書き残さなかった者
「――書き残していない」
俺は、その言葉を繰り返した。
「はい」
老人は言った。
「三百年分の記録を、私は全部読みました。目的が書かれた頁は、一枚もありません」
◇
俺は、円の広間を見回した。
十五人が、動きを止めてこちらを見ている。
火薬の樽が十二。
その真ん中で、七十の男が「分かりません」と言った。
◇
「一つ訊く」
俺は言った。
「あんたは、それをいつ知った」
「四十年前です」
「――四十年」
「はい」
彼は言った。
「三十のとき、記録を任されました。読み終えて、目的がないと分かりました」
◇
「それで、どうした」
「続けました」
彼は言った。
「他に、やり方を知らなかったので」
◇
俺は、その答えを聞いた。
――やり方を知らなかった。
二年前、ダウムが同じことを言った。
やめる理由もない、と。
四十年やってきた男の本当だ、と。
◇
「あんた」
俺は言った。
「ギルド長に似てる」
「――どなたです」
「メルシアの測量士ギルドの長だ」
俺は言った。
「四十年やってる。……なぜやってるか答えられんと、本人が言った」
◇
老人は、少し黙った。
「その方は、人を巻き込んでおられますか」
「――巻き込んでない」
「では、似ていません」
彼は言った。
◇
俺は、その線引きを聞いた。
――自分で引いてる。
この男は、自分が何をしているかを分かっている。
分かった上で、やっている。
その方が、厄介だ。
◇
「マリ」
「うん」
「――樽を数えろ」
「じゅうに」
彼女は言った。
「ぜんぶ、おなじ、おおきさ」
「一つ、二貫弱だ」
俺は言った。
「十二で、二十貫を少し切る」
◇
俺は、その配置を見た。
樽は、広間の中央に固めてある。
――おかしい。
火薬を使うなら、使う場所の近くに置く。
中央に固めるのは、運びやすさのためだ。
まだ、置き場所を決めていない。
◇
「一つ訊く」
俺は言った。
「あんた、どこを撃つつもりだ」
「――踊り場です」
「踊り場は、もう三度撃った」
「四度目で抜けます」
「抜けん」
◇
「なぜ、そう言い切れます」
「三度の結果を見たからだ」
俺は言った。
「一度目で砂が落ちた。二度目で石が二つ落ちた。三度目で亀裂が三本入った」
俺は、彼を見た。
「壁は、一分も欠けてない」
◇
老人の顔が、初めて動いた。
「――亀裂を、見たのですか」
「測った」
俺は、野帳を見せた。
「四尺。三尺八寸。二尺二寸。……粉が出てた。まだ動いてる」
◇
彼は、その野帳を見た。
長く見ていた。
「これは、どこで」
「踊り場の真下だ」
俺は言った。
「あんたらが叩いてた場所の、六十尺下を通ってきた」
◇
「――そんな道がありますか」
「ある」
俺は言った。
「三百年前の図面に描いてある。……あんたらの記録室にあったやつだ」
老人が、動きを止めた。
◇
「記録官が」
「持ち出した」
「二年前ですね」
「二年前だ」
俺は言った。
「あんたは、それを知ってて泳がせた」
◇
「知っていました」
彼は言った。
「読めないと思っていました」
彼は、少し目を伏せた。
「基準線のない図面です。三百年、誰にも読めませんでした」
◇
「読めた」
俺は言った。
「通路の幅が四尺五寸で描いてある。……それを物差しにすれば読める」
俺は、野帳を閉じた。
「基準線がないんじゃない。基準が、絵の中にあった」
◇
老人は、しばらく何も言わなかった。
それから、こう言った。
「――三百年、誰も気づきませんでした」
「気づかんだろうな」
俺は言った。
「毎日その数字を書いてる人間じゃなきゃ、思いつかん」
◇
俺は、そこで一つ言うことにした。
言うつもりはなかった。
だが、この男は「分かりません」と正直に答えた。
なら、こっちも一つ渡す。
「あんたの句は、間違ってる」
◇
老人の目が、動いた。
