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三通目「もう一度、あの頃みたいに」

 海の見える丘の公園に、黄色いポストがある。郵便局のものではなく、集荷時間の記載もない。小さな木の板には、こう書かれている。

 ①このポストは郵便局のポストではありません。

 ②もう会えない人へ、手紙を書いてください。

 ③ポストの使用は一人一回限りです。

 誰が管理しているのかは、今も誰も知らない。ただ、手紙を投函した数日後、古い郵便配達員のような装いをした、言葉を発さない何者かが、直接手渡しで返事を届けにくるのだという。

 これは、そんな黄色いポストを訪れた人達の物語である。

 宮本清は、七十三歳になる。海沿いの小さな町で、長年一軒家に一人で暮らしていた。

 庭にはもう何年も手入れをしていない花壇があり、居間の壁には色褪せた家族写真が何枚も飾られている。写真の中では、まだ若い清と、その隣で笑う妻・幸子、そして幼い子どもたちが五人、みんなで肩を寄せ合っている。今の清の暮らしからは想像もつかないほど、賑やかな写真だった。

 清と幸子が結婚したのは、まだ二十代前半の頃だ。清は港で荷揚げの仕事をしていたが、稼ぎは決して多くはなかった。子どもが一人、二人と増えていくうちに、家計はいつも火の車だった。米が底をつき、おかずが漬物だけの日もあった。それでも、清と幸子は、子どもたちの前では笑うことをやめなかった。

「お金がなくても、笑ってりゃなんとかなる」

 それが幸子の口癖だった。清は毎日、体がへとへとになるまで働いた。それでも家に帰れば、五人の子どもたちが「お父さん!」と駆け寄ってくる。疲れなど吹き飛ぶほどの声だった。清は薄い給料袋を握りしめたまま、それでも子どもたちを肩車し、庭を何周も駆け回った。息が切れても、子どもたちが笑う顔を見たくて、何度でも繰り返した。

 貧しかったが、あの頃の家には、いつも笑い声があった。

  *

 子どもたちが次々と独り立ちしていき、家の中は徐々に静かになっていった。五人の子ども全員が家を出た頃、清と幸子は、ようやく二人だけの時間を持てるようになった。

 毎週のように、二人で近所を散歩した。手を繋いで、桜の季節には花見に、秋には紅葉を見に、少し足を伸ばして温泉にも出かけた。若い頃は忙しくてできなかった分を取り戻すように、二人はよく笑い、よく喋った。

「清さん、若い頃はもっと痩せてたのに」

「お前だって、あの頃より貫禄ついたじゃないか」

 そんな他愛もない冗談を言い合いながら、手を繋いで歩く時間が、清にとって何よりの幸せだった。ようやく手に入れた穏やかな日々。このまま二人で、静かに年を重ねていくのだと、清は疑いもしなかった。

 だが、そんな穏やかな時間は、長くは続かなかった。

  *

 幸子に癌が見つかったのは、清が六十三歳の秋だった。定期検診で異常が見つかり、精密検査の結果、すでにある程度進行した状態だということがわかった。

 医師から告知を受けたとき、清の方が動揺していた。手が震え、言葉が出てこなかった。だが、幸子は存外落ち着いていた。

「そう、なっちゃったのね」

 まるで天気の話でもするような穏やかさで、幸子はそう言った。そして、いつものように微笑んだ。

「大丈夫よ、清さん。私、そんなに簡単には死なないから」

 その言葉を、清は信じたかった。信じるしかなかった。

 それから、長い闘病生活が始まった。清は仕事を早めに切り上げ、毎日のように病院へ通った。抗がん剤の副作用で幸子の髪は抜け落ちていったが、それでも幸子は病室で清を見るたびに、変わらず笑顔を見せた。

「今日もお仕事お疲れ様。ちゃんとご飯食べてる? 冷凍庫のおかず、ちゃんと食べてね」

 自分が病に苦しんでいるはずなのに、幸子はいつも清の心配ばかりしていた。清はそのたびに、情けなさで胸が締め付けられた。何もできない。ただ隣に座って、手を握ることしかできない。あんなに丈夫で、あんなに気丈だった幸子が、日に日に小さくなっていく。それを見ていることしかできない自分が、清は許せなかった。

 病室では、幸子の前で必死に笑顔を作った。だが、家に帰れば、一人になった途端に涙が止まらなくなった。台所に立ってご飯を作る気力もなく、幸子が座っていたはずの椅子を見つめては、声を殺して泣いた日が何度もあった。

 晩年、幸子は寝たきりになった。体を起こすことすら難しくなっても、清が見舞いに行くと、必ず薄く目を開けて微笑んでくれた。

「清さん……今日も、来てくれたの」

 その声は、日に日に小さくなっていった。それでも、最後まで幸子は笑顔を絶やさなかった。

 幸子が息を引き取ったのは、桜が散り始めた春の朝だった。清が握っていた手から、静かに力が抜けていくのを、清は今でも鮮明に覚えている。

  *

 それから十年が経った。

 子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、盆と正月には顔を出してくれる。だが、清の様子はすっかり変わってしまっていた。かつて子どもたちを肩車して庭を駆け回っていた快活な父親は、いつしか、口数少なく、笑うことのほとんどない老人になっていた。

