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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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15/21

第十四話:白い怪物の名前

第十四話では、第十三話で外側の言葉にさらされた賺が、自分の中の白い怪物に名前をつけます。

訂正しても残る言葉がある一方で、賺は自分で置く言葉を一番上に選びます。


広報の記事は、三日後に出た。


先生が印刷して、美術室に持ってきた。


新聞より少し薄い紙。


学校のプリントより少し硬い紙。


そこに、私たちの絵の写真が載っていた。


『境界線の向こうにいる白』


青い線。


右上の白。


中央の灰色の帯。


写真になると、色は浅くなる。


それでも、白い場所は白いままだった。


「載ってる」


私は紙を覗き込んだ。


「今度は、ちゃんと相原くんの言葉もある」


先生が指さした先に、小さな引用があった。


『なくなったわけではなく、描く手順が増えました』


私は胸のあたりに手を置きそうになって、やめた。


そこに手を置くと、また大げさになる。


代わりに、紙の端を指で押さえた。


「載ってる」


もう一度言った。


相原くんは私の隣で、その一文を見ていた。


「はい」


「そのままではない?」


「少し短くなっています」


「そっか」


「でも、意味は大きく変わっていません」


先生がほっとした顔をした。


「よかった」


玲子が後ろから覗いた。


「今回は紙が反省してる」


「紙は反省しません」


相原くんが即答する。


「じゃあ、広報の人が反省してる」


「反省というより、確認してくれたのだと思います」


「相原くん、広報の人に優しい」


「事実です」


私は記事の上の方を見る。


見出し。


『白い余白に込めた二人の距離』


前より、ずれていない。


でも、全部がぴったりでもない。


二人の距離。


それは間違いではない。


ただ、私たちが毎日机の角度や筆洗いの位置や白い紙片の場所で作ってきたものより、少しきれいに畳まれている。


記事になると、いろいろなものが畳まれる。


角を揃えて。


読みやすく。


持ち運びやすく。


私はそれを、少し怖いと思った。


「あ」


玲子がスマホを見て言った。


「学校サイトの前の記事、まだそのままだ」


私はスマホから目を上げた。


「まだ?」


「うん。広報の記事へのリンクは追加されてるけど、前の文章は残ってる」


玲子は画面をこちらに向けた。


そこには、前に見た文章があった。


互いの違いを越えて。


見事な成果。


私は、もう一度その言葉を読んだ。


相原くんも読んだ。


何も言わなかった。


言葉は訂正されても、全部が消えるわけではない。


新しい記事が出ても、前の言葉は残る。


紙にも。


画面にも。


誰かの頭の中にも。


先生が眉を寄せた。


「学校サイトは、もう一度確認してみる」


「お願いします」


相原くんは言った。


声は落ち着いていた。


でも、指先がファイルの角を押さえている。


強く。


私はその指を見た。


何か言いたくなった。


大丈夫。


直してもらえるよ。


分かってくれるよ。


どれも、言えなかった。


直しても残るものがある。


分かってくれる人がいても、別の場所では分からないまま進む言葉がある。


私はスケッチブックを開いた。


白いページ。


昨日、端に日付を書いたページ。


まだ何も描いていない。


そこだけが、まだ記事になっていなかった。


◇◇◇


その日の制作は、なかなか始まらなかった。


机の上には、広報の記事。


学校サイトを開いた玲子のスマホ。


相原くんのファイル。


私のスケッチブック。


