両側から
俺は、床の刻みの前に立った。
訊くことを、決めた。
――「行って、戻れるか」。
この形を、俺は持っていない。
二年二月で渡したのは「行く」と「戻る」だ。
二つを繋ぐ形を、まだ作っていない。
◇
「マリ」
「うん」
「――『行って、戻る』を、どう渡す」
彼女は、少し考えた。
上を見て、それから言った。
「じゅんばん」
◇
「順番」
「うん」
彼女は言った。
「『いく』のあと、『もどる』を、つづけていう」
「それだけか」
「たりないなら、にかい、いう」
◇
俺は、その案を検討した。
――繰り返す。
行く、戻る。行く、戻る。
二度言えば、それが一つの単位だと伝わるかもしれない。
二年二月、規則的な入力にしか、あれは応えなかった。
◇
俺は、床を叩いた。
「行く」の形。
それから、「戻る」の形。
間を置いて、また「行く」「戻る」。
二度。
◇
床の刻みが、光った。
四つの弧が、順に。
そして、壁に線が出た。
二つの円。接点。
その接点を、点が一つ通った。
◇
点は、向こうの円へ入った。
入って、止まった。
止まったまま、動かない。
俺は、待った。
三十を数えた。六十を数えた。
◇
点は、戻らなかった。
「――マリ」
「みてる」
「戻ってない」
「うん」
◇
俺たちは、その点を見ていた。
百を数えた。
二百を数えた。
点は、向こうの円の中で光ったままだ。
◇
老人が、口を開いた。
「――戻れない、という意味でしょうか」
「分からん」
俺は言った。
「『戻らなかった』としか出てない。……『戻れない』とは言ってない」
◇
「同じでは」
「違う」
俺は言った。
「二年二月、俺は『違う』を三十回もらった。……あれは、間違いには必ず『違う』と返す」
俺は、壁を見た。
「今、『違う』は出てない」
◇
「では、何ですか」
「――知らない、だ」
俺は言った。
「あれは、答えを持ってない。……だから、事実だけ描いた」
◇
俺は、そこでもう一つ試した。
床を叩く。
「行く」「戻る」。
そのあとに、順を変えて。
――「なぜ」の形だ。
◇
壁に、文字が出た。
古い綴りだ。
老人が読んだ。
「――〈タメシタコトガナイ〉」
彼は言った。
「〈ダレモ モドッテイナイ〉」
◇
俺は、その二行を受け取った。
――誰も戻っていない。
十七人が入って、十七人戻らなかった。
その十七人は、こちらの人間だ。
だが、この線は違う。
二十三年前、こちらから向こうへ行った線だ。
◇
「待て」
俺は言った。
「二十三年前、向こうへ行ったのは言葉だけだろう」
俺は、床を叩いた。
「行く」の形と、「言葉」の形。
二年二月で、俺は「言葉」を渡してある。
◇
壁の図が、変わった。
点が、二つになった。
一つは、向こうの円の中。
もう一つは、接点の上。
――止まっている。
◇
「マリ。これは」
「――ふたつ、ある」
彼女は言った。
「ひとつは、むこう。ひとつは、まんなか」
◇
俺は、その「真ん中」を見た。
接点の上に、点が止まっている。
行ってもいない。戻ってもいない。
――途中だ。
◇
「マリ」
「うん」
「――これは、お前じゃないか」
◇
彼女は、動きを止めた。
「わたし」
「二十三年前に言葉が向こうへ行った」
俺は言った。
「そのあと、お前がこっちへ来た。……行きっぱなしでも、戻ったわけでもない」
俺は、その点を見た。
「繋ぎ目の上に、いる」
◇
マリは、その点を長く見ていた。
それから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「――これ、いい、しらせ?」
◇
「――分からん」
俺は正直に言った。
「だが、一つ言える」
「なに」
「お前は、まだどっちにも着いてない」
俺は言った。
「着いてないなら、選べる」
◇
彼女は、頷いた。
頷いてから、こう訊いた。
「ハルト」
「なんだ」
「――ハルトは、どっちが、いい」
◇
俺は、その問いに手を止めた。
二年二月、この娘は一度もこれを訊かなかった。
訊けば、俺が答える。
答えれば、この娘はそちらに引きずられる。
それを分かっていて、訊かなかった。
◇
「マリ」
「うん」
「――なぜ、今訊いた」
「もう、きめてるから」
彼女は言った。
「きいても、かわらない」
◇
俺は、その言い方を聞いた。
――決めている。
なら、答えていい。
「――残ってほしい」
俺は言った。
◇
言ってから、少し黙った。
「それは、俺の都合だ」
俺は言った。
「二年二月、言わなかったのは、言えば選択を歪めるからだ」
「うん」
「今も、歪める」
俺は言った。
「だから、これは数えるな」
◇
彼女は、少し笑った。
「かぞえる」
彼女は言った。
「いちばん、おおきい、かず」
◇
俺は、その返事に何も言えなかった。
二十年、俺は数字で生きてきた。
数字は嘘をつかないし、こちらの素性も訊いてこない。
その数字に、今、俺の言葉が入った。
◇
床が、また震えた。
長い。
壁の図の接点が、円と同じ太さになった。
――繋がった。
◇
そして、部屋の中央の床が沈んだ。
三尺四方。
三度目だ。
沈んで、横へ滑る。
その下から、光が上がってきた。
◇
白い。
これまでの青ではない。
俺は、その穴を覗いた。
――底が見えない。
だが、光っている。
◇
「マリ」
「うん」
「――ここだ」
俺は言った。
「二年二月、俺たちが探してきた場所だ」
◇
老人が、帳面を握りしめて立っていた。
震えている。
「ハルトさん」
「なんだ」
「――見てもよろしいですか」
◇
「見ろ」
俺は言った。
「触るな」
「触りません」
彼は言った。
そして、穴の縁まで歩いて、覗き込んだ。
◇
彼は、長いこと覗いていた。
やがて、こう言った。
「――何も、見えません」
「光だけか」
「光だけです」
彼は言った。
「三百年、我々が奪おうとしていたのは……光だけです」
◇
俺は、その穴の縁に立った。
まず、測った。
三尺四方。深さ、不明。
石を落とす。
――音が返らない。
◇
二年二月前、俺は同じことをした。
禁域の暗がりで、石を投げて音が返らなかった。
あの時、俺は「入らない」と言った。
広さが分からん場所に入るのは、素人だ、と。
◇
「マリ」
「うん」
「――今も、素人だ」
俺は言った。
「二年二月経ったが、測れんことは測れん」
「うん」
「入るのは、間違ってる」
◇
「じゃあ、はいらない?」
俺は、その問いに答えなかった。
――入らないほうが、正しい。
二十年、俺はそれで生き延びてきた。
だが、今夜を逃せば、次は百三十二年後だ。
◇
「マリ」
「うん」
「――俺は、正しいほうを選ばん」
俺は言った。
「二十年で、初めてだ」
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「それ、いっちゃ、だめ」
◇
「――なぜだ」
「ハルトが、まちがったこと、するなら」
彼女は言った。
「わたしが、とめる、やくめ」
彼女は、俺を見た。
「にねんにかげつまえ、そうきめた」




