表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮時を読むだけの女はいらないと言われましたが王都の婚礼水門は開けません  作者: むむさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 潮見塔の朝

二日目の朝、王都は霧の底に沈んでいた。


潮見塔の上から見ても、中央運河は白い布をかぶせられたようにぼやけている。橋の輪郭は消え、鐘楼の屋根だけが浮かぶ。こういう朝に、水を見慣れていない者は安心する。見えなければ静かだと思うからだ。


ミレーナは水尺の前に膝をついた。


霧の日は、目より耳と膝を使う。石段の湿り、下から押す水音、杭に当たる小波の間隔。数字は水尺に刻まれているが、数字を読むための体は、毎朝濡らして作るしかない。


塔の水尺は、人の背丈ほどの青銅板だ。上から下まで細い線が刻まれ、その脇に過去の水害年が小さく彫られている。祖母の年、母の年、ミレーナが十歳だった年。どれも王都の誰かが床板を替え、誰かが商売道具を失った年だった。数字は冷たいが、数字の横には暮らしがある。だからミレーナは、水尺を読む前に必ず一度、刻みの底へ指を置く。


「危険です。私が降ります」


エリオの声が背後でした。


「監査官が落ちたら、誰が記録するんですか」


「あなたが」


「私は水尺を読みます」


言ってから、ミレーナは少し笑ってしまった。冗談のつもりではなかったが、返しとしては悪くない。エリオも口元だけで笑った。


「では、縄を持ちます」


「お願いします」


彼は腰縄の端を持った。引っ張らない。ただ、余りを手の中で整える。助けるために近くにいるが、代わりに降りるわけではない。その距離が、ミレーナにはちょうどよかった。


水尺の下段へ足を下ろす。石はぬるりと滑った。片手で鉄環を掴み、もう片方で赤鉛筆を口にくわえる。母に見られたら行儀が悪いと叱られる。けれど母も、霧の日には同じことをしていた。


「上から三つ目、半線越え」


「上から三つ目、半線越え」


エリオが復唱し、記録係が書く。


「戻りが早い。昨夜よりさらに一拍早いです」


「理由は」


「婚礼船が上流で水を押しています。あの喫水で動けば、霧の中でも分かります」


遠くで、低い櫂音がした。


予定より早い。審理の凍結を無視して、船を動かしたのだ。


ミレーナは水尺から上がった。裾が濡れ、足首が冷える。エリオが手を差し出したが、ミレーナが鉄環を掴めているのを見て、途中で止めた。


「手を借りても?」


自分から言うと、彼はすぐに手を出した。手袋越しでも、力の入れ方が分かる。引き上げるのではなく、ミレーナが上がる支えになるだけ。


塔の上には、下町の人々が集まり始めていた。洗濯場の女たち、染物屋の若い職人、魚売り、門番の妻。誰かが温かい麦湯を持ってきて、誰かが古い帳面を抱えている。


彼らは礼服ではなかった。袖に石鹸かすをつけた女、爪の間まで藍色の若者、魚の匂いを気にして帽子を胸に抱える老人。審理台に立てば、貴族の客たちは眉をひそめるかもしれない。けれど水門を誤れば最初に濡れるのはこの人たちだ。証言する資格を、絹の手袋で決めるわけにはいかなかった。


ミレーナは麦湯の杯を受け取った。熱くて、舌を少し焼いた。昨夜からまともに食べていないことを、そこでようやく思い出す。水門暦係は体が資本だと母に叱られた記憶がよみがえり、ミレーナは杯を両手で包んだ。温かさは判断を鈍らせない。むしろ、冷えきった指を元の形へ戻してくれる。