白い紙片。


そして、まだ白いページ。


「紙が多い」


玲子が言った。


「紙会議その二だから」


私が言うと、玲子が指を立てた。


「議事録係から訂正。今日は紙会議その三くらい」


「増えてる」


「新聞、学校サイト、広報で三」


相原くんが真面目に数えた。


「取材依頼も含めると四です」


「会議が増殖してる」


「紙が増えたからです」


「相原くん、冷静に怖いこと言う」


相原くんは白いページを見た。


「今日は、紙を減らしたいです」


「片付ける?」


「はい」


相原くんは机の上の紙を、一枚ずつ横へ移動した。


広報の記事。


学校サイトの印刷。


新聞の切り抜き。


取材依頼の紙。


全部、机の端へ。


でも、捨てない。


折らない。


重ねる。


角を揃える。


そこに白い紙片を置く。


重しみたいに。


「今日は、こっち」


相原くんは白いページを指さした。


「絵の方です」


私は頷きそうになって、途中で止めた。


「うん」


頷く代わりに、筆を取った。


水入れに水を入れる。


パレットを出す。


青。


白。


灰色。


黒はまだ出さない。


赤もまだ出さない。


黄色を出そうとして、右手が止まった。


玲子がすぐに言った。


「黄色、今日は出馬する?」


「選挙じゃない」


「黄色党」


「党にしないで」


「公約は?」


「明るくします」


「単純」


相原くんが、黄色のチューブを見た。


「今日は、少量なら必要かもしれません」


「黄色党、議席獲得」


「玲子、黙る?」


「議事録係は黙らない」


私は笑って、黄色をほんの点だけ出した。


点。


米粒より小さい。


前より小さい。


右手、成長している。


黄色党、少数与党。


「今の右手、何か言いたそう」


玲子が言った。


「右手は言ってない」


「じゃあ右手が言ってる」


「右手は成長を報告しています」


相原くんが言った。


「報告は、必要な時だけでいいと思います」


「右手、注意された」


私は黄色を青に混ぜた。


薄い光が、灰色に入る。


広報の記事の紙みたいな色。


少し硬くて、少し薄い。


読めるけれど、全部は届かない色。


相原くんは鉛筆を持った。


白いページの左下に、短い線を引く。


前の絵よりも細い。


でも、迷っていない。


私はその線に近づきすぎない場所へ色を置いた。


二人とも黙っていた。


しばらく、水の音だけがした。


◇◇◇


その日の白は、なかなか白のままにならなかった。


私は、どうしても何かを置きたくなる。


記事の文字。


見出し。


額縁。


廊下の視線。


スマホの画面。


それらが頭の中でちらちらして、白いページに色を置きたくなる。


何かを描けば、外側の言葉に勝てるような気がしてしまう。


でも、相原くんは白い場所の手前で鉛筆を止めた。


止まった。


白い紙片は、机の端にある。


中央には置かれていない。


でも、鉛筆は止まった。


「相原くん?」


私が聞くと、相原くんは白いページを見たまま言った。


「名前がありません」


「名前?」


「はい」


「絵のタイトル?」


「違います」


相原くんは鉛筆を置いた。


「白い怪物の名前です」


私の指が、筆の軸を強く握った。


白い怪物。


最初に見つけた時のことを思い出す。


相原くんの心の中にいた、大きな白い怪物。


牙。


爪。


角。


恐ろしい姿をしているのに、傷ついたものを守っていた怪物。


私はそれを見て、勝手に言った。


怪物がいる。


あの時から、ずいぶん遠くまで来た。


でも、今でもその言葉は私の中に残っている。


怪物。


私がつけたわけではない。


でも、私が最初に口にした言葉。


私は聞きたかった。


名前をつけるの?


どんな名前?


白い怪物は今どう見えているの?


