第十六話:世界学生芸術展
第十六話では、二人で描いた『境界線の向こうにいる白』が、海を越えた学生芸術展へ進みます。
歌音は「世界」に舞い上がりますが、行くかどうかを決めるのは賺です。
賺は予定表と出口の地図と翻訳メモを作り、自分のやり方で参加を選びます。
放課後、先生が一枚の封筒を持って美術室に入ってきた。
「天野、相原。ちょっといいか」
封筒は、白かった。
横文字が印刷されている。
私は筆を持ったまま、その横文字を読もうとした。
読めなかった。
「外国の」
先生が言った。
「学生芸術展に、推薦が来た」
私は筆を落とした。
「世界」
声が出た。
「世界?」
「まあ、海の向こうだな」
「世界!」
私はもう一度言った。
二回目の方が大きかった。
「玲子、世界だら!」
玲子が議事録のノートを開く。
「本日、歌音が世界デビュー」
「まだしてない」
「予約」
「予約はした」
私は立ち上がっていた。
いつ立ったのか、自分でも分からなかった。
相原くんは、座ったままだった。
封筒を見ている。
横文字を見ている。
そして、動かなかった。
◇◇◇
「『境界線の向こうにいる白』が」
先生が封筒の中身を机に広げた。
「向こうの学生芸術展で、展示されることになった」
紙には、地図と、日付と、また横文字があった。
「日本の高校生の共同制作として、出すそうだ」
「共同制作」
私はその言葉を繰り返した。
二人で描いた絵。
それが、海を越える。
胸の奥が、勝手に明るくなる。
「行きたい」
言ってから、口を閉じた。
早かった。
また、私の勢いだけが先に出た。
私は相原くんを見た。
相原くんは、まだ封筒を見ていた。
「相原くん」
「はい」
返事は、いつも通りだった。
でも、声の置き場所が、いつもより低い。
「行くかどうかは」
私は言葉を選んだ。
「相原くんが決めること」
相原くんは顔を上げた。
少しだけ、私を見た。
「確認したいことがあります」
「うん」
「飛行機ですか」
「たぶん」
「何時間ですか」
「分からない」
「言葉は、通じますか」
「通じない、と思う」
「人は、多いですか」
「……多いと思う」
相原くんは、一つずつ聞いた。
質問は、不安の形をしていた。
でも、ばらばらではなかった。
順番がある。
飛行機、時間、言葉、人。
その順番が、相原くんの中の手すりみたいだった。
「決めるのは、明日でいいですか」
「いいよ」
私はすぐに言った。
「明日じゃなくてもいい。来週でも」
「明日にします」
相原くんは封筒を閉じた。
「決める日を決めました」
玲子がノートに書く。
「決定日、決定」
◇◇◇
次の日、相原くんはノートを持ってきた。
黒い台紙が入っている、あのファイルとは別のノート。
新しいノートだった。
机に置く。
開く。
中には、表があった。
時間が、縦に並んでいる。
「予定表です」
「予定表」
「家を出る時間。空港に着く時間。飛行機の時間」
相原くんは指でなぞった。
「ここが、休憩です」
表の途中に、色のついた行があった。
薄い灰色。
「休憩を、先に決めました」
「先に?」
「疲れる前に、休む場所を決めておくと、楽です」
玲子が表をのぞき込む。
「休憩、予約制」
「はい」
「人生で見た中で一番きれいな時間割」
「ありがとうございます」
「褒めてない、けど、褒めてる」
私も表を見た。
きれいだった。
ぎっしりではない。
ところどころ、わざと空いている。
その空白が、薄い灰色で塗られている。
休む場所。
逃げる場所。
相原くんは、もう一枚出した。
地図だった。
会場の地図。
赤い丸が、いくつもついている。
「これは?」
「出口です」
「全部?」
「分かる範囲で、全部」
「多い」
「多い方が、安心します」
私は赤い丸を数えようとして、やめた。
数えるより、その丸の意味が分かったからだ。
逃げ道を、先に全部見ておく。
そうすれば、立っていられる。
「あと、これも」
相原くんは小さなカードを出した。
横文字が手書きで書いてある。
「翻訳メモです」
「何て書いてあるの」
「『少し休みます』『大丈夫です』『ありがとう』」
「全部、自分で書いたの」
「はい。発音は、まだ不安です」
「練習する?」
相原くんは少し考えた。
「天野さんの前でなら」
私は、その一言で、少しだけ泣きそうになった。
泣かなかった。
泣いたら、たぶん相原くんが手順を増やす。
◇◇◇
「相原くん」
「はい」
「行くの?」
私は聞いた。
聞いてから、心臓が速くなった。
決めるのは相原くん。
それは分かっている。
分かっているのに、答えを待つ時間が、長い。
相原くんは、予定表を閉じた。
それから、新しいノートも閉じた。
そして、あのファイルを開いた。
黒い台紙が入っている、いつものファイル。
ポケットのところが、少しふくらんでいる。
中で、何かが言うことを聞かずに、形を保っている。
相原くんは、そのふくらみに一度だけ触れた。
確かめるみたいに。
それから、手を離した。
「行きます」
「……うん」
「理由を、言ってもいいですか」
「うん」
私は身を乗り出した。
たぶん、顔がうるさかった。
玲子が「顔」と言いかけて、やめた。
今日は、やめた。
「あの絵は」
相原くんは、ゆっくり言った。
「僕の線と、天野さんの色で、できています」
「うん」
「僕一人の線では、外まで届きません」
「うん」
「でも、二人の絵なら、届くかもしれない」
相原くんは、ファイルを閉じた。
