表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/4

四通目「ひらがなの手紙」

 海の見える丘の公園に、黄色いポストがある。郵便局のものではなく、集荷時間の記載もない。小さな木の板には、こう書かれている。

 ①このポストは郵便局のポストではありません。

 ②もう会えない人へ、手紙を書いてください。

 ③ポストの使用は一人一回限りです。

 誰が管理しているのかは、今も誰も知らない。ただ、手紙を投函した数日後、古い郵便配達員のような装いをした、言葉を発さない何者かが、直接手渡しで返事を届けにくるのだという。

 これは、そんな黄色いポストを訪れた人達の物語である。

 水嶋遥と翔太は、幼稚園からの幼馴染だった。家が近所で、物心ついたときには既に一緒に遊んでいた。小学校、中学校、高校と、進路が離れることもあったが、なぜか二人の縁は途切れなかった。二十歳を過ぎた頃には、周りも「そろそろだろう」と冷やかすほど、二人が付き合うのは自然な流れだった。

 結婚したのは、遥が二十三歳、翔太が二十四歳のときだった。派手さはなくとも、笑いの絶えない穏やかな家庭を築いていた二人を、友人たちはみんな羨ましがった。翔太の仕事も順調で、二人でマイホームの貯金を始めた矢先、遥の妊娠がわかった。

「本当に? 本当なの?」

 病院からの帰り道、翔太は何度も聞き返しながら、遥の手を強く握った。二十代半ば、順風満帆な人生の中で、これ以上ない幸せが訪れたように、二人には思えた。

 その日から、二人の日常は一気に彩りを増した。夜な夜な赤ちゃんの名前を考え、ベビー服を見ては「これ可愛いね」と笑い合った。性別がわかった日には、二人で泣きながら喜んだ。名前も、もう決めていた。「陽向」――どんな時も、明るい場所を照らすような子になってほしいという願いを込めて。

 安定期に入るまでは慎重に、と病院からも言われていた。だから、遥は無理をしないよう気をつけて過ごしていた。それでも、ある日突然、下腹部に今までにない違和感を覚えた。念のためにと病院に向かった、その道中で破水した。

 救急搬送された病院で、遥は陽向を失った。

 原因は、はっきりとはわからなかった。誰のせいでもない、と医師は繰り返した。だが、遥には、それを素直に受け止めることができなかった。

  *

 それから、遥は塞ぎ込むようになった。食事も喉を通らず、眠れない夜が続いた。数ヶ月経っても状態は改善せず、心療内科で「うつ状態」だと診断された。

 翔太は、順調だった仕事を辞めた。上司にも同僚にも引き止められたが、翔太の決意は変わらなかった。貯金を切り崩しながら在宅でできる仕事に切り替え、毎日、遥のそばにいることを選んだ。

「俺は、遥のそばにいたいんだ。それだけだよ」

 翔太は多くを語らなかったが、行動でそれを示し続けた。朝食を作り、遥の話に耳を傾け、涙が止まらない夜は、ただ黙って隣に座り続けた。何度も何度も、二人は同じ話を繰り返した。「なんで私だったんだろう」「私が何か悪いことしたのかな」。そのたびに翔太は、「遥は何も悪くない」と、繰り返し伝え続けた。

 少しずつ、少しずつ、遥は日常を取り戻していった。だが、それ以来、二人の間で「子ども」の話題が出ることはなくなった。どちらからともなく、避けるようになっていた。それでも翔太は、遥のそばを離れなかった。ただ隣にいて、支え続けた。

  *

 陽向を亡くしてから、五年半が過ぎた。生きていれば、その春、小学校に入学するはずの歳になっていた。

 ある晴れた春の日、翔太は在宅の仕事の打ち合わせで、取引先の担当者と雑談をしていた。その担当者が、ふとこんな話をした。

「そういえば、丘の公園にある黄色いポスト、知ってますか? もう会えない人に手紙を書くと、数日後に本当に返事が届くらしいんです。うちの親戚が、亡くなった父親に手紙を書いたら、本当に返事が届いたって……」

