第二十話:きみの心は怪物でした。
最終話です。
二人の卒業制作『きみの心は怪物でした。』は世界的な名画になりました。
けれど物語の最後は、名声の場ではなく、始まりの場所――城ヶ崎の海岸へ戻ります。
その絵は、世界に出ていった。
最初は、学校の廊下だった。
次に、地域の新聞。
それから、国内の美術館。
気がつくと、海の向こうの、大きな展覧会。
『きみの心は怪物でした。』は、二人の代表作と呼ばれるようになった。
若い人たちが、共同で何かを作る時。
誰かが、きっとこの絵の名前を出す。
そういう絵に、なった。
私は、それを、少し遠くから見ていた。
絵の中央に、白い怪物がいる。
牙も、爪も、角もある。
でも、もう、隠れていない。
青い線のそばに、座っている。
角には、黒い糸が、少しだけ残っている。
その隣に、鮮やかな色の絵筆が、一本。
二人の足元から、線が伸びている。
海までではなく、世界まで。
◇◇◇
会場で、相原くんは、人前で話した。
昔は、できなかったことだ。
大勢の前。
知らない人の視線。
予定にない質問。
全部、苦手だったもの。
今も、得意ではない。
でも、相原くんは、自分の手順で、立っていた。
話す前に、水を一口。
質問が来たら、一度、メモを見る。
分からない時は、「確認します」と言って、止まる。
ある人が、相原くんに言った。
「障害が、治ったみたいですね」
悪気は、なかったと思う。
褒めたつもりだったのかもしれない。
相原くんは、少し考えて、静かに答えた。
「消えたのではありません」
「扱えるように、なりました」
私は、その言葉を、隣で聞いていた。
訂正しなくていい言葉だけが、本物だと思った。
◇◇◇
会場の隅に、玲子もいた。
スーツを着ていた。
似合っていなかった。
「議事録は?」
私が聞くと、玲子は資料の束を持ち上げた。
「今日は、広報」
「出世した」
「絵が、勝手に偉くなった」
「私たちのおかげ?」
「絵のおかげ。あんたたちは、会議が長かっただけ」
私は笑った。
何年たっても、玲子は玲子だった。
「相原くん」
玲子が呼んだ。
「はい」
「避難経路は?」
「三つ、確認しました」
「じゃあ、大丈夫」
それも、何年か前と、同じやりとりだった。
◇◇◇
人が、はけたあと。
私と相原くんは、絵の前に、二人で立った。
静かだった。
大きな絵を、下から見上げる。
「天野さん」
「うん」
「今日は、見てもいいです」
私は、相原くんを見た。
「見るって」
「僕の心を」
私は、すぐには、動けなかった。
長いあいだ、私は、見ないでいた。
見えても、手を伸ばさない。
聞く方を、選ぶ。
それが、私の覚えたことだった。
だから、自分から見るのは、もう、ずいぶん、ひさしぶりだった。
「いいの?」
私が聞くと、相原くんは頷いた。
「今日は、僕が、開けます」
自分で。
私が、こじ開けるのではなく。
相原くんが、内側から。
昔、相原くんは、言った。
開けた覚えがないのに、開いていた、と。
あのときの扉は、勝手に開いていて、こわかった。
今日の扉は、自分で開けて、こわくない。
同じ扉のはずなのに、まるで違った。
私は、息を吸って、相原くんの心を、見た。
◇◇◇
白い怪物が、いた。
牙も、爪も、角もある。
昔と、同じ姿。
でも、雨の中に、一人では、立っていなかった。
足元に、青い線がある。
角には、黒い糸が、まだ巻きついている。
ほどけていない。
少しだけ、残っている。
でも、怪物の前に、扉があった。
前は、なかった扉。
それが、今は、少しだけ、開いていた。
中から、光ではなく、ただ、外の空気が入っていた。
怪物は、その扉を、こわがっていなかった。
開けたのは、私ではない。
相原くんが、自分で、つけた扉だった。
