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『きみの心は怪物でした。』  作者: 源三郎


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13/21

第十二話:二位という場所

第十二話では、全国コンテストの結果が発表されます。

二人の絵は最優秀賞ではなく、二位にあたる優秀賞を受賞します。

嬉しさと悔しさの両方を抱えたまま、歌音と賺は「続きがある場所」に立ちます。


全国高校生絵画コンテストの結果発表の日。


私は、朝から靴下を左右逆に履いた。


左右逆。


靴下に左右があるタイプだった。


しかも、右足に大きくR、左足に大きくLと書いてある。


なのに間違えた。


人は全国の前で、アルファベットに負ける。


「歌音」


玄関で母が言った。


「足」


「分かってる」


「分かってる足じゃないよ」


私は靴を脱ぎ、廊下で靴下を履き替えた。


右足、R。


左足、L。


よし。


全国へ行ける。


足だけは。


◇◇◇


会場は、県立美術館の大きなホールだった。


学校の美術室とは違う匂いがする。


床が広い。


天井が高い。


照明が白い。


人の声が、上の方へ吸い込まれていく。


受付の前には、制服の生徒と、先生と、保護者らしい大人たちが並んでいた。


作品の写真が載ったパンフレットを持っている人もいる。


私たちの絵も、そこにあった。


『境界線の向こうにいる白』


天野歌音・相原賺。


名前が並んでいる。


私はその文字を見て、足の裏が浮きそうになった。


「歌音」


玲子が横から言った。


「床に帰ってきて」


「帰ってる」


「足が受付を越えようとしてる」


「足だけ先に結果を見に行こうとしてる」


「止めて」


私は足を床に押しつけた。


今日は転ばない。


応募の日に、五番目のリスクに登録されたから。


登録された以上、対策が必要である。


相原くんは、受付から少し離れた壁際に立っていた。


手には小さな紙。


会場の見取り図。


集合時間。


休憩できる場所。


水を飲める場所。


トイレの場所。


そして、白い紙片。


それはファイルの透明なポケットに入っていた。


机の上には置けないから、今日は持っている。


相原くんは紙を見ながら、ゆっくり息をしていた。


吸う。


止める。


吐く。


視線を床へ落とす。


また吸う。


私は近づきすぎない場所で止まった。


「おはよう」


「おはようございます」


相原くんは見取り図から目を上げた。


「靴下は合っていますか」


「なんで知ってるの」


「三島さんから連絡がありました」


私は玲子を見た。


玲子はスマホをしまった。


「重要リスクの共有」


「共有しないで」


「転倒対策の一環です」


相原くんが真面目に言った。


「相原くんまで」


「足元の確認は必要です」


私は自分の足を見る。


R。


L。


今日は大丈夫。


たぶん。


「相原くんは、大丈夫?」


聞くと、相原くんは少し考えた。


「大丈夫ではありません」


「うん」


「でも、手順はあります」


相原くんは見取り図を指さした。


「混んだら、あそこの柱の横に移動します」


「うん」


「名前を呼ばれたら、三回呼吸します」


「うん」


「壇上へ行く前に、足元を確認します」


「それ、私もやる」


「してください」


玲子が頷く。


「本日の共通目標。壇上で転ばない」


「作品より低い目標じゃない?」


「でも大事」


先生が後ろから来て、真顔で言った。


「大事だぞ」


先生まで。


全国の会場で、私の足元会議が開かれている。


◇◇◇


展示室に入ると、絵が並んでいた。


大きな絵。


細かい絵。


油絵。


水彩。


デジタル作品。


強い赤。


深い黒。


眩しい黄色。


どの作品も、ちゃんとここに来る理由を持っているように見えた。


その中に、私たちの絵があった。


『境界線の向こうにいる白』


額に入っている。


美術室の机の上にあった時より、少し遠い。


