第6話 潮見塔の朝
二日目の朝、王都は霧の底に沈んでいた。
潮見塔の上から見ても、中央運河は白い布をかぶせられたようにぼやけている。橋の輪郭は消え、鐘楼の屋根だけが浮かぶ。こういう朝に、水を見慣れていない者は安心する。見えなければ静かだと思うからだ。
ミレーナは水尺の前に膝をついた。
霧の日は、目より耳と膝を使う。石段の湿り、下から押す水音、杭に当たる小波の間隔。数字は水尺に刻まれているが、数字を読むための体は、毎朝濡らして作るしかない。
塔の水尺は、人の背丈ほどの青銅板だ。上から下まで細い線が刻まれ、その脇に過去の水害年が小さく彫られている。祖母の年、母の年、ミレーナが十歳だった年。どれも王都の誰かが床板を替え、誰かが商売道具を失った年だった。数字は冷たいが、数字の横には暮らしがある。だからミレーナは、水尺を読む前に必ず一度、刻みの底へ指を置く。
「危険です。私が降ります」
エリオの声が背後でした。
「監査官が落ちたら、誰が記録するんですか」
「あなたが」
「私は水尺を読みます」
言ってから、ミレーナは少し笑ってしまった。冗談のつもりではなかったが、返しとしては悪くない。エリオも口元だけで笑った。
「では、縄を持ちます」
「お願いします」
彼は腰縄の端を持った。引っ張らない。ただ、余りを手の中で整える。助けるために近くにいるが、代わりに降りるわけではない。その距離が、ミレーナにはちょうどよかった。
水尺の下段へ足を下ろす。石はぬるりと滑った。片手で鉄環を掴み、もう片方で赤鉛筆を口にくわえる。母に見られたら行儀が悪いと叱られる。けれど母も、霧の日には同じことをしていた。
「上から三つ目、半線越え」
「上から三つ目、半線越え」
エリオが復唱し、記録係が書く。
「戻りが早い。昨夜よりさらに一拍早いです」
「理由は」
「婚礼船が上流で水を押しています。あの喫水で動けば、霧の中でも分かります」
遠くで、低い櫂音がした。
予定より早い。審理の凍結を無視して、船を動かしたのだ。
ミレーナは水尺から上がった。裾が濡れ、足首が冷える。エリオが手を差し出したが、ミレーナが鉄環を掴めているのを見て、途中で止めた。
「手を借りても?」
自分から言うと、彼はすぐに手を出した。手袋越しでも、力の入れ方が分かる。引き上げるのではなく、ミレーナが上がる支えになるだけ。
塔の上には、下町の人々が集まり始めていた。洗濯場の女たち、染物屋の若い職人、魚売り、門番の妻。誰かが温かい麦湯を持ってきて、誰かが古い帳面を抱えている。
彼らは礼服ではなかった。袖に石鹸かすをつけた女、爪の間まで藍色の若者、魚の匂いを気にして帽子を胸に抱える老人。審理台に立てば、貴族の客たちは眉をひそめるかもしれない。けれど水門を誤れば最初に濡れるのはこの人たちだ。証言する資格を、絹の手袋で決めるわけにはいかなかった。
ミレーナは麦湯の杯を受け取った。熱くて、舌を少し焼いた。昨夜からまともに食べていないことを、そこでようやく思い出す。水門暦係は体が資本だと母に叱られた記憶がよみがえり、ミレーナは杯を両手で包んだ。温かさは判断を鈍らせない。むしろ、冷えきった指を元の形へ戻してくれる。
「こんなに」
ミレーナは思わず呟いた。
マルタが鼻を鳴らした。
「あんたが一人で水を止めてると思ってたなら、思い上がりだね」
「思ってません」
「少しは思いな。水門暦係は、それくらい偉くていい」
乱暴な励ましに、ミレーナの胸が温かくなった。温かい、という言葉は便利すぎて使いたくないのに、他に言いようがない時もある。
オスカーが染料の請求書束を差し出した。
「排水口を上げた年の分だ。裏に工事日を書いてある」