私は、それ以上、奥へは入らなかった。
開いた扉の手前で、止まった。
見えたものを、絵にもしなかった。
ただ、見た。
そして、目を、戻した。
「ありがとう」
私は言った。
「見せてくれて」
相原くんは、少し、笑ったように見えた。
笑顔は、今も、上手ではない。
でも、たしかに、笑っていた。
◇◇◇
それから、また、何年か過ぎた。
私たちは、大人になった。
世界をひとまわりした絵を見送って、二人は、城ヶ崎へ戻った。
第一部で歩いた、海への道。
あのときと、同じ道。
波の音は、相変わらず大きい。
風も、強い。
夕日が、水平線に近づいていた。
海面を、赤と金色に、染めている。
私は、その赤を、ちゃんと赤だと、見ていた。
その金を、ちゃんと金だと、見ていた。
色は、もう、全部、私の手元にあった。
あの日、消えた色のことを、今は、思い出しもしなかった。
◇◇◇
相原くんは、予定表を、持っていた。
昔より、薄い予定表。
でも、まだ、持っていた。
道の途中で、相原くんは、それを、鞄にしまった。
「相原くん?」
「今日は」
相原くんは、海の方を見た。
「予定にない道を、少し、歩いてみます」
「いいの?」
「たぶん、大丈夫です」
私たちは、地図にない細い道へ、逸れた。
砂が、靴に入った。
相原くんは、気にしなかった。
昔なら、気にした。
今日は、しなかった。
◇◇◇
海が、見えた。
夕日が、もう、すぐそこにある。
「うわぁ、きれいだら」
声が、自分でも、ゆるんでいた。
私は、隣の相原くんの、心を見ようとした。
長い癖だった。
見えても、言わない。
でも、つい、見ようとする。
その手前で、私は、やめた。
今日は、見なくても、よかった。
扉が開いているのは、もう、知っている。
知っているから、見なくても、いい。
「天野さん」
相原くんが言った。
「今日は、見ないんですか」
気づかれていた。
私は、少し笑った。
「うん。今日は、見ない」
「理由が、ありますか」
出た。
何年たっても、出る。
「今日は」
私は、海を見た。
「手を、つなぎたい」
相原くんは、少し、考えた。
それから、いつもの声で、聞いた。
「理由って、ありますか」
「あるよ」
私は答えた。
「分からないまま、隣に、いたいから」
◇◇◇
相原くんは、長く、海を見ていた。
波が、何度か、寄せて、返した。
夕日が、水平線に、触れた。
「それなら」
相原くんが言った。
「できます」
そして、自分から、私の手を取った。
こじ開けたのでも、待たされたのでもなく。
相原くんが、自分で。
手は、少し、冷たかった。
でも、すぐに、あたたかくなった。
白い怪物の角には、黒い糸が、少し残っている。
ほどけてはいない。
でも、怪物は、もう、雨の中に、一人では立っていない。
二人の足元に、海まで続いていた青い線が、今度は、つないだ手の中で、静かに、つながっていた。
夕日が、海に沈んでいく。
赤と、金色。
私は、その色を、隣で、同じように見ていた。
城ヶ崎の海岸に、二人の影が、並んでいた。
近くて。
でも、重ならず。
二本のまま、夕日の方へ、伸びていた。
-----(完)-----
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
賺は「消えたのではありません。扱えるようになりました」と言い、自分でつけた扉を、自分で開けて歌音に見せます。歌音の力は、こじ開けるためではなく、招かれて受け取るものになりました。
そして海岸では、歌音は見ることをやめ、賺は自分から手を取ります。
黒い糸はほどけないまま、白い怪物はもう雨の中に一人で立っていない。二人の影は、近くて、重ならず、二本のまま夕日へ伸びていきます。
これで『きみの心は怪物でした。』完結です。