「届くかどうか、見たいです」
私は頷かなかった。
頷く代わりに、筆を置いた。
きれいに、音を立てずに。
「私も、見たい」
それだけ言った。
◇◇◇
出発の日、玲子は空港まで来なかった。
学校の前で、見送った。
「議事録は?」
私が聞くと、玲子はノートを鞄にしまった。
「向こうのは、書けない」
「なんで」
「横文字、読めない」
「正直」
「読める範囲で、心配しとく」
玲子は、私の肩を一回叩いた。
それから、相原くんを見た。
「相原くん」
「はい」
「出口、全部覚えた?」
「はい」
「じゃあ、大丈夫」
玲子は、それだけ言った。
いつもの乾いた声だった。
でも、最後の「大丈夫」だけ、少し湿っていた。
相原くんは、少し考えてから言った。
「三島さんの分の出口も、覚えています」
玲子は、横を向いた。
「……それ、ずるい」
笑っていた。
泣くのを、笑いでごまかしていた。
私は、見ないふりをした。
今日は、見ないふりが、正しい気がした。
◇◇◇
会場は、海を越えた国の、古い建物の中だった。
天井が高い。
声が、上の方で溶ける。
人が、たくさんいた。
言葉が、分からない。
右からも、左からも、知らない音が流れてくる。
私は、少し怖くなった。
世界、と叫んでいた自分が、急に小さくなる。
相原くんを見た。
相原くんは、予定表を持っていた。
灰色の休憩の行を、指で押さえている。
「今、どこ?」
私が小声で聞くと、相原くんは表を見た。
「休憩の、五分前です」
「じゃあ、もうすぐ休める」
「はい。あと五分、立っていられます」
その言い方が、いつも通りだった。
私は、少し息ができた。
◇◇◇
絵は、会場の奥にあった。
『境界線の向こうにいる白』。
私たちの絵。
海を越えて、ここにある。
白い余白。
青い線。
その隣に、私の色。
見覚えのある絵なのに、知らない場所にあると、別の絵みたいに見えた。
人が、絵の前を通る。
通り過ぎる人もいる。
でも、何人かは、止まった。
止まって、白い余白を見ていた。
知らない言葉で、何か話している。
私には、意味が分からない。
でも、声の高さで、分かることがあった。
驚いている。
困っている。
少し、泣きそうになっている。
一人の女の人が、青い線を指でなぞるみたいに見ていた。
何も描いていない、白いところを。
その人は、長く立っていた。
言葉は、一つも通じない。
それでも、その人は、白い余白の前から動かなかった。
私は、隣の相原くんを見た。
相原くんも、その人を見ていた。
「天野さん」
「うん」
「あの人に、何が見えていると思いますか」
私は、考えた。
いつもなら、すぐ言った。
見えたものを、そのまま言った。
でも、今日は、止まった。
「分からない」
私は言った。
「私には、あの人の心は見えない」
言葉が、通じない人。
絵の見え方も、たぶん私とは違う。
それなのに、あの人は、止まっている。
「でも」
私は続けた。
「何か、届いてる」
相原くんは、少しだけ頷いた。
「言葉より、広いですね」
「うん」
「絵は、出口が多いのかもしれません」
私は、その言い方が好きだった。
出口が多い。
逃げ道ではなくて、入り口の数として。
知らない国の人が、白い余白から、自分の中へ入っていく。
私が描いたのとは、たぶん違う絵を、その人は見ている。
それでいい、と思った。
あの絵は、もう、私たちだけのものではない。
◇◇◇
休憩の時間になった。
相原くんは、予定通り、会場の隅の椅子に座った。
灰色の行の場所。
私も隣に座った。
翻訳メモのカードが、相原くんの手の中にあった。
少し、しわになっている。
何度も触ったあとだった。
「使った?」
私が聞くと、相原くんはカードを見た。
「一回、使いました」
「どれ?」
「『ありがとう』」
「誰に」
「絵を見て、頷いてくれた人に」
相原くんは、カードをポケットに戻した。
「発音は、たぶん、間違えました」
「通じた?」
「相手も、頷きました」
「じゃあ、通じた」
「通じた、ということにします」
私は笑った。
会場の高い天井の下で、私の笑い声は、小さく溶けた。
でも、隣の相原くんには、届いたと思う。
◇◇◇
帰り道。
知らない街の、知らない道。
空は、日本と同じ色だった。
雲の形だけ、少し違う気がした。
相原くんは、ファイルを持っていた。
予定表も、地図も、しまってある。
ポケットの、あのふくらみも、まだそこにある。
ほどけていない。
海を越えても、ほどけなかった。
でも、相原くんは、それを置いてこなかった。
ちゃんと、持って帰る。
「相原くん」
「はい」
「世界、どうだった」
相原くんは、少し考えた。
「出口が、多かったです」
「会場の?」
「絵の方も」
私は、その答えを、しばらく持っていた。
すぐには、意味を増やさなかった。
ただ、隣で同じ道を歩いた。
知らない街の細い道に、薄い影が伸びていた。
私たちのものではない、誰かの影も、その隣にあった。
言葉は、まだ通じない。
でも、足音は、同じ高さで鳴っていた。
第十六話では、二人の絵が言葉の通じない場所で、見知らぬ人の前に立ちました。
歌音は、相手の心が見えなくても何かが届くことを知ります。
ファイルのふくらみは、海を越えてもほどけないまま、けれど置いてこられることもなく、二人と一緒に帰ってきました。
次回は、近づきすぎた二人の心が、互いを助けるだけでなく苦しくもさせる回です。




