第十二話:二位という場所
第十二話では、全国コンテストの結果が発表されます。
二人の絵は最優秀賞ではなく、二位にあたる優秀賞を受賞します。
嬉しさと悔しさの両方を抱えたまま、歌音と賺は「続きがある場所」に立ちます。
全国高校生絵画コンテストの結果発表の日。
私は、朝から靴下を左右逆に履いた。
左右逆。
靴下に左右があるタイプだった。
しかも、右足に大きくR、左足に大きくLと書いてある。
なのに間違えた。
人は全国の前で、アルファベットに負ける。
「歌音」
玄関で母が言った。
「足」
「分かってる」
「分かってる足じゃないよ」
私は靴を脱ぎ、廊下で靴下を履き替えた。
右足、R。
左足、L。
よし。
全国へ行ける。
足だけは。
◇◇◇
会場は、県立美術館の大きなホールだった。
学校の美術室とは違う匂いがする。
床が広い。
天井が高い。
照明が白い。
人の声が、上の方へ吸い込まれていく。
受付の前には、制服の生徒と、先生と、保護者らしい大人たちが並んでいた。
作品の写真が載ったパンフレットを持っている人もいる。
私たちの絵も、そこにあった。
『境界線の向こうにいる白』
天野歌音・相原賺。
名前が並んでいる。
私はその文字を見て、足の裏が浮きそうになった。
「歌音」
玲子が横から言った。
「床に帰ってきて」
「帰ってる」
「足が受付を越えようとしてる」
「足だけ先に結果を見に行こうとしてる」
「止めて」
私は足を床に押しつけた。
今日は転ばない。
応募の日に、五番目のリスクに登録されたから。
登録された以上、対策が必要である。
相原くんは、受付から少し離れた壁際に立っていた。
手には小さな紙。
会場の見取り図。
集合時間。
休憩できる場所。
水を飲める場所。
トイレの場所。
そして、白い紙片。
それはファイルの透明なポケットに入っていた。
机の上には置けないから、今日は持っている。
相原くんは紙を見ながら、ゆっくり息をしていた。
吸う。
止める。
吐く。
視線を床へ落とす。
また吸う。
私は近づきすぎない場所で止まった。
「おはよう」
「おはようございます」
相原くんは見取り図から目を上げた。
「靴下は合っていますか」
「なんで知ってるの」
「三島さんから連絡がありました」
私は玲子を見た。
玲子はスマホをしまった。
「重要リスクの共有」
「共有しないで」
「転倒対策の一環です」
相原くんが真面目に言った。
「相原くんまで」
「足元の確認は必要です」
私は自分の足を見る。
R。
L。
今日は大丈夫。
たぶん。
「相原くんは、大丈夫?」
聞くと、相原くんは少し考えた。
「大丈夫ではありません」
「うん」
「でも、手順はあります」
相原くんは見取り図を指さした。
「混んだら、あそこの柱の横に移動します」
「うん」
「名前を呼ばれたら、三回呼吸します」
「うん」
「壇上へ行く前に、足元を確認します」
「それ、私もやる」
「してください」
玲子が頷く。
「本日の共通目標。壇上で転ばない」
「作品より低い目標じゃない?」
「でも大事」
先生が後ろから来て、真顔で言った。
「大事だぞ」
先生まで。
全国の会場で、私の足元会議が開かれている。
◇◇◇
展示室に入ると、絵が並んでいた。
大きな絵。
細かい絵。
油絵。
水彩。
デジタル作品。
強い赤。
深い黒。
眩しい黄色。
どの作品も、ちゃんとここに来る理由を持っているように見えた。
その中に、私たちの絵があった。
『境界線の向こうにいる白』
額に入っている。
美術室の机の上にあった時より、少し遠い。
でも、知らない絵にはなっていない。
青い線。
その隣の色。
右上の白い場所。
海でも空でもない灰色。
近づきすぎない線と、離れすぎない色。
それが、白い壁にかけられている。
私は息を吸った。
「外に出てる」
声が勝手に出た。
相原くんは絵を見ていた。
「はい」
「変?」
「変です」
「やっぱり?」
「でも、なくなってはいません」
「うん」
相原くんは絵の下のキャプションを見た。
名前。
学校名。
作品タイトル。
そこに、私たちの名前がある。
「見られています」
「うん」
「怖いです」
「うん」
「でも、ここにあります」
私は絵を見る。
白い場所は、額の中でも白い。
誰かがそこに意味を置くかもしれない。
でも、全部は置けない。
あの場所は、まだ誰のものにもなっていない。
「ここにあるね」
私は言った。
相原くんは、ゆっくり頷いた。
◇◇◇
結果発表は、ホールで行われた。
椅子が何列も並んでいる。
前方には壇上。
中央にマイク。
横に賞状を持った係の人。
後ろのスクリーンには、コンテストのロゴ。
私は椅子に座った瞬間、膝の上に両手を置いた。
右手。
左手。
暴走しない。
足も床。
R。
L。
よし。
玲子は隣でパンフレットを見ていた。
「歌音」
「何」
「今、全身を出席確認してる?」
「してる」
