二人で一つ
白い光が、戻った。
濁りが、端から引いていく。
俺たちが四音を出した、その直後だった。
◇
床の傾きが、直った。
オルソが、床に手を当てた。
置いたまま、動かない。
――受け取ってる。
◇
上の声が、六度目を唱えようとした。
その時、老人が叫んだ。
俺は、この男が大声を出すのを初めて聞いた。
◇
「――やめなさい!」
声が、白い場所に響いた。
「あなた方は、間違っている!」
◇
上が、静かになった。
唱えるのが、止まった。
俺は、上を見た。
灯りが、動いている。
◇
「聞こえていますか」
老人は言った。
「私が言います。四十年、この組織を率いた者として言います」
彼は、息を吸った。
「――三百年、我々は間違っていました」
◇
上から、声が返った。
若い男の声だ。
「――先代!」
「先代ではありません」
老人は言った。
「まだ生きています」
◇
「なぜ、そこに」
「連れて来ていただきました」
彼は言った。
「サルカディア家の方に。……火薬を使わずに、石段から降りて」
◇
上が、静かになった。
「あなた方が四度叩いた壁の下を、私は歩いて通りました」
彼は言った。
「二百四十段です。半刻かかりました。それだけです」
◇
俺は、その言い方を聞いていた。
――数字で言ってる。
この男は、四十年、記録を読んできた人間だ。
数字の効き方を知っている。
◇
「上の者に伝えなさい」
老人は言った。
「句は、十三音ではありません。四音です」
彼は、俺を見た。
「そして、意味は『帰ろう』です」
◇
上が、また静かになった。
長い沈黙だった。
「――嘘だ」
若い声が言った。
「三百年、我々が求めてきたものが、そんな」
◇
「そんなもの、でしょう」
老人は言った。
「私も、四時間前にそう思いました」
彼は、床に座った。
「そして、書き残すことにしました」
◇
俺は、その場に立ったまま、上を見ていた。
灯りが、四つに減った。
六つあったのが、四つだ。
――二人、下がった。
◇
その時、床がまた震えた。
小さい。
だが、さっきと違う揺れ方だった。
オルソが、素早く描いた。
円が二つ。
接点が――
◇
太くなっている。
さっきより。
「マリ」
「――ふとい」
「そうだ」
俺は言った。
「正しい形を出したら、太くなった」
◇
俺は、その事実を野帳に書いた。
〈崩レタ形=割レル。正シイ形=開ク〉
書いて、俺は顔を上げた。
――同じ言葉だ。
同じ言葉を、正しく言うか、崩して言うかで、逆のことが起きる。
◇
「マリ」
「うん」
「――これだ」
俺は言った。
「二年二月、俺が追いかけてたのは、これだ」
◇
彼女は、俺を見た。
「なに」
「――言葉の使い方だ」
俺は言った。
「同じ音でも、崩せば壊れる。正しく言えば、開く」
俺は、その接点を見た。
「呪文じゃない。……使い方の話だ」
◇
俺は、そこで一つ決めた。
「マリ」
「うん」
「――もう一度、唱えるぞ」
「うん」
「今度は、太くするためだ」
◇
俺たちは、並んだ。
俺が前半。彼女が後半。
――シャルカディ・オム・ネイア。
我らの、繋ぎ目へ、帰ろう。
◇
接点が、太くなった。
目に見えて。
白い光が、強くなった。
濁りが、完全に消えた。
◇
オルソが、立ち上がった。
そして、こちらへ歩いてきた。
三歩。
止まって、床に描いた。
◇
絵は、単純だった。
点が二つ。
俺と、マリだ。
その二つが、接点の両側に立っている。
◇
「――両側に、一人ずついる」
俺は言った。
「そういう絵だ」
◇
マリが、その絵を見た。
長いこと見ていた。
「ハルト」
「なんだ」
「これ、こたえ、だ」
◇
「――何のだ」
「いききの」
彼女は言った。
「かたっぽに、ひとりずつ、いれば、できる」
◇
俺は、その意味を組んだ。
――千年、片側に一人しかいなかった。
だから、行き来ができなかった。
行った者は、向こうで一人になる。
こちらには、呼ぶ者がいない。
◇
「マリ」
「うん」
「――お前が向こうへ行って」
「ハルトが、こっちで、いう」
彼女は言った。
「『かえろう』って」
◇
「そうだ」
俺は言った。
「毎朝、二十年やってきたことだ」
俺は、掌を見た。
「意味を知らずに、二十年」
◇
彼女は、少し笑った。
「れんしゅう、してた」
「――そうなるな」
俺は言った。
「二十年、練習してた」
◇
俺は、そこで一つ確かめた。
床を叩く。
「行く」「戻る」。
二度。
◇
オルソが、床に描いた。
点が、接点を通った。
向こうへ行って――
戻ってきた。
◇
俺は、その絵を見た。
二年二月、初めて見る形だった。
「マリ」
「――もどってる」
「戻ってる」
俺は言った。
「条件が揃えば、戻れる」
◇
俺は、その条件を野帳に書いた。
〈両側ニ、呼ブ者ガ一人ズツ〉
〈正シイ形デ、言ウコト〉
書いて、俺は手を止めた。
――簡単だ。
千年、それだけができなかった。
◇
「マリ」
「うん」
「――決めろ」
俺は言った。
「今夜だ。……次は百三十二年後だ」
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「きめてる」
彼女は言った。
「にねんにかげつ、まえから」
◇
「言え」
「いく」
彼女は言った。
「かえって、また、くる」
彼女は、俺を見た。
「ハルトが、よぶから」
◇
俺は、その言葉を受け取った。
――呼ぶから。
二年二月、俺はこの娘に何も言わなかった。
言わなくても伝わると思っていた。
伝わらなかった。
今夜、初めて役目をもらった。
◇
「マリ」
「うん」
「――一つ、確かめる」
「なに」
「向こうで、お前も言うんだな」
◇
「いう」
彼女は言った。
「まいあさ」
「音は、覚えてるか」
「オム・ネイア」
彼女は言った。
「にじゅうさんねんまえから、おぼえてる」
◇
「前半は」
「――シャルカディ」
彼女は言った。
「ハルトが、まいにち、いってた」
彼女は、少し笑った。
「にねんにかげつ、よこで、きいてた」
◇
俺は、その言い方に少し詰まった。
――聞いていた。
二年二月、毎朝。
俺が意味も知らずに言っていた四音を。
◇
俺は、野帳を破った。
一枚だけ。
そこに、四音を書いた。
二年でセレンに教わった字で。
そして、その下に、古い綴りも書いた。
老人が読んだ形だ。
◇
「マリ。持っていけ」
「うん」
「向こうで、忘れたら見ろ」
「わすれない」
「――忘れる」
俺は言った。
「二十三年で、お前は音を二つしか覚えてなかった」
◇
彼女は、その紙を受け取った。
畳んで、懐に入れた。
入れてから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「――ハルトも、わすれる?」
◇
「忘れん」
俺は言った。
「二十年、毎朝言ってる」
俺は、掌を見た。
「これからも、毎朝言う」