 長男の浩之が家族を連れて帰省しても、清はどこか上の空だった。孫たちが話しかけても、生返事をするだけ。孫娘の結衣などは、いつからか「おじいちゃん、ちょっと怖い」と、清に近づかなくなっていた。

 清自身、わかっていた。自分が変わってしまったことを。だが、どうすることもできなかった。幸子のいない家は、あまりにも静かで、あまりにも広かった。誰かに笑顔を見せる理由が、清の中から消えてしまったようだった。

  *

 その年のお盆、久しぶりに浩之家族が三日間泊まりがけで帰省した。最終日の夜、縁側で夕涼みをしていると、浩之がふと、こんな話を始めた。

「そういえば父さん、丘の公園に黄色いポストがあるの、知ってる? 昔はなかったはずだけど、いつの間にかできてたよな」

 清は、ぼんやりと頷いた。その存在自体は、噂程度に耳にしたことがあった。だが、詳しいことは何も知らなかった。

「あれ、もう会えない人に手紙を書くと、返事が届くんだってさ。職場の同僚が、亡くなったお祖父さんに手紙を書いたら、本当に返事が来たって言ってた。半信半疑だけど……父さん、母さんに、何か伝えたいことないの?」

 浩之は、それ以上何も言わなかった。だが、その言葉は、静かに、しかし確かに、清の胸の奥深くに落ちていった。

 その夜、清はなかなか寝付けなかった。天井を見つめながら、幸子のことばかり考えていた。伝えたいこと。伝えられなかったこと。十年間、ずっと胸の奥にしまい込んだままだったものが、次々と溢れ出してくるようだった。

  *

 翌日、浩之たちが東京へ帰っていったあと、清は一人、家の中でしばらく座り込んでいた。そして、意を決したように立ち上がると、古い便箋と万年筆を引き出しから取り出した。

 お盆の昼下がり、外はうだるような暑さだった。だが、清は迷わず玄関を出て、丘の公園までの道を歩き始めた。かつて幸子と何度も歩いた道だった。汗が首筋を伝い、日差しが容赦なく肌を焼いた。それでも、なぜか苦にはならなかった。一歩一歩、幸子との思い出を辿るように、清は坂道を上っていった。

 公園に着き、桜の木の下の黄色いポストを見つけると、清はベンチに腰を下ろし、震える手で便箋を広げた。

 『幸子へ

 突然の手紙で驚かせてすまない。だが、どうしても伝えたいことがあって、こうしてペンを取った。

 お前が逝ってから、もう十年になる。あっという間だった気もするし、途方もなく長かった気もする。

 あの日から、俺はずっと、お前の前で笑えなかった分を悔やんでいた。病室では作り笑いばかりで、家に帰れば毎晩泣いていた。お前があんなに苦しい思いをしていたのに、俺は何もしてやれなかった。手を握ることしかできなかった。あんなに情けない夫はいなかったと思う。

 それから十年、俺はうまく笑えなくなってしまった。子どもたちにも、孫にも、どんな顔をしていいのかわからなくなった。結衣が俺を怖がっているのも、わかっている。情けない祖父ちゃんだと、自分でも思う。

 昨日、浩之から、このポストのことを聞いた。半信半疑だが、伝えたいことがありすぎて、居ても立っても居られなくなった。

 幸子、お前と過ごした日々は、貧しくても、本当に幸せだった。子どもたちと駆け回った庭、お前と手を繋いで歩いた桜並木、あの温泉旅行。全部、俺の宝物だ。

 お前がいなくなって、俺は生きる張り合いを失ってしまった。どうすれば、あの頃みたいに笑えるのか、もうわからないんだ。

 幸子、お前に会いたい。ただ、それだけだ。

                   清』

 書き終えた便箋を封筒に入れ、清はポストの投函口にそっと差し入れた。ことん、という音が、蝉時雨の中に静かに響いた。

 清はしばらくその場に立ち尽くし、海を見下ろした。眼下に広がる海は、あの頃、幸子と何度も一緒に眺めた景色と、少しも変わっていなかった。

  *

 それから四日後の夕方、清の家の呼び鈴が鳴った。

 玄関を開けると、そこに立っていたのは、灰色がかった詰襟の制服に丸い帽子をかぶった、見知らぬ老人だった。肩から下げた革の鞄は、ところどころ色が変わるほど使い込まれていた。

