崩れた言葉
床が、また波打った。
今度は長い。
白い光が、ちらついた。
消えかけて、戻る。
――弱ってる。
◇
俺は、上を見た。
降りてきた穴が、遠い。
八十尺。
その縁に、灯りがあった。
人がいる。
◇
数えた。
四つ。
いや、六つ。
増えている。
「マリ。縄を引け」
「うん」
◇
彼女が、縄を引いた。
軽い。
――切れてる。
上で、切られた。
◇
「――退路が消えた」
俺は言った。
老人が、上を見上げた。
「あの位置に来られるのは」
彼は言った。
「――カランの通路からです。村の下を掘り抜いたのでしょう」
◇
「二十二人は掘らないはずだったな」
「私の命令では、そうです」
彼は言った。
「命令を無視した者がいます」
◇
上から、声が降ってきた。
唱えている。
十一音だ。
――当主の句と同じ形だ。
だが、もっと崩れている。
◇
「マリ。数えろ」
「かぞえてる」
「音の数だ」
「――じゅうさん」
◇
「十三か」
俺は言った。
「当主のは十一だった」
老人が、顔を上げた。
「――二つ、増えています」
「あんたの側で、さらに崩れたのか」
「いえ」
彼は言った。
「――足したのです」
◇
「足した」
「威力が増すと信じて、言葉を足す者がいます」
彼は言った。
「四十年、私はそれを止めてきました。……止めなくなったので、足したのでしょう」
◇
上の声が、二度目を唱えた。
三度目を唱えた。
床の光が、そのたびにちらついた。
――応えていない。
だが、無反応でもない。
◇
俺は、その違いに気づいた。
二年二月、間違った音には「違う」が返った。
今は、返っていない。
代わりに、光が乱れている。
「――拒否してるんじゃない」
俺は言った。
「読もうとして、読めてない」
◇
「どういうことです」
「近いんだ」
俺は言った。
「全然違う音なら、無視される。……惜しいから、応えようとして失敗してる」
◇
俺は、その形を知っている。
二十年、崩落の現場で見てきた。
――中途半端が、一番危ない。
完全に壊れた支柱は、誰も頼らない。
半分効いている支柱に、人は体重をかける。
◇
上の声が、四度目を唱えた。
床が、大きく揺れた。
白い光が、一度完全に消えた。
真っ暗になった。
◇
三つ数えて、戻った。
だが、色が変わっていた。
白ではない。
黄色に近い。
――濁ってる。
◇
オルソが、動いた。
床に、素早く描いた。
円が二つ。
接点。
その接点に、ひび割れの線が入っている。
◇
「マリ」
「――こわれる」
「そうだ」
俺は言った。
「繋ぎ目が、割れかけてる」
◇
俺は、その意味を組んだ。
――閉じるんじゃない。
千年かけて、細くなっていた。
それは、静かに閉じる方向だった。
今は、違う。
無理に開けようとして、割れかけている。
◇
「割れたら、どうなる」
老人が訊いた。
「――分からん」
俺は言った。
「だが、二つの世界が一点で接してる。……その一点が割れる」
◇
俺は、オルソを見た。
そして、床を叩いた。
「割れる」を渡す形は、持っていない。
代わりに、「潰す」を渡した。
二年二月前、俺が自分で持ち込んだ言葉だ。
◇
オルソは、その形に反応した。
素早く、床に描いた。
円が二つ。
その両方が、崩れる。
――両方だ。
◇
「――両側だ」
俺は言った。
「割れたら、こっちも向こうも無事じゃない」
マリが、動きを止めた。
「ちきゅうも」
「そうだ」
◇
上の声が、五度目を唱え始めた。
俺は、そこで決めた。
「マリ」
「うん」
「――止める」
「どうやって」
◇
「正しい形を、大きく出す」
俺は言った。
「向こうが崩れた形で唱えてる。……こっちが正しい形を出せば、あれはそっちに合わせる」
「合いますか」
老人が訊いた。
◇
「合う」
俺は言った。
「二年二月、あれは俺の間違いを直し続けた。……正しい形を知ってる」
俺は、床の中央に立った。
「知ってる形が来れば、そっちを取る」
◇
俺は、息を吸った。
――七百三十回目だ。
二十年と二年。
意味を知って、二日目。
◇
「マリ」
「うん」
「――一つ頼む」
「なに」
「一緒に唱えろ」
◇
彼女は、動きを止めた。
「わたし」
「お前も、この音を知ってる」
俺は言った。
「二十三年前に聞いた。……オム・ネイアだ」
◇
「ぜんぶは、しらない」
「後半だけでいい」
俺は言った。
「俺が前半を出す。お前が後半を出す」
俺は、彼女を見た。
「二人で、一つの句にする」
◇
彼女は、しばらく俺を見ていた。
それから、頷いた。
「うん」
◇
老人が、前に出た。
「ハルトさん」
「なんだ」
「私も、唱えさせてください」
「――あんたの句は、崩れてる」
「知っています」
彼は言った。
「ですが、私の声は、上に届きます」
◇
俺は、その意味を測った。
――上の連中に。
この男は、四十年、あの組織の頂点にいた。
声を知られている。
「何と言う」
「『やめろ』と」
彼は言った。
「四十年で一度も使わなかった言い方をします」
◇
「どんな言い方だ」
「――『間違っている』です」
彼は言った。
「私は、四十年、部下に『間違っている』と言ったことがありません」
彼は、上を見た。
「言えば、自分の四十年が間違いだと認めることになるので」
◇
俺は、その男を見た。
「――言えるのか」
「言います」
彼は言った。
「今日、私は樽を濡らしました。……もう、認めています」
◇
俺たちは、並んで立った。
灯りは要らない。
白い光が、まだある。
濁っているが、ある。
◇
上の声が、五度目を唱え終えた。
床が、大きく傾いた。
俺は、そこで唱えた。
――シャルカディ。
◇
マリが、続けた。
――オム・ネイア。
二人で、四音を出した。
我らの、繋ぎ目へ、帰ろう。