質問が、喉まで来た。


でも、出さない。


筆を置く。


机の上に。


水入れの横。


「聞かないの?」


玲子が小さく言った。


「聞きたい」


私は正直に言った。


「でも、聞かない」


相原くんが私を見る。


「なぜですか」


「相原くんの名前だから」


言ってから、少し違うと思った。


「相原くんが、つける名前だから」


相原くんは黙った。


白いページを見る。


机の端の白い紙片を見る。


それから、ファイルの中の広報記事を見る。


「怪物という言葉は、便利です」


相原くんが言った。


「便利?」


「はい。怖いものを、一つにまとめられます」


私は黙って聞いた。


「周りから怖いと思われたこと。自分でも怖いと思ったこと。言葉が強すぎたこと。急な音で動けなくなったこと。誰かを助けようとして、うまくできなかったこと」


相原くんは、ひとつずつ線を置くみたいに言った。


「全部、怪物に入れられます」


「うん」


「でも、全部ではありません」


相原くんは鉛筆を持った。


紙の左下に引いた短い線の隣に、もう一本、線を足す。


「怪物は、怖がらせるものだけではありません」


「うん」


「守ることもあります」


「うん」


「線を引くこともあります」


「うん」


「音や人や予定から、自分を離すこともあります」


私は白いページを見た。


そこにはまだ、怪物の絵はない。


でも、言葉が少しずつ形になっていく。


「それは、悪いことだけではありません」


相原くんの声は静かだった。


「でも、名前がありません」


「うん」


「怪物のままだと、怖い部分だけが先に来ます」


私は、前に読んだ新聞の見出しを思い出しかけて、やめた。


今は、話数ではない。


今は、目の前の机だ。


「名前をつけたい?」


私は聞いた。


相原くんはすぐには答えなかった。


呼吸する。


ファイルの角を指で押さえる。


白い紙片を見る。


「はい」


そう言った。


◇◇◇


名前をつける作業は、思ったより静かではなかった。


相原くんは候補を紙に書き始めた。


一、白いもの。


二、守るもの。


三、線を引くもの。


四、空いている場所。


五、余っている場所。


私は五番目を見て、首をかしげた。


「余っている場所?」


「はい」


「余るって、ちょっと寂しくない?」


「そうですか」


「余ったプリントとか、余ったパンとか」


玲子が言った。


「余ったパンは私が食べる」


「玲子に回収される場所になっちゃう」


「安全」


「安全かな」


相原くんは五番目に線を引いた。


「では、違います」


「すぐ消した」


「適切ではなかったので」


玲子が候補の紙を覗く。


「白いもの、は?」


「広すぎます」


「守るもの」


「機能の一部です」


「線を引くもの」


「それも一部です」


「空いている場所」


相原くんはそこで止まった。


「空いている場所」


彼は繰り返した。


「誰かが使っていない場所」


「うん」


「でも、空いているから、勝手に入っていいわけではありません」


「うん」


「空いているように見えても、必要な場所です」


私は白いページの右側を見る。


まだ何も置かれていない場所。


そこには、何もない。


でも、そこがないと、線も色も苦しくなる。


「余白?」


玲子が言った。


とても軽く。


ペンを落としたみたいに。


でも、その言葉は机の上で転がらなかった。


止まった。


相原くんの鉛筆が止まる。


私も息を止めた。


余白。


描かれていない場所。


でも、必要な場所。


誰かが勝手に埋めていい場所ではない。


残すために、描く場所。


相原くんは、候補の紙にゆっくり書いた。


六、余白。


文字は小さかった。


でも、まっすぐだった。


「三島さん」


「はい」


玲子が背筋を伸ばす。


「今の言葉を、使ってもいいですか」


玲子は少し目を丸くした。


「もちろん」


「ありがとうございます」


「でも、私がつけたことにしなくていいよ」


「なぜですか」


「相原くんが選ぶ名前だから」


玲子は私の方をちらっと見た。


私は何も言わなかった。


言わなくていい。


相原くんは候補の紙を見ていた。


長い時間。


長いといっても、時計で測れば一分くらいかもしれない。


でも、美術室の中では十分長かった。


「余白」


相原くんが言った。


「はい」


玲子が返事をした。


私は返事をしなかった。


その言葉が、相原くんの口からもう一度出るのを待った。


相原くんは候補の紙の上で、鉛筆を止めた。


「余る、ではありません」


「うん」


「空いているだけでもありません」


「うん」


「誰かがまだ描いていないから白いのではなく、描かないで残す必要があるから白い場所です」


私は筆を持ったまま、白いページを見た。


「それが、余白?」


相原くんは頷かなかった。


代わりに、候補の六番目を指で押さえた。


「僕は、そういう意味で使いたいです」


「白い怪物の名前は、余白にします」


私は筆を握り直した。