 清が声をかけても、老人は何も答えなかった。ただ穏やかな眼差しでこちらを見つめ、鞄から一通の古びた封筒を取り出すと、両手でそっと差し出した。

 清が震える手でそれを受け取り、思わず封筒に目を落とした瞬間――顔を上げると、もう老人の姿はどこにもなかった。夕暮れの庭先には、蝉の声だけが響いていた。

 封筒の差出人の欄には、清の記憶よりもずっと若々しい、けれど間違いなく覚えのある字で、こう書かれていた。

  ――宮本幸子

 清は玄関先に立ち尽くしたまま、震える手で封を切った。中から出てきたのは、一枚の便箋だった。

 『清さんへ

 お手紙、ありがとう。まさか清さんから手紙をもらえる日が来るなんて、思ってもみなかったから、本当に嬉しかった。

 まず言わせて。清さん、何も悪いことなんてしていないわ。あなたは、精一杯やってくれた。あの頃のこと、私は全部、ちゃんと覚えているから。

 覚えてる? 病室で、あなたがいつも無理して笑ってくれていたこと。私、本当は気づいていたのよ。あなたの笑顔が、少し不器用になっていることに。でもね、それでも嬉しかった。清さんが、私のために笑おうとしてくれているって、それだけで十分だった。

 あなたは、手を握っていてくれた。それだけで良かったの。何もできなかったなんて、思わないで。あの頃、あなたが握ってくれた手の温もりは、私にとって、何よりの薬だった。痛くて、苦しくて、眠れない夜も、あなたの手の感触を思い出すだけで、頑張れたのよ。

 それから、若い頃のこと。お金がなくて大変だったけど、私、あの頃が一番幸せだったと、今でも思っているの。清さんが疲れているはずなのに、子どもたちを肩車して庭を走り回ってくれていたこと。あの光景を、私は縁側からずっと見ていたわ。あなたの背中は、本当に大きくて、頼もしかった。

 二人で手を繋いで歩いた桜並木も、紅葉狩りも、温泉旅行も、全部、私の宝物よ。あなたと過ごした時間は、貧しくても、本当に豊かだった。

 清さん、十年間、あなたが笑えなくなってしまったこと、私、ずっと見ていたわ。結衣ちゃんがあなたを怖がっているのも、知っている。でもね、それはあなたが冷たいからじゃない。あなたが、それだけ私のことを大切に想ってくれていた証拠だって、私にはわかるから。

 でも、清さん。もう十分よ。もう、自分を責めるのはやめて。

 私は、あなたが笑っている姿が、一番好きだったの。貧乏でも、疲れていても、子どもたちの前で笑ってくれていたあなたが、私の誇りだった。だから、お願い。もう一度、あの頃みたいに笑って。

 結衣ちゃんにも、優しく笑いかけてあげて。あの子はきっと、清さんの笑顔を待っているはずだから。浩之たちにも、たまには昔みたいに、一緒に大きな声で笑ってあげて。

 私は、いつもあなたのそばにいるわ。目には見えなくても、ちゃんと側にいる。だから清さん、私の分まで、これからの毎日を大切に、笑って生きてね。

 清さん、今まで本当にありがとう。あなたと結婚できて、あなたの妻でいられて、私は本当に幸せでした。

 また会えるその日まで、どうか元気で。

                   幸子』

 清は、便箋を握りしめたまま、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。堪えていたものが、一気に溢れ出した。声を上げて、まるで子どものように泣いた。十年間、誰にも見せたことのない涙だった。

 夜通し、清は幸子の手紙を何度も何度も読み返した。読むたびに涙が溢れたが、不思議と、心の奥にあった重い何かが、少しずつ軽くなっていくのを感じた。

 窓の外が白み始める頃、清はようやく涙が止まった。手紙を胸に抱いたまま、清は縁側に座り、朝日に照らされ始めた庭を見つめた。かつて子どもたちと駆け回った、あの庭を。

 ふと、口元が緩んでいることに、清は自分で気づいた。

 何年ぶりだろうか。心の底から、自然と笑みがこぼれたのは。

「幸子……ありがとうな」

 清は空を見上げ、静かにそう呟いた。夏の朝の澄んだ空気の中、蝉の声が、まるで幸子の笑い声のように、遠くから聞こえてくる気がした。

  *

 その年の暮れ、浩之たちが正月に帰省すると、玄関先で清が笑顔で出迎えた。久しぶりに見る、あの頃の父の笑顔だった。

 最初は戸惑っていた結衣も、清が「結衣、じいちゃんと肩車しようか」と声をかけると、目を輝かせて駆け寄ってきた。清は結衣を肩に乗せ、よろめきながらも、庭を歩いた。息が切れても、結衣の笑い声が聞きたくて、清は何度も庭を回った。

 その光景を見ていた浩之の目には、いつのまにか涙が浮かんでいた。十年前に失われたはずの、あの賑やかな笑い声が、今、確かに戻ってきていた。

 清は、空を見上げながら、心の中で呟いた。

(幸子、見えるか。俺は、ちゃんと笑えているぞ)

 海風が丘を渡り、遠くの公園で、桜の古木がゆっくりと揺れていた。

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