「――どこがです」
「長い」
俺は言った。
「あんたのは十一音だ。俺のは四音だ」
「三百年で、増えたと」
「増えた」
◇
「削ればよろしいのですか」
「削っても駄目だ」
俺は言った。
「どこが増えた部分かを、あんたは知らん。……知らずに削ったら、残るのは別の言葉だ」
◇
「あなたは、ご存じなのですか」
「三分の二は知ってる」
俺は言った。
「二年かかった。……毎日一つずつ渡して、返してもらった」
◇
「渡した」
「そうだ」
俺は言った。
「奪ってない」
◇
老人は、その言葉を受け取った。
受け取って、しばらく立っていた。
「ハルトさん」
「なんだ」
「――私に、二年ください」
◇
俺は、その要求を聞いた。
「あんた、七十だろう」
「七十二です」
「二年経てば、七十四だ」
「はい」
彼は言った。
「重なりは、過ぎています」
◇
「なら、意味がない」
「あります」
彼は言った。
「私が生きているうちに開かなくても、開け方が残ります」
彼は、樽を見た。
「三百年、我々が残せなかったものです」
◇
俺は、その言い方を検討した。
――目的を書き残さなかった連中だ。
その最後の一人が、初めて「残したい」と言っている。
嘘かもしれない。
時間を稼ぐための方便かもしれない。
◇
俺は、マリを見た。
彼女は、樽を見ていた。
「マリ」
「うん」
「――どう思う」
「わかんない」
彼女は言った。
「でも、ひとつ、きになる」
◇
「言え」
「そのひと、いま、たるのそばに、いる」
彼女は言った。
俺は、老人を見た。
樽から、三歩の位置に立っている。
――さっきより、近い。
◇
俺は、その距離を測った。
話している間に、二歩詰めている。
気づかなかった。
――こっちを見ながら、動いていた。
「マリ。下がれ」
「うん」
◇
老人は、動きを止めた。
止めて、少し笑った。
初めて笑った。
「――お嬢さんは、よく見ておられる」
「二年、俺の横で数えてた」
俺は言った。
「あんたの歩数も、数えてたんだろう」
◇
「ろっぽ」
マリが言った。
「はなしはじめてから、ろっぽ、ちかづいた」
老人は、頷いた。
「――六歩です」
彼は言った。
「正確です」
◇
俺は、その笑い方が気に入らなかった。
――褒めた。
この男は、こちらの正確さを褒める。
二年前もそうだった。俺の測量を褒め、図面を見せてほしいと言った。
褒めながら、六歩詰めていた。
◇
「一つ言っておく」
俺は言った。
「あんたが樽に触っても、俺は動かん」
「――ほう」
「火はどこだ」
俺は言った。
「あんた、火を持ってない」
◇
老人は、動きを止めた。
「灯りは、そこの三人が持ってる」
俺は言った。
「あんたの手は空だ。……樽に触っても、火が来るまでに二歩ある」
俺は、彼を見た。
「二歩なら、間に合う」
◇
「――測っておられましたか」
「測ってる」
俺は言った。
「あんたが六歩詰める間に、俺は灯りの位置を三度確かめた」
◇
老人は、その場に立ったまま、しばらく黙っていた。
それから、両手を上げた。
空にして、見えるように。
「――失礼しました」
彼は言った。
「癖です。話しながら、間合いを詰める癖があります」
◇
「癖じゃないだろう」
「癖です」
彼は言った。
「四十年、交渉でそうしてきました。……今は、必要ありませんでした」
彼は、三歩下がった。
樽から、九歩の位置に。
◇
「ハルトさん」
「なんだ」
「先ほどの願いは、取り下げます」
彼は言った。
「二年ください、と申し上げました。……あれは、時間稼ぎです」
◇
俺は、その自白を聞いた。
「――なぜ、言う」
「見抜かれたからです」
彼は言った。
「見抜かれた嘘を続けると、次の言葉も嘘だと思われます」
彼は、俺を見た。
「これから、本当のことを申し上げるので」