でも、知らない絵にはなっていない。


青い線。


その隣の色。


右上の白い場所。


海でも空でもない灰色。


近づきすぎない線と、離れすぎない色。


それが、白い壁にかけられている。


私は息を吸った。


「外に出てる」


声が勝手に出た。


相原くんは絵を見ていた。


「はい」


「変?」


「変です」


「やっぱり?」


「でも、なくなってはいません」


「うん」


相原くんは絵の下のキャプションを見た。


名前。


学校名。


作品タイトル。


そこに、私たちの名前がある。


「見られています」


「うん」


「怖いです」


「うん」


「でも、ここにあります」


私は絵を見る。


白い場所は、額の中でも白い。


誰かがそこに意味を置くかもしれない。


でも、全部は置けない。


あの場所は、まだ誰のものにもなっていない。


「ここにあるね」


私は言った。


相原くんは、ゆっくり頷いた。


◇◇◇


結果発表は、ホールで行われた。


椅子が何列も並んでいる。


前方には壇上。


中央にマイク。


横に賞状を持った係の人。


後ろのスクリーンには、コンテストのロゴ。


私は椅子に座った瞬間、膝の上に両手を置いた。


右手。


左手。


暴走しない。


足も床。


R。


L。


よし。


玲子は隣でパンフレットを見ていた。


「歌音」


「何」


「今、全身を出席確認してる?」


「してる」


「右手、左手、右足、左足」


「全員います」


「欠席なし」


「よかった」


相原くんは私の反対側に座っていた。


背筋がまっすぐ。


手には小さな紙。


呼吸の手順が書いてある。


一、名前が呼ばれたら、床を見る。


二、息を吸う。


三、三秒数える。


四、吐く。


五、立つ。


六、足元を見る。


七、進む。


とても相原くんらしい。


でも、その紙の端には、小さな青い線が一本引いてあった。


私は何も言わなかった。


それが何か聞きたかったけれど、今は聞かない。


司会の人がマイクの前に立った。


結果発表が始まる。


佳作。


奨励賞。


審査員特別賞。


名前が呼ばれるたび、会場のあちこちで人が立つ。


拍手。


足音。


マイクの音。


賞状の紙がこすれる音。


全部が少しずつ重なっていく。


相原くんの指が、紙の端を押さえた。


私は見た。


でも、手は出さなかった。


相原くんは床を見た。


息を吸う。


止める。


吐く。


自分の紙を見る。


また前を見る。


その手順だけで、席に戻ってきたみたいだった。


「続いて、優秀賞の発表です」


司会の声が響く。


優秀賞。


二位にあたる賞。


私は一瞬、息を止めた。


「作品番号、二十七番」


玲子の手が、私の袖をつかんだ。


「『境界線の向こうにいる白』」


世界が、ひゅっと細くなった。


「天野歌音さん、相原賺さん」


拍手が起こった。


私の名前。


相原くんの名前。


並んで呼ばれた。


立たなきゃ。


立つ。


でも、足。


足を見る。


R。


L。


合ってる。


私は立った。


隣で、相原くんも立った。


すぐには歩き出さない。


床を見る。


息を吸う。


三秒。


吐く。


紙をしまう。


足元を見る。


それから、前へ進んだ。


歌音が決めた合図ではない。


相原くんが自分で作った手順だった。


私はその横を歩いた。


速すぎないように。


遅すぎないように。


壇上へ上がる段差の前で、私は一度止まった。


足元を見る。


相原くんも見る。


玲子が客席で親指を立てている。


先生が両手で祈るようにしている。


段差。


大丈夫。


私は上がった。


転ばなかった。


全国の壇上で、私は転ばなかった。


これはもう、受賞である。


賞状を受け取る時、相原くんの手が少し遅れた。


でも、止まらなかった。


二人で一枚の賞状を持つ。


少し斜め。


司会の人が写真撮影のためにこちらを向くよう促した。


私は賞状をまっすぐにしようとして、相原くんの手とぶつかりかけた。


そこで、相原くんが小さく言った。


