第5話 母の旧暦帳
母の旧暦帳は、乾いた革の匂いがした。
ジュリアンの家令が机へ置いたとき、ミレーナはその匂いだけで喉の奥が詰まった。幼い頃、母は夜番から戻ると、この帳面を暖炉の前で開いた。濡れた髪を結い直すのも忘れ、赤い線の横へ小さな字を足していた。ミレーナが眠い目をこすって覗くと、母は決まって言った。
「水の都はね、昨日の正解が今日の正解とは限らないの」
ジュリアンは、その言葉を知らない。
母は帳面を宝物のようには扱わなかった。鍋敷き代わりにしかけてミレーナに止められたこともあるし、濡れた頁を乾かすために台所の紐へ洗濯物のように吊るしたこともある。大切なのは革表紙ではなく、そこに積もった判断だと母は言った。だからこそ、帳面を抱えているジュリアンの手つきが腹立たしかった。彼は宝物を盗んだつもりで、仕事の抜け殻だけを掲げている。
彼は旧暦帳を戦利品のように開き、商会主たちへ見せた。
「ご覧ください。三年前、同月同潮で正午開門とある。カルヴァ係は私情で婚礼船を止めているだけだ」
公開水門審理は、第四橋広場の臨時台で始まった。水門近くの広場は狭いが、橋と洗濯場と船着き場の三方向から人が見える。貴族の審理場ほど磨かれてはいない。足元には水しみがあり、桶を持った女たちが遠巻きに立っている。
それでよかった。
水門の審理は、水を使う人々の前で行うべきだ。
エリオは監査官席に立ち、銀章を机に置いた。飾りではなく、責任の印として。
「本審理は、中央婚礼水路の臨時開門可否、および第四封鉛札欠損について確認するものです。感情上の婚約問題は扱いません」
その一言で、ジュリアンの口元が歪んだ。彼は婚約破棄を盾にして、ミレーナを私情の女にしたかったのだろう。審理の入口でそれを閉じられた。
「カルヴァ係。旧暦帳について説明を」
ミレーナは立ち上がった。
旧暦帳に触れる前に、手を布で拭く。指先が少し震えている。母の帳面を他人の机で開くのは、思った以上にこたえた。
「これは三年前まで母、ロザリア・カルヴァが使用していた水門暦です。確かに同月同潮の欄に、正午開門の記録があります」
ジュリアンが勝ち誇ったように顎を上げる。
「ただし、その記録は第四門底の掘り下げ工事前のものです」
ミレーナは新暦帳を開いた。
「三年前の冬、第四門の底を二尺深くしました。大型船の通行を増やすためです。以降、満ち戻りの時刻が半刻早まり、旧暦の正午開門線は使用停止になっています」
「証拠は」
ジュリアンが早口で言った。
「母上の帳面には、そんな修正は見当たらない」
「赤い潮線が欠けています」
ミレーナは旧暦帳の端を示した。該当ページの下部、わずかに破れた跡がある。そこには本来、母が赤で「新門底後不可」と書き込んだ紙片が貼られていたはずだ。
「誰かが切り取ったのです」
広場がざわめいた。
ジュリアンは肩をすくめた。
「古い帳面だ。自然に破れたのだろう」
「自然に破れた紙は、刃の線を残しません」
ミレーナは言いながら、自分の胸が冷えていくのを感じた。怒りは熱いと思っていた。けれど本当に怒ると、体は静かに冷えるのだと知った。
「それに、母は旧暦帳だけに修正を残しませんでした。橋鐘台の石にも、同じ赤線の位置を刻んでいます」
エリオが顔を上げた。
「確認できますか」
「この審理の後段で、橋鐘台を現地確認できます」
エリオは頷き、記録係へ指示した。
「現地確認を後段に入れる」
ジュリアンは机を指で叩いた。
「だとしても、新暦帳は君が書いたものだ。いくらでも都合よくできる」
「橋鐘記録と照合できます」
マルタが前へ出た。老いた背を伸ばし、鐘守の小板を掲げる。薄い木板に、日ごとの鐘の回数が刻まれている。
「三年分、全部あるよ。目は悪くなったが、耳はまだ商会主の財布より確かだ」
