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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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18/21

第十七話:シンクロの代償

第十七話では、近づきすぎた二人の心が、互いを助けるだけでなく、互いを苦しくもさせます。

シンクロが強くなりすぎて、歌音は賺の不安を、賺は歌音の焦りを、自分のものとして引き受けてしまいます。

完成しかけた絵を前に、二人は一度、止まることを選びます。


海から帰ってきてから、私たちの制作は、速くなった。


速い、というか。


迷わなくなった。


相原くんが筆を取る前に、私は次の線が分かった。


私が色を選ぶ前に、相原くんが水を用意していた。


「青」


私が言う前に、相原くんが青を出している。


「今、青って言おうとした」


「はい」


「なんで分かるの」


「天野さんの右手が、青の方を向いていました」


「右手、しゃべった」


「動きました」


玲子が議事録を開く。


「右手、自白」


私は笑った。


笑いながら、少し怖くなった。


速いのは、楽しい。


でも、楽すぎる。


考える前に、手が動く。


迷う時間が、なくなっていく。


◇◇◇


その日の制作は、いつもより進んだ。


進みすぎた。


筆を置くタイミングが、揃う。


沈黙の長さが、揃う。


息を吸う場所まで、揃っていた。


「歌音」


玲子が言った。


「さっきから、二人で同じ顔してる」


「同じ顔?」


「眉のところ」


私は自分の眉に触った。


相原くんも、自分の眉に触った。


二人、同時に。


「ほら」


玲子がノートに書く。


「眉、シンクロ」


「合いすぎて、ちょっと怖いら」


私は手を下ろした。


相原くんも手を下ろした。


また、同時だった。


笑えるはずだった。


でも、笑いが、少し遅れて出た。


◇◇◇


楽しいだけでは、なかった。


ある日、相原くんが筆を止めた。


理由は、言わなかった。


でも、私には分かった。


不安だ。


外の展示のこと。


知らない人に見られること。


次の作品で、また見られること。


相原くんの不安が、私の胸の中で、勝手に膨らんだ。


私のものではない不安。


なのに、私の手が冷たくなる。


私の息が、浅くなる。


「天野さん」


相原くんが言った。


「顔色が」


「相原くんの」


私は言った。


「相原くんの不安、こっちに来てる」


相原くんは、筆を持ったまま固まった。


「来て、いますか」


「来てる。たぶん」


私たちは、しばらく動かなかった。


近い。


近すぎる。


前は、遠くにあった相原くんの心が、今は、私の隣でいっしょに震えている。


助かることもある。


でも、今日は、苦しかった。


◇◇◇


逆のことも、起きた。


私が焦ると、相原くんが揺れる。


コンテストの後、次は何を描くのか。


世界に出した後、何を出すのか。


私の中の焦りが、言葉にする前に、相原くんへ伝わる。


相原くんは、私の焦りを受け取って、手順を増やした。


確認を増やした。


線を引く前に、何度も止まる。


止まるたびに、また確認する。


「相原くん」


「はい」


「ちょっと、確認、多くない?」


「多いですか」


「うん」


「天野さんが、急いでいたので」


「私の焦り、移ってる」


「……移っているのかもしれません」


私は、口を閉じた。


私の焦りが、相原くんの手を止めている。


相原くんの不安が、私の色を奪っている。


二人で、二人を、苦しくしている。


近づいたから、助けられる。


近づいたから、引きずる。


同じ近さの、裏と表だった。


◇◇◇


その絵は、もうすぐ完成するはずだった。


大きな紙。


青い線。


私の色。


余白。


あと少し。


あと、何本かの線で、終わる。


そのはずだった。


相原くんが、最後の線を引こうとした。


青い線の、いちばん端。


そこへ、もう一本。


でも、その一本が、置けなかった。


「相原くん?」


筆先が、紙の上で止まっている。


「ここに線を足すと」


相原くんの声が、低い。


「余白に、触ります」


「触っちゃ、だめ?」


「分かりません」


その線は、ただの線ではなかった。


相原くんが、名前をつけた場所。


余白。


そのすぐ隣へ、最後の一本を引く。


引けば、絵は完成する。


でも、引いた線は、余白の意味を、変えてしまうかもしれない。


相原くんの手が、その重さで、止まった。


止まったまま、動かない。


息の音が、変だった。


速い。


浅い。


吸っているのに、足りていない。


「相原くん」


私は、絵から目を離した。


相原くんは、片手で机のふちを握っていた。


もう片方の手は、胸のあたりにあった。


息が、追いついていない。


「玲子」


私は呼んだ。


玲子はもう立っていた。


「過呼吸かも」


玲子が言う。


私は、相原くんのファイルを見た。


ポケットのところが、いつものようにふくらんでいる。


中で、形を保ったままの何か。


ほどけないもの。


それが、今日は、ひときわ重く見えた。


私は、相原くんの不安を、また自分の胸で感じた。


感じすぎて。


色が、見えなくなった。


机の上の絵。


青も。


私の色も。


全部、灰色になる。


人の心が絵に見える私から、色が消えた。


初めてだった。


◇◇◇


「歌音」


