第7話 婚礼水路は飾りではない
第一門の前は、祭りのように混み合っていた。
白い花房、青い旗、商会の紋章入り天幕。見物人は橋の両側に押し寄せ、霧を透かして花嫁船を見ようと背伸びしている。誰かが焼き菓子を売り、子どもが水鳥の飾りを振っていた。水門の手動軸には、ロゼル家の家令と門番が言い争っている。
祭りに見える場所ほど、事故は早い。
ミレーナは人垣をかき分けた。エリオが先に立って道を開くのではなく、彼女が通るための幅を横から作った。監査官の銀章を見た人々が少しずつ下がる。
「カルヴァ係が来たぞ」
誰かが言った。
ジュリアンは天幕の下にいた。上等な青い外套を着て、商会主たちに囲まれている。彼はミレーナを見ると、待っていたように笑った。
「ちょうどいい。君の前で証明しよう。水門は、君がいなくても動く」
「動くことと、正しく動くことは違います」
「またそれか」
彼は見物人へ向き直った。
「皆さん、ご心配なく。婚礼水路は古くから祝福の道です。少々規則にうるさい係がいますが、門番の手で安全に開けられます」
拍手がまばらに起きた。華やかなものを見たい人々は、不安より期待を選びたがる。
ミレーナは手動軸を見た。
第一門の封鉛札は、付いている。だが紐がゆるい。誰かが結び直している。結び目が門番のものではない。門番は濡れた手でもほどけるよう、最後に小さな輪を残す。今の結び目は飾り紐の結び方だ。
水門の結び目には、見栄えなど要らない。夜明けの冷えで指がこわばっていても、老人の門番でも、片手を怪我した見習いでもほどけることが大事だ。美しく固い結び目は、宴席なら褒められる。水門では人を傷つける。ミレーナはその違いを、ジュリアンに何度説明しようとしてやめただろう。彼は結局、美しいかどうかでしか紐を見なかった。
門番の若者が、申し訳なさそうにミレーナを見た。彼の手は濡れて赤くなり、爪の間に泥が入っている。さっきまで家令に押し切られていたのだろう。ミレーナは首を横に振った。責める時間ではない。現場で一番弱い立場の人間に罪を押しつけるのは、門を壊した者がよく使う手だ。
「その軸に触らないでください」
「もう遅い」
ジュリアンが家令へ合図した。
門番の一人が青ざめて止めようとしたが、家令は手動軸の止め木を外した。鈍い音がして、第一門が指一本分だけ上がる。
その瞬間、水が唸った。
見物人の歓声が、すぐ悲鳴に変わる。門の隙間から押し込んだ水が、運河の壁に当たり、白い泡を立てて戻ってきた。橋の下で渦が巻く。水面に浮かんでいた水鳥飾りがくるりと回り、沈んだ。
「逆流警鐘!」
ミレーナは叫んだ。
マルタが鐘紐を引いた。
一つ、二つ、三つ、短く、鋭く。祭りの鐘ではない。暮らしを守るための音だ。橋の上の笑い声が消え、門番たちが一斉に持ち場へ走る。
「固定楔を戻して! 第二門は絶対に触らないで!」
ミレーナは手動軸へ駆け寄った。家令が邪魔をしようとしたが、オスカー親方が横からその腕を掴んだ。
「水門に飾り手袋で触るな」
家令が悲鳴を上げるほどの力ではない。ただ、動けない程度に確実だった。
第一門の軸は重い。門番二人が止め木を戻そうとしているが、水圧がかかって噛み合わない。
「半拍待って。押し水が戻るところで入れます」
「今じゃないのか」
門番が焦る。
「今入れると楔が割れます。三、二、一、今」
止め木が入った。
門が震え、泡が散る。ミレーナの頬に冷たい水しぶきが当たった。見物人が息を呑む音が、橋全体を覆う。
下町の方で女の声がした。
「洗濯場、まだ大丈夫!」