 翔太は、その日の夜、遥にその話をした。最初は半信半疑だった遥だが、翔太の次の言葉に、はっとした。

「陽向、生きていたら、今年小学校に入学してたよな。……ひらがなだけで、手紙を書いてみないか。もし陽向が読んでくれるなら、その方がいいと思うんだ」

 遥は、しばらく何も言えなかった。心の奥にずっと沈めていた想いが、静かに揺れ動くのを感じた。

「……書いてみたい」

 消え入りそうな声で、遥はそう答えた。

  *

 その夜、二人はテーブルに向かい合って座り、一枚の便箋を挟んで、手紙を書き始めた。遥がペンを持ち、翔太が言葉を添える。ひらがなだけで、陽向に伝わるように。

 書き始めてすぐ、遥の手は止まってしまった。

「ごめんね」という言葉ばかりが、頭の中に浮かんでは消えていく。何度も何度も、その言葉を書いては、涙で滲んだ文字を見つめた。

 『ひなたへ

 おかあさんです。

 ごめんね。ごめんね。おかあさんが、ちゃんとまもってあげられなかったから、ひなたに、あえなかったね。

 ずっと、じぶんが わるかったんだと おもってた。なにか、いけないことをしたから、ひなたが うまれてこられなかったんだと、ずっと じぶんを せめていました。

 おなまえ、もう きめてたんだよ。ひなたっていう なまえ。どんなときも、あかるい ばしょを てらすような こに なってほしくて、おとうさんと ふたりで きめたの。

 ようふくも、たくさん よういしてたんだよ。ちいさな くつも、かわいい ぼうしも。ぜんぶ、ひなたに きてほしくて、えらんだんだよ。

 ひなた、うまれてくることが できなくて、ごめんね。おかあさん、ずっと、ひなたに あやまりたかった。

 でも、ひなたのこと、いちにちも わすれたことは ないよ。だいすきだよ、ひなた。

                おかあさんより』

 書き終えた頃には、二人とも涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。翔太が最後に、震える手で一行だけ書き足した。

 『おとうさんも、だいすきだよ』

  *

 翌日は、雲一つない春晴れだった。二人は手を繋いで、ゆっくりと丘の公園までの坂道を上っていった。桜はすでに散り始めていたが、風に舞う花びらが、二人の周りを優しく包み込むようだった。

 黄色いポストの前に立つと、遥は封筒を胸に抱きしめ、しばらく動けなかった。翔太が、遥の背中にそっと手を添える。

「大丈夫。ちゃんと届くよ」

 遥は小さく頷き、震える手で封筒を投函口に差し入れた。ことん、という小さな音が、春の陽射しの中に静かに響いた。

 二人は手を繋いだまま、しばらくベンチに座り、海を見下ろしていた。何も言葉を交わさなくても、互いの手のぬくもりだけで、十分だった。

  *

 それから四日後の夕方、水嶋家のインターホンが鳴った。

 玄関を開けたのは翔太だった。そこに立っていたのは、灰色がかった詰襟の制服に丸い帽子をかぶった、見知らぬ老人だった。肩から下げた革の鞄は、ところどころ色が変わるほど使い込まれていた。

 老人は何も言わず、ただ穏やかな眼差しでこちらを見つめると、鞄から一通の小さな封筒を取り出し、両手でそっと差し出した。

 翔太がそれを受け取った瞬間、指先が震えた。差出人の欄には、たどたどしい、けれど確かにひらがなで、こう書かれていた。

  ――ひなたより

 翔太は封筒を握りしめたまま、弾かれるように振り返り、居間にいた遥のもとへ駆け寄った。

「遥! 届いた、陽向から、届いたよ!」

 遥は弾かれたように立ち上がり、翔太のもとへ駆け寄った。振り返ったときには、もう玄関の外に老人の姿はどこにもなかった。夕暮れの庭先に、桜の花びらが一枚、風に舞っているだけだった。

 二人はソファに並んで座り、震える手で封を切った。中から出てきたのは、一枚の便箋だった。

 そこには、お世辞にも上手とは言えない、右に左によろめくような、それでいて一生懸命に書かれたことが伝わってくる、ひらがなの文字が並んでいた。小学校低学年の子どもが、初めて習った文字を懸命になぞったような、そんな字だった。

