第十五話:ほどけない黒い糸
第十五話では、「余白」という名前の奥に残っていた黒い糸へ触れます。
歌音は賺の過去の断片を見てしまいますが、今回はすぐに語らず、話していいかを確認します。
次の日、相原くんは黒い糸を持ってきた。
本当に、糸だった。
比喩ではない。
黒い刺繍糸。
小さな紙の台紙に巻かれているやつ。
美術室の机の上に置かれた瞬間、私は筆を持ったまま固まった。
「黒」
声が出た。
「はい」
相原くんは鞄からファイルを出しながら答えた。
「今日は黒が必要だと思いました」
玲子が隣で身を乗り出す。
「糸?」
「はい」
「絵の具じゃなくて?」
「絵の具も使います」
「糸も?」
「はい」
「会議に新メンバー」
私は黒い糸を見る。
細い。
軽い。
でも、机の上にあるだけで、空気の重さが変わる。
昨日ついた名前。
余白。
その名前が、まだファイルの一番上にある。
それなのに今日は、黒い糸。
白の次に黒が来るのは、順番として分かりやすい。
分かりやすすぎて、少し怖い。
「何に使うの?」
私が聞くと、相原くんは台紙を指で押さえた。
「線です」
「線」
「鉛筆ではなく、置く線」
「貼る?」
「まだ決めていません」
玲子が黒い糸を見た。
「糸って、ほどけると大変だよね」
「はい」
相原くんは即答した。
「絡まると、元に戻すのに時間がかかります」
「経験者の声」
「はい」
「刺繍するの?」
「しません」
「じゃあ、家庭科ではない」
「美術です」
「糸の所属確認、完了」
私は少し笑った。
でも、笑いは机の上で止まった。
黒い糸のそばに、白いページがある。
昨日、右上に大きな白を残した絵。
そこへ黒い線を置く。
それが必要なのか、まだ分からない。
分からないのに、私の右手は、黒の絵の具へ伸びそうになっていた。
「歌音」
玲子が言う。
「右手」
「分かってる」
「分かってる右手じゃなかった」
私は右手を膝の上へ置いた。
右手、今日は早退。
◇◇◇
相原くんは、机の上に紙を並べた。
昨日の絵。
候補の紙。
余白、と書かれた紙。
そして、黒い糸。
順番はそのまま。
余白の紙が一番上。
その下に、外側の記事。
今日は、その隣に黒い糸がある。
私はそれを見て、息を吸い直した。
「今日、何を描くか決めてる?」
「決めていません」
「決めてないのに、黒い糸」
「はい」
「強い」
「強いですか」
「存在感が」
相原くんは黒い糸を見る。
「細いですが」
「細くても強いものはある」
言ってから、私は口を閉じた。
今のは、少し踏み込みすぎたかもしれない。
細いけれど強い。
黒い糸。
相原くんの中の何か。
勝手につなげそうになった。
「ごめん」
「何がですか」
「今、ちょっと勝手に意味を増やしかけた」
相原くんは少し考えた。
「増えましたか」
「増えかけた」
「止まったなら、大丈夫です」
その言葉が、机の上に静かに置かれた。
止まったなら。
大丈夫。
私は筆を取る。
黒ではなく、薄い青。
昨日の白い場所の下へ、水を多めに含ませた色を置く。
相原くんは鉛筆を持った。
でも、引かない。
代わりに、糸を台紙からほどいた。
糸が、机の上に伸びる。
細い黒。
まっすぐではない。
くるりと癖がついている。
それを、相原くんは紙の上に置いた。
左下から、中央へ。
昨日の線とは違う場所。
私は息を止める。
黒い糸は、白い場所には届かない。
途中で止まっている。
「ここ?」
私が聞くと、相原くんは頷かなかった。
「まだです」
「うん」
「置いてみただけです」
「分かった」
玲子が少し離れた席から見ている。
今日はいつもより静かだ。
議事録係も、黒い糸にはすぐ突っ込まない。
糸は机の上で揺れた。
窓から入った風のせいだった。
「飛びそう」
玲子が言った。
「飛ぶ可能性があります」
相原くんはすぐに筆置きを取った。
黒い糸の端を、そっと押さえる。
「黒い糸、固定」
玲子が小さく言う。
「議事録?」
私が聞く。
「うん。でも今日は小声」
「なんで?」
「糸が起きそう」
「糸は寝ません」
相原くんが真面目に言った。
その返事がいつも通りで、私は少し安心した。
◇◇◇
制作は進んでいるようで、進んでいなかった。
糸を置く。
ずらす。
外す。
また置く。
黒い糸は、思ったより言うことを聞かない。
少し動かすだけで、曲がる。
曲がったと思ったら、戻る。
戻ったと思ったら、端が跳ねる。
「糸、反抗期」
私が言うと、玲子が頷いた。
「中二くらい」
「黒いし?」
「黒いからって中二にしない」
「黒い糸にも年齢はありません」
相原くんが言った。
「正論」
私は笑った。
笑ったあと、黒い糸を見る。
笑える。
でも、笑いだけでは済まない。
この糸は、何かを呼んでいる。
そう思った瞬間、視界の端が白く揺れた。
私は、見ようとしたわけではない。
本当に。
見ようとしていない。
でも、見えた。
相原くんの心の絵。
前より、はっきりではない。
薄い水彩の下に、別の絵が透けるみたいに。
白い場所。
大きな白い怪物。
いや。
余白。
その角に、黒い糸が巻きついている。
細い。
でも、何重にも。
ほどけそうで、ほどけない。
糸の先には、小さな手が見えた。
子供の手。
たぶん、相原くんの手。
もっと小さい。
廊下。
誰かが泣いている。
倒れた水筒。
濡れたプリント。
大きな声。
「触らないで」
「なんでそんなことするの」
「こわい」
言葉が、絵の中で黒く絡まった。