「右を二センチ上げてください」


「今?」


「今です」


私は右手を二センチ上げた。


たぶん二センチ。


「一センチです」


「細かい」


「写真に写ります」


「全国の二センチ」


客席の玲子が肩を震わせている。


カメラの音が鳴った。


私たちは、少し斜めだけど、二人で賞状を持っていた。


◇◇◇


優秀賞。


最優秀賞ではない。


二位。


壇上から降りて席に戻ったあと、その言葉が少し遅れて胸に落ちてきた。


嬉しい。


ものすごく嬉しい。


でも。


一位ではない。


そう思った瞬間、私は自分が少し悔しがっていることに気づいた。


悔しい。


全国で二位なのに。


こんなにすごいのに。


それでも、少し悔しい。


欲張りだ。


私の中の何かが、もう次の場所を見ている。


私は膝の上で賞状の端を撫でた。


相原くんは隣で、パンフレットの受賞一覧を見ている。


「相原くん」


「はい」


「二位だね」


「はい」


「すごいね」


「はい」


「でも、ちょっと悔しい」


言ってしまった。


最低かもしれない。


今、喜ぶところなのに。


でも、相原くんは怒らなかった。


受賞一覧から目を上げる。


「一位ではない場所にも、正確な価値があります」


私は瞬きをした。


「正確な価値」


「はい」


「二位の価値?」


「はい」


相原くんは賞状を見る。


「最優秀賞ではありません。優秀賞です。だから、一位ではありません」


「うん」


「でも、選ばれなかった場所ではありません」


私は賞状を見る。


優秀賞。


そこに、ちゃんと文字がある。


「二位は、負け?」


相原くんは少し考えた。


「一位と比較すれば、上ではありません」


「うん」


「でも、ゼロではありません」


「ゼロ」


「はい。ここに来ました。名前を呼ばれました。賞状を受け取りました。講評もあります」


相原くんは、手元のパンフレットを閉じた。


「二位は、続きがある場所だと思います」


私は息を吸った。


賞状の紙が、指の下でかすかに鳴った。


「それ、いいね」


「はい」


相原くんは迷って、付け足した。


「悔しいことも、間違いではないと思います」


私は賞状から目を上げた。


「そう?」


「はい。悔しいなら、まだ描きたいということです」


胸の奥ではなく、手が動いた。


私は賞状を持つ指に力を入れた。


まだ描きたい。


その言葉が、自分の中でちゃんと形になる。


◇◇◇


講評は、別室で行われた。


審査員の先生が何人かいて、受賞者が順番に呼ばれる。


私たちの番が来るまで、相原くんは壁際で呼吸の手順をもう一度確認していた。


私はその隣で、賞状の角を曲げないように持っていた。


玲子は少し離れたところで先生と話している。


「天野さん、相原さん」


呼ばれた。


私たちは前へ出る。


机の上には、作品写真。


審査員の一人が、ゆっくり話し始めた。


「まず、画面右上の白が強いです」


余白。


その言葉で、相原くんの指が少し動いた。


「描かれていない部分が、逃げではなく、作品の呼吸になっている。ここを埋めなかったことで、青い線が奥へ伸びて見える」


私は、右上の白い場所を思い浮かべた。


残した場所。


埋めなかった場所。


「線と色の距離も面白い。線が色に飲まれていないし、色も線の説明になっていない。ぎりぎりで共存している」


ぎりぎり。


共存。


その言葉は、嬉しいのに少し怖かった。


見抜かれたからではない。


私たちが何度も止まったことまで、絵に残っているのだと思ったから。


別の審査員が言った。


「ただ、完成度という意味では、まだ粗いところがあります」


私は背筋を伸ばした。


「たとえば中央の灰色の帯は強いけれど、見る人によっては痛みが先に立って、絵としての整理が追いついていないようにも見える」


痛み。


その言葉は、少し鋭かった。


相原くんは黙って聞いている。


手元の紙は見ていない。


逃げていない。


「でも、その未整理さが、この作品の強さにもなっている。整いきっていないから、目が止まる。だから優秀賞です」


私は頭を下げた。