広場のあちこちで笑いが起きた。商会主たちは苦い顔をしたが、笑いは審理の空気を少し変えた。恐れだけで黙っていた人々が、証言する側へ傾く。
オスカー親方も進み出た。
「第四門の底を深くした後、うちの染め場は排水口の高さを変えた。工事前の潮時で開けられちゃ困る」
「記録はありますか」
エリオが尋ねる。
「ある。染料代の請求書の裏だがな」
また笑いが起きた。ミレーナは少しだけ肩の力を抜いた。水門暦は一人で守るものではない。門番、鐘守、染物屋、洗濯場。みんなが自分の生活の端に記録を残している。
ジュリアンは笑わなかった。
「下町の者の記録など」
言いかけて、彼は止まった。商会主たちの一人が、明らかに不快そうな顔をしたからだ。商売は下町の手で動く。彼らをまとめて軽んじるのは、利口ではない。
エリオが静かに言った。
「本審理では、記録の身分ではなく整合性を見ます」
ミレーナは旧暦帳を閉じた。閉じる前、破れたページの端に触れた。母の字がなくなった空白は痛い。けれど、空白だけで負けるわけにはいかない。
「カルヴァ係」
エリオが呼んだ。
「あなた自身の判断を述べてください」
ミレーナは顔を上げた。
「本日正午の中央婚礼水路開門は不可です。理由は四つ。第四封鉛札の欠損と予備札紛失。昨夜の試し鐘による橋鐘順序の乱れ。満ち戻り時刻の早まり。婚礼船の無許可積荷疑い」
「無許可積荷?」
ジュリアンが鋭く言った。
ミレーナは船着き場を見た。花嫁船の帆の下、白布で覆われた箱が並んでいる。
「婚礼装飾にしては喫水が深すぎます。船底が通常より二寸沈んでいる。染料か鉱石の箱を積んでいるはずです」
オスカーが目を細めた。
「染料なら、俺の目で分かる」
「確認を」
エリオが命じると、門番二人が船へ向かった。ジュリアンの家令が止めようとしたが、セリーヌが小さく首を振った。
彼女は審理台の端に座っていた。白い衣装のまま、青い房飾りを外して膝に置いている。目は赤いが、泣いてはいない。
箱が開かれた。
中から出てきたのは、藍ではなく、銀灰色の粉を詰めた小袋だった。水路の護岸石を磨くための研磨粉。大量に運ぶには許可がいる。水に落ちれば魚が浮く。
商会主の一人が低く唸った。
「ロゼル卿、これは婚礼船ではなく商船だ」
ジュリアンの顔がこわばる。
「祝品だ」
「祝品に護岸粉を積む花嫁がいるか」
オスカーが吐き捨てた。
ミレーナは、やっと分かった。婚礼船は見世物だけではない。中央水路を婚礼名目で通し、商会の荷を無許可で運ぶつもりだったのだ。水祝姫も、花嫁船も、ミレーナの署名も、全部が飾りに使われている。
エリオは記録係へ視線を送った。
「無許可積荷を確認。中央婚礼水路の臨時使用は、現時点で凍結します」
広場にどよめきが走った。
ミレーナは机の上の旧暦帳を見た。破れた赤い潮線は戻らない。けれど、母が残した仕事は、帳面一冊に閉じ込められていなかった。
ジュリアンが彼女を睨む。
「君は、僕を破滅させたいのか」
「いいえ」
ミレーナは答えた。
「水門を正しく閉じたいだけです」
その言葉に、エリオがわずかに目を伏せた。笑ったのかもしれない。ほんの少しだけ。
ミレーナは赤鉛筆を握り直した。
閉じるべき門は、まだ全部閉じていない。
審理台の端で、セリーヌが膝の上の手袋を握りしめていた。彼女の白い衣装は広場の泥で裾が汚れている。誰もそれを直してやらない。飾られている間は何人もの侍女が裾を持っただろうに、証言する側へ回った途端、彼女は一人だった。ミレーナは一瞬だけ、自分も同じだったと思った。婚約者でいる間は家の飾りとして磨かれ、仕事を選んだ途端に面倒な女になる。
だからといって、セリーヌに肩入れしすぎるつもりはない。彼女もまた、見たいものだけを見て船に乗った。けれど今、泥のついた裾を自分で持ち上げている。それは証言より小さく、しかし嘘ではない行動だった。




