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二通目「守られた命」

 海の見える丘の公園に、黄色いポストがある。郵便局のものではなく、集荷時間の記載もない。ただ、小さな木の板にこう書かれている。

 ①このポストは郵便局のポストではありません。

 ②もう会えない人へ、手紙を書いてください。

 ③ポストの使用は一人一回限りです。

 誰が管理しているのかは、今も誰も知らない。ただ、手紙を投函した数日後、古い郵便配達員のような装いをした、言葉を発さない何者かが、直接手渡しで返事を届けにくるのだという。

 これは、そんな黄色いポストを訪れた人達の物語である。

 神崎大輔は、県内でも有数の消防署で小隊を率いる消防士長だった。四十二歳。部下からの信頼も厚く、現場での判断力には定評があった。だが、その神崎には、誰にも見せない一面があった。

 自宅に帰ると、必ず一匹の猫が玄関先で出迎える。琥珀色の目をした、赤茶色の毛並みの雑種猫だ。名前は「コハク」。神崎の足に頭をこすりつけ、離れようとしない。神崎が椅子に座れば膝に乗り、眠るときには枕元を離れない。まるで、神崎のことを片時も見失いたくないとでもいうように。

 このコハクには、忘れることのできない過去があった。

  *

 二年前の冬、神崎の小隊は、繁華街の雑居ビル火災の消火活動にあたっていた。老朽化した五階建てのビルは既に三階まで炎に包まれ、内部は視界がほとんど利かない状態だった。避難確認は進み、あとは鎮火を待つだけという段階になったとき、小隊の中でもっとも若い隊員――水野蓮が、無線越しに声を上げた。

「隊長、奥から猫の鳴き声がします!」

 水野蓮は二十五歳。消防士になって三年目、神崎のことを誰よりも慕っていた後輩だった。「神崎隊長みたいな消防士になりたいです」と、まっすぐな目で何度も言っていたのを、神崎は覚えている。

「今は撤収を優先しろ、行くな!」

 神崎は無線でそう怒鳴った。だが、水野の返事は「すみません、すぐ戻ります!」という一言だけだった。次の瞬間、内部で激しい崩落音が響いた。

 救出されたとき、水野はすでに息をしていなかった。崩れ落ちた瓦礫の下、水野は自分の体で覆うようにして、一匹の子猫を守っていた。猫は奇跡的に、かすり傷ひとつなかった。

 もともと、そのビルの裏路地に住み着いていた野良猫だったらしい。行くあてもないその猫を、神崎は署に持ち帰り、そのまま自宅で飼うことにした。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしなければいけない気がした。

 コハクと名付けたその猫は、なぜか神崎から片時も離れようとしなかった。まるで、水野の想いを託されたかのように。

  *

「今は撤収を優先しろ」――あの一言が、正しかったのかどうか。神崎は二年間、片時も忘れたことがなかった。

 もし、もっと早く強い口調で止めていたら。もし、自分が先に飛び込んでいたら。もし、そもそも撤収の判断をもっと早く下していたら。「もし」は数えきれないほど頭の中を巡り、そのたびに神崎は自分を責めた。

 あの日から、神崎は誰よりも厳しく現場に立つようになった。部下の安全確認は人一倍徹底し、少しでも危険な兆候があれば即座に撤退命令を出す。優しさからではなく、償いに近い感覚だった。二度と、自分の判断で誰かを失いたくない。その一心で、神崎は消防士を続けていた。

  *

 水野の三回忌を控えたある週末、神崎は久しぶりに実家に帰省した。両親の墓参りを済ませたあと、偶然、高校時代の同級生と再会し、誘われるまま居酒屋で酒を酌み交わすことになった。

 酔いが回った頃、同級生がふと、こんな話をした。

「そういえば、丘の公園にある黄色いポスト、知ってるか? もう会えない人に手紙を書くと、数日後に本当に返事が届くんだと。俺の親戚も、亡くなった祖母に手紙を出したらしくてさ。半信半疑だったらしいけど、本当に返事が来たって、えらく驚いてたよ」

 神崎は、その話を笑い飛ばすことができなかった。むしろ、酔いも忘れて、話に引き込まれていた。

「その公園、まだ場所は覚えてるか?」

 気づけば、そう聞き返していた。

  *

 翌日、神崎はレンタカーを借り、教えられた通りの丘を上った。海を見下ろす小さな公園の隅、桜の古木の下に、確かにその黄色いポストは立っていた。

 注意書きを読んだ神崎は、しばらくその場を動けなかった。ポケットから手帳を取り出し、震える手でページを一枚破ると、そこに文字を綴り始めた。

 『水野へ

 二年前、お前を止められなくて、本当にすまなかった。

 もっと強く止めていれば。もっと早く撤収を決めていれば。お前が死んだのは、俺の判断ミスだと、ずっと思っている。今でも、それは変わらない。

 お前が守った猫を、俺が飼っている。コハクという名前をつけた。あいつは今でも、まるでお前の代わりのように、俺のそばを離れない。あいつを見るたびに、お前のことを思い出す。