「ありがとうございます」


相原くんも、少し遅れて頭を下げた。


「ありがとうございます」


審査員は続けた。


「次に描くなら、余白をもっと自分たちで制御できるといい。右上の白だけでなく、線と色の間にも、残す余白を作れるはずです」


残す余白。


その言葉が、紙の上に置かれたみたいに残った。


講評が終わり、私たちは部屋の外へ出た。


廊下には、人の声が戻ってくる。


私は壁際で立ち止まった。


「痛みが先に立ってるって」


言うと、相原くんは頷いた。


「言われました」


「どう思った?」


「嫌ではありません」


「ほんと?」


「はい」


相原くんはファイルの中の白い紙片を見た。


出さない。


ただ、見た。


「痛みがあることは、間違いではないと思います」


「うん」


「でも、痛みだけで終わらない絵を描きたいです」


私は相原くんを見た。


その声は静かだった。


でも、今日のどの拍手よりも、私には大きく聞こえた。


「私も」


それだけ言った。


◇◇◇


帰り道、先生が賞状を筒に入れてくれた。


「曲げるなよ」


「曲げません」


私は両手で筒を持った。


「歌音、持ち方が宝刀」


玲子が言った。


「全国二位の筒だから」


「筒が偉くなってる」


「筒も頑張った」


「筒は運ばれただけ」


相原くんが真面目に言った。


「運搬も役割です」


「筒に優しい」


先生が笑った。


駅までの道は、夕方の光で少し赤かった。


会場の白い照明を出たあとだから、外の色が濃く見える。


私は賞状の筒を抱えながら歩いた。


隣に相原くん。


少し後ろに玲子と先生。


前より、人の声が怖くない。


たぶん、今日は嬉しさが大きいから。


でも、それだけではない。


相原くんが、自分の手順で壇上まで歩いたから。


私はその横を、転ばずに歩けたから。


絵が外に出ても、私たちは消えなかったから。


駅の手前で、相原くんが足を止めた。


「天野さん」


「うん」


「今日、名前を呼ばれました」


「うん」


「怖かったです」


「うん」


「でも、戻れました」


私は賞状の筒を抱え直した。


「戻れたね」


相原くんは頷いた。


「次も、戻れるようにしたいです」


次。


その言葉に、私は笑った。


「うん」


「次は、もっと白を残したい」


相原くんが言った。


私は驚いて、横を見た。


「白を?」


「はい」


「描かないってこと?」


「違います」


相原くんは少し考えた。


「残すために、描きたいです」


その言葉は、今日もらったどの講評より、私たちのものだった。


私は筒を抱えたまま頷いた。


「じゃあ、次の絵だね」


「はい」


玲子が後ろから言った。


「その前に、靴下確認」


私は足元を見た。


R。


L。


合っている。


「大丈夫」


「全国二位の足」


「足は受賞してない」


「転ばなかったから特別賞」


「それはちょっと欲しい」


相原くんが言った。


「賞状は増えません」


「現実」


私たちは笑った。


駅前の風が、賞状の筒にこつんと当たる。


私は筒を抱えたまま、相原くんの横を歩いた。


今日の白い紙片は、一度も机の中央に置かれなかった。


けれど、ファイルの中で折れずに残っていた。


駅の灯りが、筒の銀色の端に細く映っていた。


第十二話では、『境界線の向こうにいる白』が優秀賞を受賞しました。

賺は歌音の合図に頼りきるのではなく、自分で作った呼吸の手順で壇上に立ちます。

次回は、受賞によって二人の絵と賺のことが外側から語られ始める回です。

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◇◆ ここまで読んでくださり、ありがとうございます ◆◇

歌音が見つけたのは、
怖い怪物ではなく、誰よりも不器用で優しい心でした。

――見えるからこそ、分からない。

続きが気になった方は、ブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです。

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