本当のこと
「私には、二年前から病があります」
老人は言った。
俺は、その一言を聞いた。
「――何だ」
「名は知りません」
彼は言った。
「医者が三人、別々のことを言いました。……共通していたのは、年内という点だけです」
◇
俺は、その言葉を検討した。
――嘘の可能性がある。
だが、この男は今、嘘を一つ自分で下ろしたばかりだ。
続けて嘘をつくなら、下ろす必要がない。
「――だから、今夜か」
「そうです」
◇
「あんたが言ってた『二年ない』は、星の話じゃなかったのか」
「両方です」
彼は言った。
「星は百三十二年後です。私は年内です。……どちらにしても、今夜しかありません」
◇
俺は、そこで一つ理解した。
――だから、量を惜しまない。
四十貫を用意した理由が、はっきりした。
この男は、次を考えていない。
次がないからだ。
◇
「一つ訊く」
俺は言った。
「開いたら、あんたは何をする」
「――入ります」
「入って」
「見ます」
彼は言った。
「それだけです」
◇
「征服するんじゃないのか」
「できません」
彼は言った。
「私は七十二です。剣も持てません」
彼は、少し笑った。
「三百年、我々は『取り返す』と言ってきました。……何を取り返すのかは、書いてありません」
◇
「なら、あんたは何を見たい」
「――向こう側です」
彼は言った。
「三百年、扉の前にいました。開けたら何があるのかを、誰も見ていません」
彼は、石段の下を見た。
「見て、書き残します」
◇
俺は、その動機を測った。
――見たいだけ。
それなら、俺と同じだ。
二年二月、俺は毎日降りた。
降りて、数えて、書いて帰った。
◇
「一つ違う」
俺は言った。
「俺は、見るために二千人を勘定に入れなかった」
「――そこです」
彼は言った。
「そこが、私とあなたの差です」
◇
「なぜ、入れられる」
「時間がないからです」
彼は言った。
「時間のある人間は、待てます。待てば、誰も死にません」
彼は、俺を見た。
「私には、待つ時間がありません。……だから、他人の時間を使います」
◇
俺は、その言い方を聞いた。
――他人の時間を使う。
正直な言い方だった。
正直だから、余計に悪い。
◇
「一つ提案がある」
俺は言った。
「あんたを、下へ連れて行く」
老人が、顔を上げた。
「――何とおっしゃいました」
「連れて行く」
俺は言った。
「火薬は使わん。石段から降りる」
◇
「石段の下は、行き止まりです」
「行き止まりじゃない」
俺は言った。
「二百四十段の下に、柱がある。……二年二月、俺はそこへ通ってた」
◇
「柱」
「二十歩の太さで、一万四百二十七の刻みがある」
俺は言った。
「三度数えて、三度とも同じだった」
老人は、動かなかった。
◇
「それは、記録に」
「ない」
俺は言った。
「あんたらは、三百年、その手前で止まってた。……十七人が入って、十七人戻らなかった場所の、さらに下だ」
◇
老人は、しばらく何も言わなかった。
それから、こう訊いた。
「――なぜ、私を連れて行くのですか」
◇
「二つある」
俺は言った。
「一つ。あんたが樽を諦める理由になる」
「もう一つは」
「――見せたいからだ」
◇
「見せたい」
「あんたは、目的を書き残さなかった連中の、最後の一人だ」
俺は言った。
「四十年前に、目的がないと知って、それでも続けた」
俺は、彼を見た。
「なら、書き残せ」
◇
「私が」
「あんたしかいない」
俺は言った。
「あんたが書かなきゃ、三百年が全部無駄になる」
◇
老人は、その言葉を受け取った。
受け取って、しばらく立っていた。
周りの十五人は、誰も動かなかった。
誰も、口を挟まなかった。
◇
「――条件があります」
彼は言った。
「言え」
「私の部下を、上げてください」
彼は言った。
「十五人います。……この石段が落ちるなら、上げたい」
◇
「落ちるとは言ってない」
「落ちます」
彼は言った。
「あなたが測った通りなら、四度目を撃たなくても、いずれ落ちます」
彼は、天井を見上げた。
「亀裂は、入ったら止まりません。……私も、それくらいは知っています」
◇
俺は、その判断が正しいことを認めた。
「――上げろ」
「はい」
彼は、部下の方を向いた。
そして、こう言った。
「全員、上がりなさい」
◇
十五人が、動かなかった。
「聞こえましたか」
彼は言った。
「上がりなさい。樽は置いていきなさい」
「――しかし」
「命令です」
◇
一人が、前に出た。
若い男だ。三十くらいか。
「お一人になります」
「なります」
「それは」
「私が決めました」
彼は言った。
「四十年、あなた方は私の決めたことに従ってきました。……今夜が最後です」
◇
男は、しばらく立っていた。
それから、頭を下げた。
深く。
他の十四人も、続いた。
◇
彼らは、石段を上がっていった。
足音が、遠ざかる。
俺は、それを数えた。
十五人分だった。
◇
広間に、三人が残った。
俺と、マリと、老人。
それから、樽が十二。
「ハルトさん」
「なんだ」
「――一つ、お願いがあります」
◇
「言え」
「樽を、処理していただけますか」
彼は言った。
「私には、やり方が分かりません」
◇
俺は、その樽を見た。
二十貫弱。
処理の仕方は、二つある。
濡らすか、離すか。
「マリ」
「うん」
「――水を汲むぞ」
◇
円の広間には、水がある。
天井から落ちる水滴を、二十年前から誰かが桶に受けている。
俺が来たときには、もう置いてあった。
誰が置いたかは知らない。
俺は、それを使い続けている。
◇
俺は、桶を運んだ。
樽の蓋を開ける。
中は、黒い粉だ。
俺は、その上から水を注いだ。
「ハルトさん」
「なんだ」
「――こんな簡単なことですか」
◇
「簡単だ」
俺は言った。
「濡らせば、火薬は使えん。……乾かせば戻るが、乾かすのに十日かかる」
「十日」
「そうだ」
俺は言った。
「十日あれば、俺は町へ戻って、また来られる」
◇
俺は、十二の樽を順に濡らした。
半刻かかった。
老人は、その間ずっと見ていた。
途中で、彼は自分でも桶を運び始めた。
止めなかった。
◇
最後の樽を濡らしたとき、彼が言った。
「――四十年で、初めてです」
「何がだ」
「自分で運びました」
彼は言った。
「三十のときから、私は運ばせる側でした」
◇
俺は、その言葉に答えなかった。
答えるべきことが、思いつかなかった。
この男は、四十年かけてここに来た。
俺は、二年かけてここに来た。
同じ場所に立っている。
◇
「ハルトさん」
「なんだ」
「石段が落ちると、私は上がれません」
彼は言った。
「七十二です。走れません」
「知ってる」
「その上で、連れて行かれますか」
◇
「連れて行く」
俺は言った。
「一つ条件がある」
「どうぞ」
「下で、あんたは何もするな」
俺は言った。
「見て、書け。……触るな」
◇
「触らない」
彼は、繰り返した。
「はい」
彼は言った。
「四十年、触りたくてここにいました。……今夜は、見るだけにします」