 水野、お前は本当にいい消防士だった。お前みたいな部下を持てて、俺は誇らしかった。だから、俺を許してくれとは言わない。ただ、謝りたかった。

 本当に、すまなかった。

                   神崎』

 書き終えた便箋を封筒に入れ、神崎はポストの投函口にそっと差し入れた。ことん、という小さな音が、静かな公園に響いた。

  *

 それから四日後の夜、神崎の自宅のインターホンが鳴った。

 玄関を開けると、そこに立っていたのは、灰色がかった詰襟の制服に丸い帽子をかぶった、見知らぬ老人だった。肩から下げた革の鞄は、使い込まれて色が変わっている。

 神崎が「どちら様でしょうか」と尋ねても、老人は何も答えなかった。ただ、静かな眼差しでこちらを見つめ、鞄から一通の古びた封筒を取り出すと、両手でそっと差し出した。

 神崎がそれを受け取った瞬間、足元にいたコハクが、突然、老人に向かって小さく鳴いた。まるで、誰かに挨拶をするかのように。

 神崎が驚いてコハクに目をやり、そして視線を戻したときには、もう老人の姿はどこにもなかった。玄関先には、夜の静けさだけが残っていた。

 手の中の封筒には、見覚えのある――だが神崎の記憶よりもずっと若々しい――字で、こう書かれていた。

  ――水野蓮

 神崎は震える手で封を切った。中から出てきたのは、一枚の便箋だった。

 『神崎隊長へ

 お手紙、ありがとうございます。まさか隊長から手紙が届くなんて、正直、驚きました。

 最初に言わせてください。隊長は何も悪くありません。あの判断は、絶対に間違っていませんでした。

 俺、覚えてますよ。「今は撤収を優先しろ、行くな」って、隊長、はっきり言ってくれましたよね。あれは正しい判断でした。悪いのは、あの声を聞いて、勝手に飛び込んだ俺です。隊長のせいなんかじゃない。俺が、自分の判断で動いたんです。

 でも、後悔はしていません。本当です。

 あのとき聞こえた鳴き声、今でもはっきり覚えています。あんな瓦礫の下で、小さな声で必死に鳴いてる猫がいて、放っておけなかった。コハクって名付けてくれたんですね。あいつ、元気にしてますか。隊長にべったりなんだろうなって、なんとなく想像がつきます。あいつ、俺にもそうでしたから。

 コハクは、俺が守った命です。あのとき助けられなかったら、今頃どうなっていたかわかりません。俺の命と引き換えになってしまったけれど、それでも、俺はあの子を助けられて良かったと、心から思っています。だから隊長、どうかコハクのことを、俺の分まで可愛がってやってください。

 それと、もう一つ伝えたいことがあります。

 俺、消防士になったのは、隊長みたいになりたかったからです。訓練中、周りに置いていかれそうになった俺に、隊長が「お前ならできる」って言ってくれたこと、ずっと覚えてます。あの一言がなかったら、俺はとっくに辞めてたと思います。隊長の背中を追いかけて、少しでも近づきたくて、必死に頑張ってきました。

 だから、隊長。俺は隊長の部下でいられたことを、本当に誇りに思っています。短い間だったけど、隊長の下で働けて、幸せでした。

 隊長は今も、現場で誰かを守り続けていますよね。コハクを通じて、なんとなくわかるんです。隊長がちゃんと前を向いて、消防士を続けてくれていること。それが、俺には何よりも嬉しいです。

 どうか、自分を責め続けるのは、もうやめてください。隊長が悔いて苦しんでいる姿は、俺が一番見たくないものです。俺は今、ちゃんと安らかにいます。だから隊長も、どうか自分を許してあげてください。

 最後に、これだけは言わせてください。

 隊長、今まで本当にありがとうございました。俺を鍛えてくれて、俺を信じてくれて、俺の憧れでいてくれて。

 これからも、コハクと一緒に、元気で。

                   水野蓮』

 神崎は、便箋を持つ手を止められないまま、声を殺して泣いた。二年間、誰にも見せたことのない涙だった。膝の上に飛び乗ってきたコハクが、神崎の頬に鼻先をすり寄せる。その温かさに、神崎はコハクを強く抱きしめた。

「そうか……お前、蓮の分まで、生きてくれてるんだな」

 嗚咽混じりの声で、神崎はそう呟いた。

 自分を責め続けることでしか、水野への償いはできないと思っていた。けれど、水野が本当に望んでいたのは、そんなことではなかった。神崎が前を向いて、誇りを持って、この仕事を続けていくこと。それこそが、水野の願いだったのだ。

 窓の外には、静かな夜空が広がっていた。神崎は手紙をそっと胸に当て、もう一度、コハクの頭を撫でた。

「明日からも、頑張るよ。お前と、水野に、恥じないように」

 その夜、神崎は久しぶりに、朝まで穏やかに眠ることができた。

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