別の声。
「染め桶、浮いてない!」
ミレーナは膝に手をついた。間に合った。ぎりぎりだ。ほんの指一本分の開門で、これだけ押した。正午に全門を開けていたら、下町は泥をかぶっていた。
エリオがジュリアンへ向き直った。
「ロゼル卿。今の手動開門命令を認めますか」
ジュリアンは青ざめていたが、すぐに顔を作った。
「門番の手違いだ」
門番たちが一斉に彼を見た。
ミレーナは濡れた手で水門暦を開いた。油紙のおかげで字はにじんでいない。
「第一門、予定外に指一本分上昇。逆流警鐘により停止。封鉛札の結び目に不正」
「ミレーナ、君は」
「審理中です。公的呼称でお願いします、ロゼル卿」
自分の声が震えなかったことに、ミレーナは少し驚いた。
ジュリアンの顔が歪む。婚約者として呼びつければ従う女は、もうここにいない。ここにいるのは、水門暦係だ。
商会主の一人が天幕から出てきた。
「ロゼル卿、我々は婚礼披露と聞いていた。無許可積荷に続き、危険開門まで起きたとなれば、出資は見直さざるを得ない」
「待て。これは演出上の」
「水が演出で逆流するか」
オスカーが低く言うと、周囲から小さな笑いが起きた。だがその笑いは先ほどの祭りの笑いとは違う。軽蔑が混じっている。
セリーヌが人垣の後ろから出てきた。白い衣装の裾を持ち上げ、泥を避けながら歩く。髪飾りは外している。
「ジュリアン様」
「セリーヌ、君は船に戻って」
「いいえ。私は戻りません」
彼女の声は小さいが、橋の上ではよく響いた。
「この房飾りは、門の守りを分けたものではないと聞きました。私が水祝姫として立てば、商会の荷を中央水路に通せると、あなたはおっしゃいましたね」
ジュリアンの目が大きくなった。
「黙れ」
「黙って船に乗ることが祝福なら、私は水祝姫ではありません」
見物人たちがざわめいた。華やかな物語を見に来た人々は、今、別の物語を見ている。飾られた令嬢が、自分の飾りを外す場面だ。
ミレーナはセリーヌを見た。
彼女に同情しすぎるつもりはない。傷つけられた事実は消えない。けれど、彼女が今、自分の足で船を降りたことも事実だ。
エリオが銀章を掲げた。
「公開水門審理を再開します。第一門の予定外開門を追加事項とし、ロゼル家の婚礼水路使用許可を即時停止。関係者は第四橋広場へ」
ジュリアンが叫んだ。
「監査官一人に、そんな権限があるものか」
「監査官一人ではありません」
エリオは周囲を見た。
「門番、橋鐘守、水門暦係、下町水使い番、商会証人。水門は一人で動かすものではない」
その言葉が、橋の石にしみ込むように落ちた。
ミレーナは濡れた帳面を胸に抱えた。
婚礼水路は飾りではない。今、そのことを見物人の多くが理解した。水しぶきが頬に残っている。冷たい。けれど、その冷たさが心地よかった。
橋の下では、水がまだ怒ったように渦を巻いている。ミレーナはその渦から目を離さなかった。人々が自分を見ていることは分かる。捨てられた令嬢、元婚約者に逆らった女、地味な係。好きな名前で呼べばいい。水は呼び名でおとなしくならない。彼女に必要なのは、噂に勝つことではなく、次の泡がどちらへ流れるかを読むことだった。
エリオが記録係へ短く指示を出している声が聞こえた。彼はミレーナの手柄を大声で飾らない。代わりに、誰がいつ何を命じ、誰が止め、どの門がどれだけ動いたかを一つずつ残していく。華やかな弁護より、その方がずっと頼もしい。今日の彼女に必要なのは、綺麗な味方ではなく、消えない記録だった。
門は閉じた。
次は、嘘を閉じる番だ。