「こんなに」


ミレーナは思わず呟いた。


マルタが鼻を鳴らした。


「あんたが一人で水を止めてると思ってたなら、思い上がりだね」


「思ってません」


「少しは思いな。水門暦係は、それくらい偉くていい」


乱暴な励ましに、ミレーナの胸が温かくなった。温かい、という言葉は便利すぎて使いたくないのに、他に言いようがない時もある。


オスカーが染料の請求書束を差し出した。


「排水口を上げた年の分だ。裏に工事日を書いてある」


「助かります」


「字は汚いぞ」


「水で流れなければ十分です」


洗濯場の女が、別の紙束を出した。


「うちは洗濯場の床板を替えた日の帳面。第四門の底を深くした後、二回水が上がったから高さを変えたの」


魚売りの老人は、籠の底から薄い木札を出した。


「その年から、朝市の場所を一列上げた。水が来るからな」


記録は、王都のあちこちに残っていた。


きれいな革表紙ではない。請求書の裏、床板の覚え書き、魚籠の木札。けれど水は身分順に流れない。なら、水の記録も身分順に並べる必要はない。


エリオは一つずつ受け取り、記録係へ渡した。


「本日の審理で採用します。すべて写しを取り、原本は返却します」


「返してくれるのかい」


洗濯場の女が驚いた。


「当然です。生活の記録ですから」


その一言で、彼への視線が少し柔らかくなった。エリオは気づいているのかいないのか、淡々と次の証言を聞く。


ミレーナはその横顔を見た。


彼は、優しい言葉を派手に使わない。けれど物の扱い方が丁寧だ。帳面、証言、濡れた紙、人の時間。それらを雑にしない人は、信じるまで時間をかけてもいい。


鐘が鳴った。


一つ、二つ、三つ。


第三橋だ。今度は正しい順に鳴っている。マルタではない。若い鐘守見習いの音だ。少し急いている。


トマが塔の下から駆け上がってきた。


「婚礼船、動きました! ロゼル様が、審理前に第一門だけ上げろって!」


広場がざわめいた。


ミレーナはすぐに帳面を開いた。


「第一門を半分でも上げれば、中央運河に押し水が入ります」


「どれくらい」


エリオが聞く。


「洗濯場は膝下。染め場は桶が浮きます。護岸粉が落ちれば、魚市まで濁ります」


「止める方法は」


「橋鐘で逆流警鐘を鳴らし、全門番を固定位置へ戻す。第一門の手動軸に封鉛札があれば、上げられません」


「なければ」


「人力で止めるしかありません」


エリオは一瞬だけ考えた。


「監査局の馬を使います。あなたは」


「私も行きます」


「危険です」


「水門暦係が現場にいなければ、次の判断が遅れます」


彼は止めなかった。代わりに、短く頷く。


「分かりました。私の隣に」


「前ではなく?」


「あなたが読める場所でなければ意味がない」


ミレーナは濡れた裾を握り、塔の階段へ向かった。


下りながら、母の声を思い出す。昨日の正解が今日の正解とは限らない。なら今日の正解は、自分で読むしかない。


塔の外では、霧の向こうから花嫁船の白い影が近づいていた。見物人の声も聞こえる。ジュリアンは人を集めているのだ。審理で負ける前に、見世物として押し切るつもりだろう。


橋鐘がさらに鳴った。


四つ、五つ。


ミレーナは走りながら、赤鉛筆を胸ポケットで確かめた。芯は折れていない。帳面は油紙に包んだ。封鉛札は腰にある。


恋を失った朝より、足は軽かった。


今、失ってはいけないものがはっきりしているからだ。


それでも、胸の奥には小さな怖さがあった。もし読み違えたら。もし自分の意地で閉めすぎて、上流の舟を詰まらせたら。もし母なら別の判断をしたら。足を止めそうになるたび、腰の鍵束が鳴った。鍵は答えをくれない。ただ、開けるにも閉めるにも自分の手が要ると知らせる。その音を聞きながら、ミレーナは霧の中へ走った。


背後から、エリオの足音が離れずについてくる。急かす音ではない。遅れたら支えるための音だ。ミレーナは振り返らなかったが、その一定の歩幅を覚えた。恋だと名づけるには早すぎる。ただ、危険な水場へ向かう時に、隣の足音を邪魔だと思わない。それは今の彼女にとって、十分に大きな変化だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