてしまいます。
完成しかけた絵を前に、二人は一度、止まることを選びます。
海から帰ってきてから、私たちの制作は、速くなった。
速い、というか。
迷わなくなった。
相原くんが筆を取る前に、私は次の線が分かった。
私が色を選ぶ前に、相原くんが水を用意していた。
「青」
私が言う前に、相原くんが青を出している。
「今、青って言おうとした」
「はい」
「なんで分かるの」
「天野さんの右手が、青の方を向いていました」
「右手、しゃべった」
「動きました」
玲子が議事録を開く。
「右手、自白」
私は笑った。
笑いながら、少し怖くなった。
速いのは、楽しい。
でも、楽すぎる。
考える前に、手が動く。
迷う時間が、なくなっていく。
◇◇◇
その日の制作は、いつもより進んだ。
進みすぎた。
筆を置くタイミングが、揃う。
沈黙の長さが、揃う。
息を吸う場所まで、揃っていた。
「歌音」
玲子が言った。
「さっきから、二人で同じ顔してる」
「同じ顔?」
「眉のところ」
私は自分の眉に触った。
相原くんも、自分の眉に触った。
二人、同時に。
「ほら」
玲子がノートに書く。
「眉、シンクロ」
「合いすぎて、ちょっと怖いら」
私は手を下ろした。
相原くんも手を下ろした。
また、同時だった。
笑えるはずだった。
でも、笑いが、少し遅れて出た。
◇◇◇
楽しいだけでは、なかった。
ある日、相原くんが筆を止めた。
理由は、言わなかった。
でも、私には分かった。
不安だ。
外の展示のこと。
知らない人に見られること。
次の作品で、また見られること。
相原くんの不安が、私の胸の中で、勝手に膨らんだ。
私のものではない不安。
なのに、私の手が冷たくなる。
私の息が、浅くなる。
「天野さん」
相原くんが言った。
「顔色が」
「相原くんの」
私は言った。
「相原くんの不安、こっちに来てる」
相原くんは、筆を持ったまま固まった。
「来て、いますか」
「来てる。たぶん」
私たちは、しばらく動かなかった。
近い。
近すぎる。
前は、遠くにあった相原くんの心が、今は、私の隣でいっしょに震えている。
助かることもある。
でも、今日は、苦しかった。
◇◇◇
逆のことも、起きた。
私が焦ると、相原くんが揺れる。
コンテストの後、次は何を描くのか。
世界に出した後、何を出すのか。
私の中の焦りが、言葉にする前に、相原くんへ伝わる。
相原くんは、私の焦りを受け取って、手順を増やした。
確認を増やした。
線を引く前に、何度も止まる。
止まるたびに、また確認する。
「相原くん」
「はい」
「ちょっと、確認、多くない?」
「多いですか」
「うん」
「天野さんが、急いでいたので」
「私の焦り、移ってる」
「……移っているのかもしれません」
私は、口を閉じた。
私の焦りが、相原くんの手を止めている。
相原くんの不安が、私の色を奪っている。
二人で、二人を、苦しくしている。
近づいたから、助けられる。
近づいたから、引きずる。
同じ近さの、裏と表だった。
◇◇◇
その絵は、もうすぐ完成するはずだった。
大きな紙。
青い線。
私の色。
余白。
あと少し。
あと、何本かの線で、終わる。
そのはずだった。
相原くんが、最後の線を引こうとした。
青い線の、いちばん端。
そこへ、もう一本。
でも、その一本が、置けなかった。
「相原くん?」
筆先が、紙の上で止まっている。
「ここに線を足すと」
相原くんの声が、低い。
「余白に、触ります」
「触っちゃ、だめ?」
「分かりません」
その線は、ただの線ではなかった。
相原くんが、名前をつけた場所。
余白。
そのすぐ隣へ、最後の一本を引く。
引けば、絵は完成する。
でも、引いた線は、余白の意味を、変えてしまうかもしれない。
相原くんの手が、その重さで、止まった。
止まったまま、動かない。
息の音が、変だった。
速い。
浅い。
吸っているのに、足りていない。
「相原くん」
私は、絵から目を離した。
相原くんは、片手で机のふちを握っていた。
もう片方の手は、胸のあたりにあった。
息が、追いついていない。
「玲子」
私は呼んだ。
玲子はもう立っていた。
「過呼吸かも」
玲子が言う。
私は、相原くんのファイルを見た。
ポケットのところが、いつものようにふくらんでいる。
中で、形を保ったままの何か。
ほどけないもの。
それが、今日は、ひときわ重く見えた。
私は、相原くんの不安を、また自分の胸で感じた。
感じすぎて。
色が、見えなくなった。
机の上の絵。
青も。
私の色も。
全部、灰色になる。
人の心が絵に見える私から、色が消えた。
初めてだった。
◇◇◇
「歌音」
玲子の声が、遠くから聞こえた。
「白いの。白い紙片」
私は、はっとした。
白い紙片。
止まれる合図。
私は、机の端から白い紙片を取ろうとした。
