一通目「ごめんねと、言えなかった言葉」
海沿いの町はずれに、地元の人しか知らないような小さな公園がある。バス停から急な坂道を十五分ほど上ったところにある、名もない丘の上の公園だ。遊具もベンチが二つあるだけの、何の変哲もない場所。けれど、そこからの眺めだけは格別だった。眼下に広がる海と、遠くに霞む岬。天気のいい日には、水平線がまっすぐな一本の線になって空と海を分けているのが見える。
その公園の隅、桜の古木の下に、一つの郵便ポストが立っている。
街中でよく見かける赤いポストではない。錆の浮いた、けれど丁寧に塗り直された跡のある、鮮やかな黄色のポストだ。近づいてよく見ると、投函口の上に小さな木の板がかけられていて、そこには古びた字でこう書かれている。
①このポストは郵便局のポストではありません。
②もう会えない人へ、手紙を書いてください。
③ポストの使用は一人一回限りです。
集荷時間の記載はどこにもない。差出人の欄も、切手を貼る場所の指定もない。ただ、誰が管理しているのかもわからないまま、そのポストは何十年もそこに立ち続けているという。地元の人々の間では、いつからか「あの丘のポスト」と呼ばれ、亡くなった誰かに宛てて手紙を書く場所として、静かに語り継がれてきた。
この物語は、そんな黄色いポストを訪れた人達の物語である。
*
早瀬真希がその公園を訪れたのは、父・早瀬修一が亡くなってから四十九日が過ぎた、少し肌寒い十一月の午後だった。
真希と父は、決して仲の良い親子ではなかった。母を早くに亡くし、女手一つならぬ男手一つで育てられた真希は、思春期に差しかかる頃から父と衝突するようになった。進路のこと、門限のこと、恋人のこと――話せば話すほどすれ違い、いつしか会話は喧嘩にしかならなくなっていた。
「お前は何もわかってない」
「お父さんこそ、何もわかろうとしてないじゃない」
そんな言葉ばかりを投げ合った記憶しかない。大学進学を機に家を出た真希は、就職してからも実家に帰ることはほとんどなかった。電話をかけても事務的な会話で終わり、正月に顔を出すことすら年々減っていった。それでいい、と思っていた。父と自分は、きっと一生わかり合えない。そう決めつけて、真希は自分の生活を優先し続けた。
父が脳梗塞で倒れたという知らせを受けたのは、ある平日の昼過ぎだった。急いで病院に駆けつけたときには、父はすでに意識を失っていた。そのまま一度も目を覚ますことなく、三日後に息を引き取った。最後に交わした言葉は、半年前の電話での「うん、じゃあね」という、あまりに素っ気ない一言だった。
葬儀を終え、遺品整理のために実家に戻った真希は、父の書斎の引き出しの奥から、一冊の古い日記帳を見つけた。表紙はすっかり色褪せていたが、几帳面な父の字で、毎日のように何かが書き綴られていた。
最初は義務的にページをめくっていただけだった。けれど、ある日付のページで、真希の手は止まった。
『真希が大学に合格した。本当は誰よりも先に「おめでとう」と言いたかったのに、うまく言葉が出なかった。あの子は、私が喜んでいないと思っただろうか』
次のページ、また次のページ。読み進めるうちに、真希の知らない父の姿が、そこには何年分も綴られていた。
『真希が家を出る日、車で駅まで送っていくと言ったら断られた。寂しい気持ちを、素直に伝えられない自分が情けない』
『真希の会社が忙しいと聞いた。無理はしていないだろうか。電話をしても、いつも用件だけで切られてしまう。私の声を、あの子はもう聞きたくないのかもしれない』
『今日、真希から久しぶりに電話があった。ただの事務連絡だったが、声が聞けただけで嬉しかった。もっと話したかったが、また素っ気なくしてしまった。不器用な父親で、本当にすまない』
最後のページ、亡くなる一週間ほど前の日付には、こう書かれていた。
『丘の公園に、黄色いポストがあるという話を、近所の田村さんから聞いた。もう会えない人へ手紙を書くと、いつか返事が届くのだという。半信半疑のまま、亡くなった妻に宛てて、初めて手紙を書いてみた。ずっと言えなかったことを、全部書いた。情けない夫で、お前との約束を果たせずにすまない、と。
数日後、本当に返事が届いた。あれから何年も、一人で真希を育てながら、誰にも弱音を吐けずにいた自分に、あの人はいつも通りの優しい言葉をかけてくれた。「あなたはよくやっている。真希のことを、あなたに任せてよかった」と。
声を上げて泣いた。あんなに泣いたのは、母の葬儀の日以来だ。
いつか、私が先に逝くことがあったら、真希はあそこに来てくれるだろうか。来てくれたなら、伝えたいことがある』