「右手、左手、右足、左足」
「全員います」
「欠席なし」
「よかった」
相原くんは私の反対側に座っていた。
背筋がまっすぐ。
手には小さな紙。
呼吸の手順が書いてある。
一、名前が呼ばれたら、床を見る。
二、息を吸う。
三、三秒数える。
四、吐く。
五、立つ。
六、足元を見る。
七、進む。
とても相原くんらしい。
でも、その紙の端には、小さな青い線が一本引いてあった。
私は何も言わなかった。
それが何か聞きたかったけれど、今は聞かない。
司会の人がマイクの前に立った。
結果発表が始まる。
佳作。
奨励賞。
審査員特別賞。
名前が呼ばれるたび、会場のあちこちで人が立つ。
拍手。
足音。
マイクの音。
賞状の紙がこすれる音。
全部が少しずつ重なっていく。
相原くんの指が、紙の端を押さえた。
私は見た。
でも、手は出さなかった。
相原くんは床を見た。
息を吸う。
止める。
吐く。
自分の紙を見る。
また前を見る。
その手順だけで、席に戻ってきたみたいだった。
「続いて、優秀賞の発表です」
司会の声が響く。
優秀賞。
二位にあたる賞。
私は一瞬、息を止めた。
「作品番号、二十七番」
玲子の手が、私の袖をつかんだ。
「『境界線の向こうにいる白』」
世界が、ひゅっと細くなった。
「天野歌音さん、相原賺さん」
拍手が起こった。
私の名前。
相原くんの名前。
並んで呼ばれた。
立たなきゃ。
立つ。
でも、足。
足を見る。
R。
L。
合ってる。
私は立った。
隣で、相原くんも立った。
すぐには歩き出さない。
床を見る。
息を吸う。
三秒。
吐く。
紙をしまう。
足元を見る。
それから、前へ進んだ。
歌音が決めた合図ではない。
相原くんが自分で作った手順だった。
私はその横を歩いた。
速すぎないように。
遅すぎないように。
壇上へ上がる段差の前で、私は一度止まった。
足元を見る。
相原くんも見る。
玲子が客席で親指を立てている。
先生が両手で祈るようにしている。
段差。
大丈夫。
私は上がった。
転ばなかった。
全国の壇上で、私は転ばなかった。
これはもう、受賞である。
賞状を受け取る時、相原くんの手が少し遅れた。
でも、止まらなかった。
二人で一枚の賞状を持つ。
少し斜め。
司会の人が写真撮影のためにこちらを向くよう促した。
私は賞状をまっすぐにしようとして、相原くんの手とぶつかりかけた。
そこで、相原くんが小さく言った。
「右を二センチ上げてください」
「今?」
「今です」
私は右手を二センチ上げた。
たぶん二センチ。
「一センチです」
「細かい」
「写真に写ります」
「全国の二センチ」
客席の玲子が肩を震わせている。
カメラの音が鳴った。
私たちは、少し斜めだけど、二人で賞状を持っていた。
◇◇◇
優秀賞。
最優秀賞ではない。
二位。
壇上から降りて席に戻ったあと、その言葉が少し遅れて胸に落ちてきた。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
でも。
一位ではない。
そう思った瞬間、私は自分が少し悔しがっていることに気づいた。
悔しい。
全国で二位なのに。
こんなにすごいのに。
それでも、少し悔しい。
欲張りだ。
私の中の何かが、もう次の場所を見ている。
私は膝の上で賞状の端を撫でた。
相原くんは隣で、パンフレットの受賞一覧を見ている。
「相原くん」
「はい」
「二位だね」
「はい」
「すごいね」
「はい」
「でも、ちょっと悔しい」
言ってしまった。
最低かもしれない。
今、喜ぶところなのに。
でも、相原くんは怒らなかった。
受賞一覧から目を上げる。
「一位ではない場所にも、正確な価値があります」
私は瞬きをした。
「正確な価値」
「はい」
「二位の価値?」
「はい」
相原くんは賞状を見る。
「最優秀賞ではありません。優秀賞です。だから、一位ではありません」
「うん」
「でも、選ばれなかった場所ではありません」
私は賞状を見る。
優秀賞。
そこに、ちゃんと文字がある。
「二位は、負け?」
相原くんは少し考えた。
「一位と比較すれば、上ではありません」
「うん」
「でも、ゼロではありません」
「ゼロ」
「はい。ここに来ました。名前を呼ばれました。賞状を受け取りました。講評もあります」
相原くんは、手元のパンフレットを閉じた。
「二位は、続きがある場所だと思います」
私は息を吸った。
賞状の紙が、指の下でかすかに鳴った。
「それ、いいね」
「はい」
相原くんは迷って、付け足した。
「悔しいことも、間違いではないと思います」
私は賞状から目を上げた。
「そう?」
「はい。悔しいなら、まだ描きたいということです」
胸の奥ではなく、手が動いた。
私は賞状を持つ指に力を入れた。
まだ描きたい。
その言葉が、自分の中でちゃんと形になる。
◇◇◇
講評は、別室で行われた。
審査員の先生が何人かいて、受賞者が順番に呼ばれる。