玲子の声が、遠くから聞こえた。


「白いの。白い紙片」


私は、はっとした。


白い紙片。


止まれる合図。


私は、机の端から白い紙片を取ろうとした。


手が、灰色の中で迷う。


それでも、指が、白を見つけた。


色が見えなくても、白だけは、分かった。


私は、それを机の真ん中に置いた。


相原くんの、止まった筆の隣に。


「止まろう」


私は言った。


声が、震えていた。


「相原くん、止まろう。完成、しなくていい」


相原くんは、白い紙片を見た。


胸を押さえたまま。


息は、まだ速い。


でも、目だけは、白い紙片を見ていた。


「呼吸の」


相原くんが、切れ切れに言った。


「手順、します」


「うん」


「数えて、ください」


「数える」


私は数えた。


色は見えないまま。


数だけ、数えた。


ひとつ。


ふたつ。


みっつ。


相原くんの息が、少しずつ、長くなる。


私の数える声に、合わせて。


今日は、それでよかった。


シンクロが、ここでは、助けになった。


◇◇◇


絵は、未完成のまま、机に残された。


あと少しで完成する絵。


そのあと少しが、いちばん遠かった。


玲子が、二人の前に座った。


水を二つ、置いた。


「飲んで」


「玲子の奢り?」


私が言うと、玲子は鼻で笑った。


「水道水」


「太っ腹」


少しだけ、息ができた。


私たちは飲んだ。


灰色だった世界に、少しずつ色が戻ってくる。


水の色。


机の色。


相原くんの、白いシャツの色。


「あのさ」


玲子が言った。


いつもの乾いた声で。


でも、ふざけていなかった。


「二人、近づきすぎ」


「うん」


「近いのは、いいことだと思ってた。私も」


玲子は、自分の水を見た。


「でも、近すぎると、片方が転ぶと、両方転ぶ」


「うん」


「必要なのは、ひとつになることじゃない」


玲子は、私と相原くんを、順番に見た。


「隣に、戻れること」


私は、その言葉を、すぐには受け取れなかった。


◇◇◇


「一回、離れよう」


私は言った。


言ってから、胸が痛くなった。


離れる。


近づくために、あんなに頑張ったのに。


「離れる、ですか」


相原くんが聞いた。


「うん。共同制作、一回止める」


「やめる、ではなく」


「やめない。止める」


私は、白い紙片を見た。


机の真ん中の、白。


「これと、同じ。止まるだけ」


相原くんは、長く考えた。


それから、頷いた。


「分かりました」


「一人で、描いてみる」


「僕も、一人で、描きます」


「うん」


「離れて、また、隣に戻れるか」


相原くんは、自分の言葉を、確かめるように言った。


「試します」


玲子が、議事録を開いた。


でも、すぐには書かなかった。


「これは、書く?」


私が聞くと、玲子はペンを置いた。


「書く」


「珍しい」


「大事なことは、書く」


玲子は、一行だけ書いた。


私には、何を書いたか見えなかった。


でも、玲子の手が、いつもより、丁寧だった。


◇◇◇


帰り道、相原くんと、駅まで歩いた。


未完成の絵は、美術室に置いてきた。


カバンは、いつもより軽いはずだった。


でも、重かった。


「相原くん」


「はい」


「離れても、隣にいる、って」


私は、言葉を探した。


「変、かな」


相原くんは、少し考えた。


「離れると、隣ではない気がします」


「だよね」


「でも」


相原くんは続けた。


「離れたあと、また隣に来られるなら」


「うん」


「それは、いったん離れただけです」


私は、その言い方を、しばらく持っていた。


いったん、離れただけ。


捨てるのではなく。


なかったことにするのでもなく。


ただ、いったん。


「一人で描いた絵、見せ合う?」


「いつか」


「今日じゃなくて」


「はい。今日は、無理です」


その言い方が、いつかと同じだった。


黒い台紙の日と、同じ言い方。


でも、今日は、少しだけ、軽かった。


無理です、の後ろに、いつか、がついていた。


◇◇◇


駅で、別れた。


相原くんは、自分のホームへ。


私は、反対のホームへ。


線路を挟んで、二人、立っていた。


近くはない。


声も、届かない。


でも、相原くんがこっちを見ているのが、分かった。


私も、見ていた。


電車が来て、相原くんのホームを隠した。


見えなくなる。


でも、いなくなったわけではない。


線路の向こうに、ちゃんといる。


私は、自分の電車を待った。


色は、もう、全部見えていた。


夕方の空の色も。


ホームの黄色い線も。


ただ、相原くんの心の絵だけは、今日は、見ようとしなかった。


見なくても、いる。


離れていても、隣に、戻れる。


そのための、今日の距離だった。

第十七話では、二人の制作が一度こわれました。

玲子の「必要なのは、ひとつになることじゃない。隣に戻れること」という言葉をきっかけに、歌音と賺は共同制作をいったん止め、それぞれ一人で描くことを決めます。

離れることは、捨てることでも、なかったことにすることでもありません。また隣に戻るための距離です。

次回は、一人ずつ描いた二人が、もう一度向き合い、互いを必要だと言う回です。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

続きが気になった方は、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです。

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