真希は、日記を抱きしめたまま、声を上げて泣いた。喧嘩ばかりだったと思っていた日々の裏側に、こんなにも不器用な愛情があったなんて、知らなかった。ずっと、自分だけが我慢していたと思っていた。でも本当は、父も同じように、言葉にできない想いを抱えたまま、一人で悩んでいたのだ。
もっと早く知っていたら。もっと素直になれていたら。後悔という言葉では足りないほどの感情が、真希の中で渦を巻いた。
だから真希は、日記に書かれていたあの丘の公園を探し出し、こうして今、黄色いポストの前に立っている。
*
注意書きを何度も読み返し、真希はバッグから便箋とペンを取り出した。ベンチに座り、海を見下ろしながら、震える手で文字を綴り始める。
『お父さんへ
ずっと、ごめんなさいと言えませんでした。
喧嘩ばかりしていたこと、家を出てから全然帰らなかったこと、電話でも冷たくしてしまったこと。全部、後悔しています。
お父さんの日記を読みました。私のことを、あんなにたくさん考えてくれていたなんて、知りませんでした。私はずっと、お父さんに嫌われていると思っていました。わかってもらえないと、拗ねていました。
でも本当は、私もお父さんのことが大好きでした。素直になれなかっただけです。
最後に交わした言葉が「うん、じゃあね」だったこと、ずっと後悔しています。
もっと話したかった。もっと一緒にいたかった。
お父さん、今までありがとう。そして、本当にごめんなさい。
真希』
書き終えた便箋を封筒に入れ、真希は震える指でそれを黄色いポストの投函口に差し入れた。ことん、と小さな音がして、手紙は薄闇の中へ消えていった。
誰にも届かないかもしれない。それでもいい、と真希は思った。ただ、この気持ちを言葉にして、どこかに置いていきたかった。
*
それから四日後の夕方、真希の家のインターホンが鳴った。
玄関を開けると、そこに立っていたのは、見知らぬ老人だった。灰色がかった詰襟の制服に、丸い帽子。肩から下げた革の郵便鞄は、ところどころ擦り切れて色が変わっている。今どき見かけることのない、昭和の初め頃の郵便配達員のような出で立ちだった。
真希が「あの……」と声をかけても、老人は何も答えなかった。ただ静かにこちらを見つめ、口元にわずかな微笑みを浮かべるだけだった。しわの刻まれた顔には、どこか懐かしいような、それでいて人のものとは思えない静けさが漂っていた。
老人は鞄の中から一通の古びた封筒を取り出すと、両手でそっと真希に差し出した。真希が戸惑いながらもそれを受け取ると、老人は深く一礼した。
封筒を持つ手のひらに、確かな紙の重みと、わずかな温もりを感じた。真希は思わず手元の封筒に目を落とした。差出人の欄に、見覚えのある字を見つけて、はっと息を呑む。
――早瀬修一
弾かれたように顔を上げたときには、もう玄関の前には誰もいなかった。夕暮れの路地には、老人が立っていた気配すら残っていない。声をかける間もなく、瞬きひとつの間に、その姿は溶けるように消えていた。
真希はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて震える手で封を切った。中から出てきたのは、少し黄ばんだ便箋だった。
『真希へ
この手紙を読んでいるということは、お前はあの公園に来てくれたのだろうか。だとしたら、それだけで父さんは十分だ。
喧嘩ばかりで、うまく気持ちを伝えられなくて、本当にすまなかった。父さんは不器用で、お前に「好きだ」「大切だ」と、まっすぐ言うことができなかった。だから代わりに、うるさく口うるさく言ってしまっていたんだと思う。それが、お前を余計に遠ざけていたんだな。
お前が家を出て行った日、本当は玄関先まで見送りたかった。でも、寂しい顔を見せたくなくて、そっけないふりをしてしまった。強がりな父親で、ごめんな。
もし、お前が今、後悔しているなら、それはもう十分だ。父さんは、お前のことを一度だって嫌いになったことはない。むしろ、お前が自分の足で人生を歩いていく姿を、誰よりも誇りに思っていた。
真希、生まれてきてくれてありがとう。父さんの娘でいてくれて、本当にありがとう。
これからは、自分のために、笑って生きてくれ。それが、父さんの一番の願いだ。
父より』
真希は手紙を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。ずっと聞きたかった言葉が、そこにはすべて書かれていた。喧嘩の裏にあった不器用な愛情、素っ気ない態度の奥に隠れていた本当の気持ち。それらが、時を越えて、ようやく真希のもとに届いたのだ。
窓の外はもう夕暮れで、空はあの丘の公園から見た海の色と同じ、優しいオレンジ色に染まっていた。
真希はそっと呟いた。
「お父さん、ありがとう。私も、大好きだったよ」
その声は、誰にも届かなかったかもしれない。けれど、確かにどこかで、父に届いた気がした。