手が、灰色の中で迷う。
それでも、指が、白を見つけた。
色が見えなくても、白だけは、分かった。
私は、それを机の真ん中に置いた。
相原くんの、止まった筆の隣に。
「止まろう」
私は言った。
声が、震えていた。
「相原くん、止まろう。完成、しなくていい」
相原くんは、白い紙片を見た。
胸を押さえたまま。
息は、まだ速い。
でも、目だけは、白い紙片を見ていた。
「呼吸の」
相原くんが、切れ切れに言った。
「手順、します」
「うん」
「数えて、ください」
「数える」
私は数えた。
色は見えないまま。
数だけ、数えた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
相原くんの息が、少しずつ、長くなる。
私の数える声に、合わせて。
今日は、それでよかった。
シンクロが、ここでは、助けになった。
◇◇◇
絵は、未完成のまま、机に残された。
あと少しで完成する絵。
そのあと少しが、いちばん遠かった。
玲子が、二人の前に座った。
水を二つ、置いた。
「飲んで」
「玲子の奢り?」
私が言うと、玲子は鼻で笑った。
「水道水」
「太っ腹」
少しだけ、息ができた。
私たちは飲んだ。
灰色だった世界に、少しずつ色が戻ってくる。
水の色。
机の色。
相原くんの、白いシャツの色。
「あのさ」
玲子が言った。
いつもの乾いた声で。
でも、ふざけていなかった。
「二人、近づきすぎ」
「うん」
「近いのは、いいことだと思ってた。私も」
玲子は、自分の水を見た。
「でも、近すぎると、片方が転ぶと、両方転ぶ」
「うん」
「必要なのは、ひとつになることじゃない」
玲子は、私と相原くんを、順番に見た。
「隣に、戻れること」
私は、その言葉を、すぐには受け取れなかった。
◇◇◇
「一回、離れよう」
私は言った。
言ってから、胸が痛くなった。
離れる。
近づくために、あんなに頑張ったのに。
「離れる、ですか」
相原くんが聞いた。
「うん。共同制作、一回止める」
「やめる、ではなく」
「やめない。止める」
私は、白い紙片を見た。
机の真ん中の、白。
「これと、同じ。止まるだけ」
相原くんは、長く考えた。
それから、頷いた。
「分かりました」
「一人で、描いてみる」
「僕も、一人で、描きます」
「うん」
「離れて、また、隣に戻れるか」
相原くんは、自分の言葉を、確かめるように言った。
「試します」
玲子が、議事録を開いた。
でも、すぐには書かなかった。
「これは、書く?」
私が聞くと、玲子はペンを置いた。
「書く」
「珍しい」
「大事なことは、書く」
玲子は、一行だけ書いた。
私には、何を書いたか見えなかった。
でも、玲子の手が、いつもより、丁寧だった。
◇◇◇
帰り道、相原くんと、駅まで歩いた。
未完成の絵は、美術室に置いてきた。
カバンは、いつもより軽いはずだった。
でも、重かった。
「相原くん」
「はい」
「離れても、隣にいる、って」
私は、言葉を探した。
「変、かな」
相原くんは、少し考えた。
「離れると、隣ではない気がします」
「だよね」
「でも」
相原くんは続けた。
「離れたあと、また隣に来られるなら」
「うん」
「それは、いったん離れただけです」
私は、その言い方を、しばらく持っていた。
いったん、離れただけ。
捨てるのではなく。
なかったことにするのでもなく。
ただ、いったん。
「一人で描いた絵、見せ合う?」
「いつか」
「今日じゃなくて」
「はい。今日は、無理です」
その言い方が、いつかと同じだった。
黒い台紙の日と、同じ言い方。
でも、今日は、少しだけ、軽かった。
無理です、の後ろに、いつか、がついていた。
◇◇◇
駅で、別れた。
相原くんは、自分のホームへ。
私は、反対のホームへ。
線路を挟んで、二人、立っていた。
近くはない。
声も、届かない。
でも、相原くんがこっちを見ているのが、分かった。
私も、見ていた。
電車が来て、相原くんのホームを隠した。
見えなくなる。
でも、いなくなったわけではない。
線路の向こうに、ちゃんといる。
私は、自分の電車を待った。
色は、もう、全部見えていた。
夕方の空の色も。
ホームの黄色い線も。
ただ、相原くんの心の絵だけは、今日は、見ようとしなかった。
見なくても、いる。
離れていても、隣に、戻れる。
そのための、今日の距離だった。
第十七話では、二人の制作が一度こわれました。
玲子の「必要なのは、ひとつになることじゃない。隣に戻れること」という言葉をきっかけに、歌音と賺は共同制作をいったん止め、それぞれ一人で描くことを決めます。
離れることは、捨てることでも、なかったことにすることでもありません。また隣に戻るための距離です。
次回は、一人ずつ描いた二人が、もう一度向き合い、互いを必要だと言う回です。