私は息を吸った。
吸えなかった。
目の前の美術室に戻る。
机。
黒い糸。
相原くん。
玲子。
水入れ。
私は筆を置いた。
音が少し大きかった。
かつん。
相原くんがこちらを見る。
「天野さん?」
私は、自分の右手を見た。
震えてはいない。
でも、冷たい。
見えた。
言いたい。
聞きたい。
何があったの。
誰が言ったの。
相原くんは何をしようとしたの。
質問が、喉のところでひとかたまりになる。
でも、出さない。
白い紙片。
机の端。
私はそれを取って、机の中央に置いた。
玲子がすぐに鉛筆を置いた。
相原くんも黒い糸から手を離した。
「見えました」
私は言った。
声が、思ったより小さかった。
「ごめん。見ようとしたわけじゃない。でも、見えました」
相原くんは動かなかった。
黒い糸は筆置きの下で止まっている。
「話していいか」
私は言葉を探した。
「聞いてもいいか、聞いてもいいですか」
言葉が変だ。
でも、変なまま置いた。
今、きれいに言い直す余裕がない。
相原くんは白い紙片を見ている。
長い沈黙。
廊下の音。
遠くのチャイム。
美術室の時計。
全部がゆっくりになる。
「今日は」
相原くんが言った。
そこで止まった。
私は待った。
「今日は、無理です」
私は頷かなかった。
頷くと、分かったふりになりそうだった。
代わりに、筆をパレットの横へ置き直した。
「分かった」
それだけ言った。
相原くんは息を吐いた。
玲子は何も言わなかった。
本当に何も言わなかった。
議事録も、今日は閉じていた。
◇◇◇
片付けは、いつもより遅かった。
黒い糸を台紙へ戻すのに時間がかかったからだ。
糸は、戻ろうとしない。
指にひっかかる。
端が跳ねる。
ゆるく巻くと、ふくらむ。
きつく巻くと、曲がる。
「難しい」
私が言うと、相原くんは台紙を持ったまま答えた。
「はい」
「手伝っていい?」
相原くんは糸を見た。
私を見る。
また糸を見る。
「今日は、ここだけお願いします」
彼は糸の端を指さした。
「端?」
「はい。そこを押さえてください」
「分かった」
私は糸の端をそっと押さえた。
強くしない。
引っぱらない。
ただ、逃げないように。
相原くんがゆっくり巻く。
一周。
二周。
黒い糸が台紙に戻っていく。
全部はきれいに戻らない。
ふくらみが残る。
でも、ほどけてはいない。
「これでいい?」
私が聞くと、相原くんは台紙を見た。
「完全ではありません」
「うん」
「でも、今日はこれでいいです」
その言葉を聞いて、胸の真ん中が痛くなった。
今日はこれでいい。
全部ほどかなくていい。
全部聞かなくていい。
全部見なかったことにも、しなくていい。
相原くんは黒い糸をファイルへしまった。
余白の紙の下ではなく、同じポケットの別の場所へ。
混ぜない。
隠さない。
でも、一番上にも置かない。
その位置が、今日の答えみたいだった。
「天野さん」
「うん」
「さっき見えたものを、絵にしないでください」
「しない」
私はすぐに言った。
早すぎたかもしれない。
でも、それだけは早く言いたかった。
「誰にも話さないでください」
「話さない」
「三島さんにも」
玲子が静かに頷いた。
「聞かない」
相原くんは玲子を見た。
「ありがとうございます」
「うん」
玲子の声は、いつもより低かった。
相原くんはファイルを閉じる。
「いつか、話せるかもしれません」
「うん」
「でも、今日は無理です」
「うん」
私はスケッチブックを閉じた。
今日の白いページには、糸の跡が残っている。
実際には、糸を置いただけだから跡はない。
でも、私には残っているように見えた。
それを描きたいとは思わなかった。
描いたら、違うものになってしまう。
相原くんのものではなく、私が見つけた物語になってしまう。
だから、閉じた。
◇◇◇
帰り道、空は曇っていた。
雨は降っていない。
でも、傘を持ってきた方がよかったかもしれない空。
玲子は駅とは反対方向へ帰った。
「今日は議事録なし」
別れ際、そう言った。
「いいの?」
私が聞くと、玲子は鞄を肩にかけ直した。
「記録しない日も必要」
「玲子」
「何」
「ありがとう」
「チョコでいいよ」
「時給?」
「守秘手当」
「高そう」
「高いよ」
玲子は手を振って行った。
最後まで玲子だった。
私は少し笑った。
でも、笑ったあと、横にいる相原くんを見る。
彼はファイルを両手で持っていた。
いつもより、少し強く。
「相原くん」
「はい」
「今日は、聞かない」
「はい」
「でも、隣にはいる」
言ってから、少し不安になった。
重いかもしれない。
近すぎるかもしれない。
相原くんは歩く速度を変えなかった。
「それなら、大丈夫です」
私は息を吐いた。
駅までの道に、細いひび割れがある。
黒い線みたいに、アスファルトの上を伸びている。
私はそれを見ながら歩いた。
踏まないように。
避けすぎないように。
相原くんも、同じひび割れを見ていた。
でも、何も言わなかった。
黒い糸は、ファイルの中にある。
ほどけていない。
でも、捨てられてもいない。
今日の私たちは、それを持ったまま帰った。
空はまだ曇っている。
雨は、まだ落ちてこなかった。
第十五話では、賺の心に巻きついた黒い糸の記憶が少しだけ見えました。
けれど、賺は「今日は無理です」と答え、歌音はそれを受け入れます。
次回は、世界学生芸術展へ向けて、二人の絵がさらに外へ進む回です。




