止める役目
「――止めるのか」
俺は言った。
「とめる」
彼女は言った。
「ハルトが、はかれないところに、はいるなら、とめる」
◇
俺は、その言い分を受け取った。
――正しい。
二年二月前、俺は「戻る」と言われて戻った。
あの時、従ったから今がある。
「マリ」
「うん」
「――今回も、従う」
◇
彼女は、少し驚いた顔をした。
「はやい」
「早くない」
俺は言った。
「二年二月、考えてた」
俺は、穴の縁から一歩下がった。
「お前が止めるなら、俺は止まる。……そう決めてある」
◇
俺は、野帳を開いた。
二年二月前の頁だ。
〈「戻ル」ハ、マリガ言ウ。俺ハ従ウ〉
六十四話で書いた行だ。
俺は、それを見せた。
◇
彼女は、その行を見た。
「――これ」
「二年二月前だ」
俺は言った。
「骨を三つ見た日に書いた」
「まもってる」
「守ってる」
俺は言った。
「今日で、二度目だ」
◇
俺たちは、その穴の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
白い光が、下から上がってくる。
部屋が明るい。
灯りが要らないほどだ。
◇
「じゃあ、どうする」
マリが訊いた。
「――測る」
俺は言った。
「入らずに、測る方法を考える」
「あるの」
「ある」
◇
俺は、縄を出した。
二十尺ごとに結び目がある。
その先に、杆を結んだ。
二年二月前、水の底を測ったときと同じやり方だ。
◇
「マリ。数えろ」
「うん」
俺は、杆を穴に下ろした。
二十尺。
四十尺。
六十尺。
◇
八十尺で、抵抗が来た。
押し返してくる。
――同じだ。
二百尺下のボーリング孔と、同じ手応えだ。
「マリ。間隔を数えろ」
「かぞえてる」
◇
「じゅうに」
彼女は言った。
「みずと、おなじ」
「同じか」
「おなじ」
◇
俺は、その事実を野帳に書いた。
――繋がってる。
二百尺下の穴と、この穴は、同じものに繋がっている。
深さは違う。だが、同じ間隔で押し返してくる。
◇
俺は、そこで一つ試した。
杆を、押し返しに合わせて押した。
十二を数えて、押す。
また十二を数えて、押す。
――合わせる。
二年二月前、コトリを水に沈めたときに、マリがやったことだ。
◇
三度目で、変わった。
押し返しが、止まった。
代わりに、引かれた。
俺は、縄を握り直した。
「――引いてる」
◇
「ひっぱられてる?」
「そうだ」
俺は言った。
「強くはない。……だが、確かに引いてる」
◇
俺は、その引きに逆らわなかった。
縄を、少し送った。
二十尺。
引きが、止まった。
そして、また押し返してきた。
◇
「マリ」
「うん」
「――やり取りしてる」
俺は言った。
「押して、引いて、また押す。……これは、話してるのと同じだ」
◇
俺は、その形で試した。
押す。引かれる。送る。押し返される。
三度繰り返した。
三度とも、同じ順だった。
◇
「マリ」
「うん」
「――『行って、戻る』だ」
俺は言った。
「杆が行って、戻ってきてる」
◇
彼女は、その縄を見た。
「じゃあ」
「――物は、行って戻れる」
俺は言った。
「少なくとも、この杆は」
◇
俺は、その杆を引き上げた。
八十尺分の縄を、全部引いた。
石突きが、出てきた。
俺は、それを灯りにかざした。
◇
――変わっている。
石突きの先が、濡れていた。
水ではない。
油でもない。
俺は、指で触れた。
◇
冷たい。
そして、匂いがあった。
俺は、その匂いを知っている。
二十年、雨上がりの野原で嗅いできた匂いだ。
◇
「マリ」
「うん」
「――嗅いでみろ」
彼女は、顔を近づけた。
そして、動きを止めた。
◇
「ハルト」
「なんだ」
「――これ」
彼女の声が、震えていた。
「あめの、あとの、においだ」
◇
「こっちの雨か」
「――わかんない」
彼女は言った。
それから、もう一度嗅いだ。
長く。
◇
「ちがう」
彼女は言った。
「こっちのと、ちがう」
「どう違う」
「――くさが、ちがう」
◇
俺は、その答えを受け取った。
――草が違う。
雨上がりの匂いは、地面から立つ。
地面に何が生えているかで、匂いが変わる。
二十年、俺はそれで土地を見分けてきた。
◇
「マリ」
「うん」
「――向こうの匂いか」
「たぶん」
彼女は言った。
「おばあちゃんの、むらの、においに、にてる」
◇
俺は、その杆を持ったまま、しばらく動かなかった。
――届いた。
八十尺の縄の先が、向こうへ届いて、戻ってきた。
濡れて。
匂いをつけて。
◇
老人が、後ろで帳面を書いていた。
書く手が、止まらない。
「ハルトさん」
「なんだ」
「――これは、証拠になりますか」
◇
「ならん」
俺は言った。
「匂いは書けん。……記録に残らん」
「では」
「だが、測れる」
俺は言った。
「濡れた長さ、重さの差、乾く速さ。……全部数字になる」
◇
俺は、その杆を野帳の横に置いた。
そして、書いた。
〈杆、八十尺下ロシ、引キ上ゲ。石突キ湿潤。長サ二寸三分〉
〈匂ヒ、雨後ノ土。此方ノモノト異ナル〉
◇
書いてから、俺はもう一行足した。
〈物ハ、行ッテ戻ッタ〉
書いて、その行を見た。
――一往復した。
千年で、初めてかもしれない。
◇
その時、床が大きく震えた。
これまでで一番強い。
天井から、石が落ちた。
俺は、マリの腕を掴んで壁際へ引いた。
老人が、よろけた。
◇
揺れは、長かった。
三十を数えるほど続いた。
止まったとき、部屋の空気が変わっていた。
――音がする。
上からだ。
◇
石が崩れる音。
連続している。
俺は、その音の方角を測った。
――石段だ。
◇
「マリ」
「うん」
「――石段が落ちた」
俺は言った。
俺は、天井を見上げた。
「亀裂じゃない。……全部だ」
◇
老人が、壁に手をついて立ち上がった。
「――出られませんね」
「出られん」
俺は言った。
「二百四十段が、瓦礫になった」
◇
俺は、その事実を野帳に書いた。
書きながら、頭の中で経路を組み直した。
――斜路は、通れない。
亀裂が三本入って、砂が糸のように落ちていた。
あそこも、今の揺れで抜けている。
◇
「マリ」
「うん」
「――出口は、一つしかない」
俺は言った。
俺は、床の穴を見た。
白い光が、上がってきている。
◇
彼女は、その穴を見た。
それから、俺を見た。
「ハルト」
「なんだ」
「――さっき、とめた」
「止めた」
俺は言った。
「今度は、止めるな」
◇
彼女は、少し笑った。
こんな時に、笑った。
「とめない」
彼女は言った。
「だって、いま、はかれてる」
◇
俺は、その言い方に頷いた。
――そうだ。
さっきは、測れない穴だった。
今は、杆が一往復した。
深さ八十尺。押し返しの間隔十二。向こうは雨上がり。
測れる場所になった。