手が震えたわけではない。


でも、筆の軸が急に細くなったみたいだった。


「うん」


それだけ言えた。


相原くんは候補の紙に、もう一度書いた。


余白。


今度は、少し大きく。


◇◇◇


名前がついたあと、相原くんは白いページに線を引いた。


左下から、右上へ。


まっすぐではない。


途中で一度、細く曲がる。


右上の手前で止まる。


前の絵と似ている。


でも、同じではない。


私はその線の隣に、薄い青を置いた。


青。


少し黄色。


少し灰色。


記事の紙みたいな色は、まだ残っている。


でも、それだけではない。


白い場所は、右上に大きく残した。


いつもより大きい。


私の手が、そこへ色を置きたがった。


でも、置かない。


「ここ」


私は白い場所を指さした。


「余白?」


相原くんは紙を見た。


「はい」


「じゃあ、描かない?」


「描かないのではありません」


相原くんは鉛筆の先を、白い場所の外側で止めた。


「残します」


その言葉で、前に講評で聞いた言葉が戻ってきた。


でも、今のこれは審査員の言葉ではない。


相原くんの言葉だった。


「残すために、描く?」


私が聞くと、相原くんは頷いた。


「はい」


「そっか」


私は筆を洗った。


水が、ほんの少し青くなる。


白い場所は、紙の上でそのまま残っている。


残っているのに、前より強い。


何も描かれていないのに、名前がある。


「余白」


私は小さく言った。


相原くんがこちらを見る。


「はい」


「呼んでいい?」


相原くんは少し考えた。


「はい。でも、必要な時だけでお願いします」


「分かった」


「何度も呼ぶと、言葉が軽くなる可能性があります」


玲子が頷いた。


「大事な名前、連呼禁止」


「議事録に?」


「太字」


「頭の中の?」


「もちろん」


私は笑った。


笑いながら、白い場所を見た。


連呼しない。


勝手に描かない。


名前をもらったからといって、私のものにはならない。


その白は、相原くんの中にあって、今は紙の上にもある。


私はその隣に、自分の色を置くだけ。


◇◇◇


下校時刻になっても、学校サイトの記事はまだ直っていなかった。


先生が申し訳なさそうに言った。


「担当の先生に頼んだんだけど、更新は明日になるかもしれない」


「分かりました」


相原くんはそう答えた。


私はスマホを見た。


まだ残っている文章。


消えない言葉。


でも、美術室の机の上には、今日ついた名前がある。


余白。


それは記事には載っていない。


学校サイトにも載っていない。


廊下のひそひそ声にも、まだ混ざっていない。


机の上の紙。


候補を書いた紙。


新しい絵。


そこにだけある。


「全部は直らないですね」


相原くんが言った。


「うん」


「でも、全部を直すために描くわけではありません」


「うん」


「今日は、名前がつきました」


私はスケッチブックを閉じた。


「うん」


相原くんはファイルに候補の紙を入れる。


広報の記事も。


新聞の切り抜きも。


学校サイトの印刷も。


でも、順番を変えた。


一番上に、候補の紙。


そこに書かれた、余白。


その下に、記事。


その下に、新聞。


その下に、学校サイト。


「順番、変えた?」


私が聞くと、相原くんはファイルを閉じた。


「はい」


「なんで?」


「自分でつけた名前を、一番上に置きたいからです」


その言葉で、美術室の空気が少し変わった。


外側の言葉が消えたわけではない。


でも、重なり方が変わった。


相原くんは鞄を持つ。


玲子は机の上の消しゴムのカスを集める。


「今日の議事録」


「何?」


「怪物、改名」


「軽い」


「じゃあ、怪物、命名」


「それは少し重い」


「難しいな」


相原くんが言った。


「余白でいいです」


玲子は笑った。


「そうだね」


私は窓の外を見た。


夕方の光が、美術室の床に長く伸びている。


机の上の新しい絵には、右上に大きな白がある。


まだ誰にも見られていない白。


まだ誰にも説明されていない白。


そこに、名前がある。


私たちは電気を消して、美術室を出た。


廊下には、まだ誰かの声がある。


スマホの画面にも、まだ古い言葉が残っている。


でも、相原くんのファイルの一番上には、彼自身の文字で書かれた名前が入っていた。


余白。


その二文字は、閉じたファイルの中で、静かに白く残っていた。


第十四話では、白い怪物の名前が「余白」になりました。

誰かが勝手に埋めていい空白ではなく、残すために必要な場所です。

次回は、その余白の奥にまだ残る黒い糸の記憶へ触れていきます。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

続きが気になった方は、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです。

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