帰ろう
壁の図が、消えた。
代わりに、文字が出た。
縦に、四つ。
俺は、それを見た。
――俺の句だ。
◇
シャル。カディ。オム。ネイア。
二年、俺が追いかけてきた四音が、壁に並んでいる。
その隣に、もう一列出た。
同じ四つだ。
だが、字が違う。
◇
「マリ。灯りを寄せろ」
「うん」
俺は、二列を見比べた。
右の列が、俺の知っている字だ。
左の列は――
似ている。だが、簡単だ。
◇
――飾りがない。
セレンが言っていた。
文字は、時間が経つと飾りが増える。
なら、左のほうが古い。
「マリ。左が元の形だ」
「うん」
◇
俺は、その左の列を読もうとした。
読めない。
二年で覚えたのは、右の字だ。
左の古い字は、習っていない。
「――セレンがいれば」
俺は言った。
◇
老人が、前に出た。
「――読めます」
俺は、振り返った。
「あんたが」
「はい」
彼は言った。
「分家の記録は、古い綴りで書かれています。……四十年、それを読んできました」
◇
俺は、その一言に手を止めた。
――そうか。
本家は、音を正しく保った。字は失った。
分家は、字を保った。音を崩した。
三百年、二つに割れたまま、片方ずつ持っていた。
◇
「読め」
俺は言った。
「触るなと言ったが、読むのは触るうちに入らん」
「――ありがとうございます」
彼は、灯りを近づけた。
そして、読み始めた。
◇
「一つ目」
彼は言った。
「〈シャル〉。……これは、代名詞です」
「何のだ」
「――『我ら』です」
◇
俺は、その言葉を受け取った。
シャル。我ら。
サルカドの、前半だ。
「続けろ」
「二つ目、〈カディ〉。これは名詞です」
彼は言った。
「〈カド〉と同じ語根。……『繋ぎ目』」
◇
「三つ目、〈オム〉。方向を示す助詞です」
「『〜へ』か」
「はい」
彼は言った。
「四つ目、〈ネイア〉」
彼は、そこで止まった。
◇
「――どうした」
「動詞です」
彼は言った。
「『帰る』と、記録には書いてあります」
「合ってる」
「――合っていません」
◇
俺は、顔を上げた。
「どういう意味だ」
「古い綴りには、語尾が付いています」
彼は言った。
「この語尾は、分家の記録では失われています。……三百年前に落ちました」
◇
「語尾で、何が変わる」
「形が変わります」
彼は言った。
「『帰る』ではありません」
彼は、その字を指した。
「――『帰ろう』です」
◇
俺は、その差を聞いた。
帰る、と、帰ろう。
「――どう違う」
「大きく違います」
彼は言った。
「『帰る』は、事実の説明です。……『帰ろう』は、誘いです」
◇
俺は、その場に立ったまま動けなかった。
――誘い。
俺は、二十年これを唱えてきた。
危ない場所に入る前の、まじないとして。
意味を知らずに。
◇
「マリ」
「――ハルト」
「全部、並べる」
俺は言った。
俺は、一つずつ声に出した。
「我らの、繋ぎ目へ、帰ろう」
◇
部屋が、静かになった。
老人が、帳面を落とした。
拾わなかった。
「――それだけですか」
彼は言った。
「三百年、我々が奪おうとしていたのは、それだけですか」
◇
「それだけだ」
俺は言った。
「呪文じゃない。命令でもない」
俺は、その四音を口の中で言った。
「――誰かを誘う言葉だ」
◇
マリが、口を押さえていた。
「マリ」
「――ハルト」
「なんだ」
「わたし、きいた」
彼女は言った。
「にじゅうさんねんまえ。……いしの、ところで」
◇
「オム・ネイアだったな」
「うん」
彼女は言った。
「うしろの、ふたつだけ」
「意味は」
「――『へ、かえろう』」
◇
彼女は、そこで震え始めた。
「ハルト」
「なんだ」
「あれ、さそわれてたの」
◇
俺は、答えなかった。
――そうだ。
二十三年前の夜、誰かが「帰ろう」と言った。
その場にいた娘が、こちらへ来た。
命令ではない。
誘いだ。
◇
「だれが」
彼女は言った。
「だれが、さそったの」
「――分からん」
俺は言った。
「だが、一つだけ言える」
◇
「なに」
「その声は、お前を狙ってない」
俺は言った。
「『帰ろう』は、誰かに向けた言葉だ。……そこに、たまたまお前がいた」
◇
「たまたま」
「そうだ」
俺は言った。
「二十三年前、その言葉は誰かに届くはずだった。……届く前に、お前が拾った」
◇
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「じゃあ、わたし」
「なんだ」
「――ひとの、かえりみちを、とった?」
◇
俺は、その言い方に手を止めた。
――違う。
だが、この娘はそう受け取った。
二年二月、この娘は自分のことを後回しにし続けてきた。
そういう受け取り方をする娘だ。
◇
「マリ」
「うん」
「――違う」
俺は言った。
「拾ったんじゃない。……聞こえたんだ」
「おなじ、でしょ」
「違う」
◇
「聞こえるのは、耳がそこにあったからだ」
俺は言った。
「言葉が届く場所に、お前が立ってた。……それだけだ」
俺は、彼女を見た。
「奪ってない」
◇
彼女は、しばらく俺を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「――うん」
彼女は言った。
「ハルトが、そういうなら」
◇
俺は、その返事を受け取った。
――重い。
二年二月、この娘は俺の言葉を信じてきた。
俺の数字は間違ってない、と言い続けてきた。
今、俺は数字ではないことを言った。
それでも、信じた。
◇
俺は、そこで一つ、二十年分のことを思い出した。
――親父が唱えていた。
その親父も、意味を知らなかった。
危ない場所に入る前に唱えろ、とだけ言われた。
俺は、それを守った。
二十年、毎朝、遺跡に降りる前に。
◇
――帰ろう。
降りる前に、俺は毎回「帰ろう」と言っていた。
意味を知らずに。
そして、二十年、帰ってきた。
「マリ」
「うん」
「――親父は、知ってたと思うか」
◇
彼女は、少し考えた。
「しらなかった、とおもう」
「なぜ」
「しってたら、いってる」
彼女は言った。
「『かえろう』って、いみだって、こどもに、いう」
◇
俺は、その通りだと思った。
――言う。
「危ない場所に入る前に唱えろ」ではなく、「帰ろうと言ってから行け」と言う。
そのほうが、簡単だ。
親父は、知らなかった。
知らずに、正しいことを言い続けていた。
◇
俺は、そこでもう一つ気づいた。
――百年ぶんの綴りだ。
ギルドの書庫にある。紙の色が層になっていて、めくるたびに筆跡が変わる。
会ったこともない誰かが、俺と同じ場所に杆を立てて、同じ数字を書いている。
その全員が、この四音を唱えてから降りた。
◇
全員、意味を知らずに。
全員、「帰ろう」と言って降りて、帰ってきた。
一年だけ、抜けている年がある。
誰も測りに来なかった年だ。
――親父が死んだ年だ。
◇
老人が、床の帳面を拾った。
拾って、こう言った。
「ハルトさん」
「なんだ」
「三百年分の記録に、目的が書かれていなかった理由が、分かりました」
◇
「言え」
「――書けなかったのです」
彼は言った。
「『帰ろう』と誘われた側は、我々ではありません」
彼は、その字を見た。
「我々は、他人の誘いを、三百年、盗み聞きしていました」