「助かります」
「字は汚いぞ」
「水で流れなければ十分です」
洗濯場の女が、別の紙束を出した。
「うちは洗濯場の床板を替えた日の帳面。第四門の底を深くした後、二回水が上がったから高さを変えたの」
魚売りの老人は、籠の底から薄い木札を出した。
「その年から、朝市の場所を一列上げた。水が来るからな」
記録は、王都のあちこちに残っていた。
きれいな革表紙ではない。請求書の裏、床板の覚え書き、魚籠の木札。けれど水は身分順に流れない。なら、水の記録も身分順に並べる必要はない。
エリオは一つずつ受け取り、記録係へ渡した。
「本日の審理で採用します。すべて写しを取り、原本は返却します」
「返してくれるのかい」
洗濯場の女が驚いた。
「当然です。生活の記録ですから」
その一言で、彼への視線が少し柔らかくなった。エリオは気づいているのかいないのか、淡々と次の証言を聞く。
ミレーナはその横顔を見た。
彼は、優しい言葉を派手に使わない。けれど物の扱い方が丁寧だ。帳面、証言、濡れた紙、人の時間。それらを雑にしない人は、信じるまで時間をかけてもいい。
鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ。
第三橋だ。今度は正しい順に鳴っている。マルタではない。若い鐘守見習いの音だ。少し急いている。
トマが塔の下から駆け上がってきた。
「婚礼船、動きました! ロゼル様が、審理前に第一門だけ上げろって!」
広場がざわめいた。
ミレーナはすぐに帳面を開いた。
「第一門を半分でも上げれば、中央運河に押し水が入ります」
「どれくらい」
エリオが聞く。
「洗濯場は膝下。染め場は桶が浮きます。護岸粉が落ちれば、魚市まで濁ります」
「止める方法は」
「橋鐘で逆流警鐘を鳴らし、全門番を固定位置へ戻す。第一門の手動軸に封鉛札があれば、上げられません」
「なければ」
「人力で止めるしかありません」
エリオは一瞬だけ考えた。
「監査局の馬を使います。あなたは」
「私も行きます」
「危険です」
「水門暦係が現場にいなければ、次の判断が遅れます」
彼は止めなかった。代わりに、短く頷く。
「分かりました。私の隣に」
「前ではなく?」
「あなたが読める場所でなければ意味がない」
ミレーナは濡れた裾を握り、塔の階段へ向かった。
下りながら、母の声を思い出す。昨日の正解が今日の正解とは限らない。なら今日の正解は、自分で読むしかない。
塔の外では、霧の向こうから花嫁船の白い影が近づいていた。見物人の声も聞こえる。ジュリアンは人を集めているのだ。審理で負ける前に、見世物として押し切るつもりだろう。
橋鐘がさらに鳴った。
四つ、五つ。
ミレーナは走りながら、赤鉛筆を胸ポケットで確かめた。芯は折れていない。帳面は油紙に包んだ。封鉛札は腰にある。
恋を失った朝より、足は軽かった。
今、失ってはいけないものがはっきりしているからだ。
それでも、胸の奥には小さな怖さがあった。もし読み違えたら。もし自分の意地で閉めすぎて、上流の舟を詰まらせたら。もし母なら別の判断をしたら。足を止めそうになるたび、腰の鍵束が鳴った。鍵は答えをくれない。ただ、開けるにも閉めるにも自分の手が要ると知らせる。その音を聞きながら、ミレーナは霧の中へ走った。
背後から、エリオの足音が離れずについてくる。急かす音ではない。遅れたら支えるための音だ。ミレーナは振り返らなかったが、その一定の歩幅を覚えた。恋だと名づけるには早すぎる。ただ、危険な水場へ向かう時に、隣の足音を邪魔だと思わない。それは今の彼女にとって、十分に大きな変化だった。