 本来なら、たどたどしすぎて読みにくいはずのその文字を、二人は不思議と、まるで昔からずっと知っていたかのように、すらすらと読むことができた。

 『おかあさんへ おとうさんへ

 てがみ ありがとう。ぼく、ずっと まってたよ。

 あのね、おかあさん。あやまらないで。おかあさんは、なにも わるくないよ。ぼくが うまれてこられなかったのは、おかあさんの せいじゃ ないよ。だれの せいでも ないんだよ。

 ぼくね、うまれてくることは できなかったけど、さみしくは なかったよ。だって、おかあさんと おとうさんが、ぼくのために なまえを かんがえてくれて、ちいさな くつも かわいい ぼうしも、たくさん よういしてくれて、ぼくは それだけで、とっても しあわせだったよ。

 ひなたっていう なまえ、だいすき。あかるい ばしょを てらすこに なってねって、おもってくれて、ありがとう。

 おかあさんが ずっと ないてたの、ぼく、しってたよ。おとうさんが おしごと やめて、ずっと おかあさんの そばに いてくれたことも、ぜんぶ みてたよ。ふたりとも、ぼくのために、たくさん たくさん、ないてくれて、ありがとう。

 でもね、もう だいじょうぶだよ。ぼくは、ここで、げんきに してるから。おかあさんと おとうさんが、ぼくのおとうさんと おかあさんで いてくれて、ぼくは ほんとうに うれしかったんだよ。

 だから、もう じぶんを せめないでね。ふたりとも、まえを むいて、げんきに わらっててね。それが、ぼくの いちばんの ねがいだよ。

 おかあさん、おとうさん、うんでくれようとして、ありがとう。だいすきだよ。ずっと ずっと、だいすきだよ。

                  ひなたより』

 便箋を持つ二人の手が、大きく震えた。遥は声を上げて泣いた。翔太も、堪えきれずに嗚咽を漏らした。二人は互いの肩を抱き合いながら、何度も何度も、手紙を読み返した。

 五年半、ずっと胸の奥に押し込めていた想いが、堰を切ったように溢れ出した。悲しみだけではなかった。安堵と、感謝と、そして確かな愛おしさが入り混じった涙だった。

「わたし……ずっと、自分を責めてた。でも……」

 遥は、翔太の胸に顔をうずめながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「陽向は、ちゃんと、私たちのこと、見ててくれたんだね」

「うん。俺たちの子どもで、いてくれたんだな」

 翔太は遥を抱きしめながら、涙声でそう答えた。二人は、その夜、何時間も泣き続けた。溢れる涙は止まらなかったが、不思議と、心の中は少しずつ温かくなっていくのを感じていた。

  *

 夜が更け、ようやく涙が落ち着いた頃、遥は手紙をそっと机の上に置き、翔太の手を握った。

「ねえ、翔太」

「うん?」

「私たち、これから、どうやって生きていこうか」

 その問いに、翔太はしばらく考えてから、静かに答えた。

「陽向が言ってくれた通り、笑って生きよう。前を向いて。それが、あの子の願いなんだから」

 遥は頷き、涙の乾いた頬に、久しぶりに柔らかな笑みを浮かべた。

 窓の外には、満天の星が広がっていた。二人は、手紙をそっと桐の小箱にしまい、それをリビングの一番よく見える場所に置いた。これから先、どんなに辛いことがあっても、この手紙が、二人の道しるべになってくれる気がした。

  *

 それから半年後、桐の小箱の隣には、もう一つ、新しい写真立てが並ぶようになった。写真の中で、遥のお腹には、小さな命が宿っていた。

 二人は、その子の名前を、まだ決めていない。ただ、いつか生まれてくるその子にも、陽向のことを、いつか話してあげようと、二人は静かに約束していた。

 海風が丘を渡り、遠くの公園で、黄色いポストの傍らの桜が、ゆっくりと若葉を茂らせていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