私たちの番が来るまで、相原くんは壁際で呼吸の手順をもう一度確認していた。
私はその隣で、賞状の角を曲げないように持っていた。
玲子は少し離れたところで先生と話している。
「天野さん、相原さん」
呼ばれた。
私たちは前へ出る。
机の上には、作品写真。
審査員の一人が、ゆっくり話し始めた。
「まず、画面右上の白が強いです」
余白。
その言葉で、相原くんの指が少し動いた。
「描かれていない部分が、逃げではなく、作品の呼吸になっている。ここを埋めなかったことで、青い線が奥へ伸びて見える」
私は、右上の白い場所を思い浮かべた。
残した場所。
埋めなかった場所。
「線と色の距離も面白い。線が色に飲まれていないし、色も線の説明になっていない。ぎりぎりで共存している」
ぎりぎり。
共存。
その言葉は、嬉しいのに少し怖かった。
見抜かれたからではない。
私たちが何度も止まったことまで、絵に残っているのだと思ったから。
別の審査員が言った。
「ただ、完成度という意味では、まだ粗いところがあります」
私は背筋を伸ばした。
「たとえば中央の灰色の帯は強いけれど、見る人によっては痛みが先に立って、絵としての整理が追いついていないようにも見える」
痛み。
その言葉は、少し鋭かった。
相原くんは黙って聞いている。
手元の紙は見ていない。
逃げていない。
「でも、その未整理さが、この作品の強さにもなっている。整いきっていないから、目が止まる。だから優秀賞です」
私は頭を下げた。
「ありがとうございます」
相原くんも、少し遅れて頭を下げた。
「ありがとうございます」
審査員は続けた。
「次に描くなら、余白をもっと自分たちで制御できるといい。右上の白だけでなく、線と色の間にも、残す余白を作れるはずです」
残す余白。
その言葉が、紙の上に置かれたみたいに残った。
講評が終わり、私たちは部屋の外へ出た。
廊下には、人の声が戻ってくる。
私は壁際で立ち止まった。
「痛みが先に立ってるって」
言うと、相原くんは頷いた。
「言われました」
「どう思った?」
「嫌ではありません」
「ほんと?」
「はい」
相原くんはファイルの中の白い紙片を見た。
出さない。
ただ、見た。
「痛みがあることは、間違いではないと思います」
「うん」
「でも、痛みだけで終わらない絵を描きたいです」
私は相原くんを見た。
その声は静かだった。
でも、今日のどの拍手よりも、私には大きく聞こえた。
「私も」
それだけ言った。
◇◇◇
帰り道、先生が賞状を筒に入れてくれた。
「曲げるなよ」
「曲げません」
私は両手で筒を持った。
「歌音、持ち方が宝刀」
玲子が言った。
「全国二位の筒だから」
「筒が偉くなってる」
「筒も頑張った」
「筒は運ばれただけ」
相原くんが真面目に言った。
「運搬も役割です」
「筒に優しい」
先生が笑った。
駅までの道は、夕方の光で少し赤かった。
会場の白い照明を出たあとだから、外の色が濃く見える。
私は賞状の筒を抱えながら歩いた。
隣に相原くん。
少し後ろに玲子と先生。
前より、人の声が怖くない。
たぶん、今日は嬉しさが大きいから。
でも、それだけではない。
相原くんが、自分の手順で壇上まで歩いたから。
私はその横を、転ばずに歩けたから。
絵が外に出ても、私たちは消えなかったから。
駅の手前で、相原くんが足を止めた。
「天野さん」
「うん」
「今日、名前を呼ばれました」
「うん」
「怖かったです」
「うん」
「でも、戻れました」
私は賞状の筒を抱え直した。
「戻れたね」
相原くんは頷いた。
「次も、戻れるようにしたいです」
次。
その言葉に、私は笑った。
「うん」
「次は、もっと白を残したい」
相原くんが言った。
私は驚いて、横を見た。
「白を?」
「はい」
「描かないってこと?」
「違います」
相原くんは少し考えた。
「残すために、描きたいです」
その言葉は、今日もらったどの講評より、私たちのものだった。
私は筒を抱えたまま頷いた。
「じゃあ、次の絵だね」
「はい」
玲子が後ろから言った。
「その前に、靴下確認」
私は足元を見た。
R。
L。
合っている。
「大丈夫」
「全国二位の足」
「足は受賞してない」
「転ばなかったから特別賞」
「それはちょっと欲しい」
相原くんが言った。
「賞状は増えません」
「現実」
私たちは笑った。
駅前の風が、賞状の筒にこつんと当たる。
私は筒を抱えたまま、相原くんの横を歩いた。
今日の白い紙片は、一度も机の中央に置かれなかった。
けれど、ファイルの中で折れずに残っていた。
駅の灯りが、筒の銀色の端に細く映っていた。
第十二話では、『境界線の向こうにいる白』が優秀賞を受賞しました。
賺は歌音の合図に頼りきるのではなく、自分で作った呼吸の手順で壇上に立ちます。
次回は、受賞によって二人の絵と賺のことが外側から語られ始める回です。




