誘った側
「誰が、誰を誘った」
俺は、壁に向かって言った。
通じるはずがない。この国の言葉だ。
だが、二年二月、俺はこの言い方で三語を渡してきた。
◇
壁の文字が、消えた。
代わりに、点が並んだ。
俺は、数えた。
千八百八十六。
――残った側の数だ。
◇
点が、動いた。
一つずつ、消えていく。
速い。
俺は、消える速さを数えた。
一定ではない。
最初は遅く、後になるほど速い。
◇
全部消えて、一つだけ残った。
――オルソだ。
その一つが、光を強めた。
そして、壁に線を引いた。
◇
線は、二つの円を描いた。
接点がある。
その接点から、線が伸びた。
向こう側の円へ。
――呼びかけの形だ。
◇
「――こっちから、向こうへ」
俺は言った。
「誘ったのは、こっち側だ」
「なぜ、そう読めます」
老人が訊いた。
「線の出所だ」
俺は言った。
「こっちの円から出て、向こうへ入ってる」
◇
俺は、その線を目で追った。
線は、向こうの円に入って、そこで一点になった。
その一点が、光った。
――マリだ。
二十三年前。
◇
「マリ」
「――みてる」
「これは、お前だ」
「うん」
彼女は言った。
「わかる」
◇
俺は、そこで一つ訊きたくなった。
訊く形を、俺は持っている。
二年二月かけて渡した「なぜ」の形だ。
順を変えて訊く。
俺は、床を叩いた。
◇
一。二。三。四。
それから、順を変えて。
二。一。四。三。
――「なぜ」だ。
◇
壁の線が、消えた。
代わりに、また文字が出た。
古い綴りだ。
俺は、老人を見た。
「読め」
「――はい」
◇
彼は、灯りを近づけた。
そして、しばらく黙った。
「――一語です」
彼は言った。
「短い」
「読め」
「〈ヒトリ〉」
◇
俺は、その一語を受け取った。
――一人。
なぜ誘ったか。
答えは、一人だから。
◇
部屋が、静かになった。
誰も、何も言わなかった。
千年前、千八百八十六いた。
千年かけて、一人になった。
その一人が、二十三年前に「帰ろう」と言った。
◇
「――誰に言った」
俺は言った。
「誰かに向けて言ったはずだ」
俺は、床を叩いた。
もう一度、順を変えて。
◇
壁に、また文字が出た。
今度は、長い。
六語ある。
老人が、読んだ。
◇
「〈ダレデモ〉」
彼は言った。
「〈キコエル モノ ガ イレバ〉」
彼は、そこで手を止めた。
◇
「――誰でも」
俺は言った。
「聞こえる者がいれば」
俺は、その意味を組んだ。
――宛先がない。
◇
「マリ」
「うん」
「――向こうに、誰かいると思って言ったんじゃない」
俺は言った。
「いるかどうか分からないまま、言った」
◇
マリは、壁を見ていた。
「――それ」
彼女は言った。
「さびしい」
◇
俺は、その一言に打たれた。
――そうだ。
千年、一人だった。
誰もいない場所で、繋ぎ目を保ち続けた。
そして、二十三年前に一度だけ、宛先のない言葉を出した。
「帰ろう」と。
◇
「マリ」
「うん」
「――お前が拾った」
「うん」
「拾って、こっちへ来た」
俺は言った。
「そして二年二月、毎日ここへ通った」
◇
俺は、そこで気づいた。
――届いてる。
二十三年前の「帰ろう」は、宛先がなかった。
だが、二十三年後に、その言葉を拾った娘が、この部屋に立っている。
毎日、ここへ来ていた。
◇
「マリ」
「なに」
「――お前は、返事をしに来てた」
◇
彼女は、俺を見た。
目が、大きく開いていた。
「わたし」
「二年二月、毎日だ」
俺は言った。
「お前が灯りを持って、俺が数えた。……お前は一日も休まなかった」
◇
彼女は、口を押さえた。
そして、床に膝をついた。
泣いてはいなかった。
ただ、動けなくなっていた。
◇
俺は、その横に立っていた。
声をかけなかった。
――かける言葉が、思いつかない。
二年二月、俺はこの娘に言うべきことを言わずに来た。
言わなくても伝わると思って。
◇
俺は、膝をついた。
彼女と同じ高さになった。
「マリ」
「――うん」
「一つ言う」
◇
「うん」
「――お前がいなかったら、俺はここに来てない」
俺は言った。
「二年二月前、俺は潰しに来た。……止めたのは、お前だ」
◇
「わたし、なにも」
「『もどる』と言った」
俺は言った。
「あと三十歩で柱に触れる場所で、お前が言った。……俺は従った」
俺は、彼女を見た。
「あそこで従わなかったら、俺は潰してた」
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「――それ、はじめて、いった」
「言った」
俺は言った。
「二年、遅れた」
◇
老人が、後ろで帳面を書いていた。
書きながら、こう言った。
「――失礼します」
「なんだ」
「一つ、確認したいことがあります」
◇
「言え」
「二十三年前です」
彼は言った。
「その年、私は本家の代替わりの記録を切り取りました」
俺は、顔を上げた。
◇
「――あんたか」
「私です」
彼は言った。
「三十一年前の、四日の揺れの記録です」
「なぜ切った」
「――隠すためです」
◇
「誰から」
「私自身からです」
彼は言った。
「本家に、句を継いだ子がいる。……それを知ってしまうと、私は手を出します」
彼は、俺を見た。
「三十一年前、あなたは十一でした」
◇
俺は、その言葉を受け取った。
三十一年前、俺は十一だった。
師匠に引き取られて、句を唱え始めた年だ。
地が四日揺れた。
この男は、それを読んで、記録を切った。
◇
「――手を出す、とは」
「殺します」
彼は、あっさり言った。
「本家に継ぐ者がいれば、我々の側の正統性が失われます。……三百年、そういう理屈でやってきました」
◇
「二十三年前、俺の親が死んだ」
「それは、私ではありません」
彼は言った。
「私は当時、記録係でした。……動かせる立場にありません」
「なら、誰だ」
「先代です」
◇
「先代は」
「二十二年前に死にました」
彼は言った。
「私が継ぎました。……継いで、最初にやったのが、あの頁を切ることです」
◇
俺は、その順を頭に入れた。
――親を殺したのは、先代。
この男は、その次だ。
そして継いだ直後に、俺の存在を隠した。
「なぜ、隠した」
「同じことをしたくなかったからです」
◇
「――四十年、隠し続けたのか」
「隠し続けました」
彼は言った。
「二年前まで」
「二年前に、何があった」
「病が見つかりました」
◇
俺は、その因果を組んだ。
――余命を知って、動き出した。
四十年守った線を、自分で越えた。
「あんた」
俺は言った。
「四十年、俺を生かした男が、二年前から殺しに来たのか」
◇
「殺していません」
彼は言った。
「家を焼いたのは、私の指示ではありません」
「じゃあ、誰だ」
「――内部の別の一派です」
彼は言った。
「私が動き出したのを見て、先を越そうとした者がいます」




