第4話 花嫁船の飾り房
花嫁船は、遠目には白鳥のように見えた。
帆布は乳白色で、舷側には銀の水鳥。青い絹の房飾りがいくつも下がり、川風を受けるたび、水面へ影を落とす。橋の上から見下ろす人々は感嘆の声を上げた。たしかに美しい。美しいものが危ないとは限らない。けれど危ないものが美しく飾られることは、よくある。
ミレーナは橋を渡りきり、船着き場へ降りた。
「止めてください」
舫い綱を握る船頭に声をかけると、相手は困った顔で目をそらした。
「ロゼル様のご命令で」
「水門暦係の閉門通達が出ています」
「でも、まだ門は開けてない」
「門へ近づく許可も取り消しです」
船頭は舌を鳴らした。悪い人ではない。賃金をもらって船を動かすだけの人だ。だからこそ、命令の出所をはっきりさせる必要がある。
「そのまま綱を離さないで。離せば船頭組合にも監査が入ります」
効果はあった。船頭は慌てて綱を杭に巻き直した。
甲板の上から、柔らかな声が降ってきた。
「あなたがミレーナ様?」
セリーヌ・ベルシュは、噂より若く見えた。銀髪は水に濡れた糸のようで、青い瞳は少し眠たげだ。水祝姫などと呼ばれているが、神秘というより、周りに飾られすぎて身動きが取りにくそうな令嬢だった。
「ミレーナ・カルヴァです。王都水門暦係として、船の停止を求めます」
「まあ」
セリーヌは困ったように笑った。
「でも、ジュリアン様は許可を取ってあると」
「取れていません」
「そんなはずは。私は今日、水路を祝福するために」
「祝福では水位は下がりません」
言ってから、少しきつかったと思った。セリーヌの顔が白くなる。彼女が自分で不正を企んだとは限らない。利用されているなら、敵にするより証人にした方がいい。
「失礼しました。あなたの祈りを否定したいのではありません。ですが、今日の水門は祈りで開けられる状態ではありません」
セリーヌは青い房飾りを指でいじった。
「私、詳しいことは知らないのです。ジュリアン様が、王都の水は人の心に応えるとおっしゃって。私が船に乗れば、商会の方々も喜ぶと」
ミレーナの奥歯がかすかに鳴った。
人の心に応える水など、王都にはない。王都の水は、石積みと門番と橋鐘と、毎朝濡れた階段を上がる人間に応える。そうでなければ、下町はとうに泥の底だ。
エリオが追いついてきた。彼は甲板の飾り房を見上げ、目を細める。
「ベルシュ嬢。その房飾りに触れても?」
セリーヌは迷ったが、頷いた。
「ええ。けれど大切な飾りですの。水祝姫の証だと」
エリオは船へ上がらず、船頭に頼んで一つを外させた。受け取る前に布を広げ、その上へ置く。ミレーナは思わず息を止めた。
房の根元に、青い絹で巻かれた小さな鉛片があった。
「第四封鉛札の欠けと照合できますか」
「できます」
ミレーナは自分の札束を出し、欠けた部分と鉛片を近づけた。ぴたりとはまる。細い刃でねじり取られた跡も合う。
船着き場にいた人々がざわめいた。
セリーヌは一歩退き、椅子にぶつかった。
「私、知らなかった」
その声は、作ったものには聞こえなかった。ミレーナは彼女を見た。華やかな衣装の下で、指先が震えている。水祝姫の証だと思っていた飾りが、水門を壊した証拠だったのだ。
「誰から受け取りましたか」
エリオが尋ねる。
「ジュリアン様の家令です。船を飾るには、門の守りを少し分けていただくのが古い習わしだと」
ミレーナは目を閉じた。
嘘だ。そんな習わしはない。門の守りは分けるものではなく、欠けていないことで守りになる。
「ベルシュ嬢。今の言葉を、後ほど証言できますか」
「私が証言したら、ジュリアン様は」
「あなたを責めるでしょう。けれど証言しなければ、あなたは不正な開門の共犯として扱われます」
エリオの言葉は厳しい。だが脅しではない。制度上の帰結を、飾らずに置いただけだ。
セリーヌは唇を噛み、ミレーナを見た。
「あなたは、私を恨んでいらっしゃる?」
問われて、ミレーナはすぐ答えられなかった。
恨んでいない、と言えば嘘になる。ジュリアンの隣に立つ彼女を見て、胸がまったく痛まないわけではない。けれど、その痛みはセリーヌ個人より、仕事ごと自分を捨てられたことへの痛みだ。
「恨むほど、あなたを知りません」
セリーヌが瞬いた。
ミレーナは続けた。
「ただ、あなたがこの船で下町を沈めるなら、私は止めます。あなたが知らずに乗せられたのなら、降りてください」
風が白い帆布を膨らませた。セリーヌは足元を見た。房飾りが、もう美しく見えないのだろう。彼女は手袋を外し、船頭へ差し出した。
「降ります」
その瞬間、上流側の道から拍手が聞こえた。
ジュリアンだった。
「感動的だな。捨てられた婚約者が、新しい花嫁を説得している」
彼は数人の商会主を連れていた。どの顔も、船と客の数を秤にかける目をしている。
「だが残念だ、ミレーナ。婚礼船はもう発表済みだ。今さら止めれば、王都じゅうがロゼル家の不手際だと笑う」
「不手際で済むうちに止めるべきです」
「大げさだ。鉛片一つで何が起きる」
「門が開いた証拠と、閉じていた証拠の区別が消えます」
「なら新しい札を作ればいい」
「作成には治水局の立ち会いが必要です」
「旧暦帳では、今日の正午は開門可能とある」
ミレーナの背中が冷えた。
「旧暦帳?」
ジュリアンは家令から古い革表紙の帳面を受け取った。角の擦り切れた、見覚えのある帳面。母の旧暦帳だ。
「ロゼル家は、カルヴァ家との縁組にあたり、旧記録の閲覧権を預かっていた。君の母上の時代には、今日と同じ月齢で正午に開けている」
ミレーナは手を伸ばしかけ、止めた。
奪い返したい。けれど公衆の前で奪えば、彼の思うつぼだ。仕事の証拠は、感情で掴んではいけない。
「母の旧暦帳は、今の水路改修前の記録です」
「言い訳だな」
「第四門の底を三年前に深くしました。潮の戻り方が変わっています」
「そんな細かいことは、誰も分からない」
その言葉で、ミレーナの中の迷いが消えた。
誰も分からない。
だから彼は、ミレーナの母の帳面を盗み、線の意味を読まず、都合のいい数字だけを掲げる。
「分かる人間が、ここにいます」
エリオが一歩前へ出た。
「治水監査局として、公開水門審理を開きます。旧暦帳、新暦帳、封鉛札、橋鐘記録、下町被害、すべて照合します」
ジュリアンが鼻で笑った。
「審理などしている間に客は帰る」
「帰ればよろしい」
エリオの声は低かった。
「王都を沈める客なら、迎える必要はありません」
商会主たちの顔色が変わった。彼らは名誉より損得に敏い。王都を沈める婚礼船、という言葉は高価な香水より早く広がる。
ミレーナはセリーヌへ手を差し出した。
「船を降りてください」
セリーヌは一瞬だけジュリアンを見た。彼は助ける顔をしなかった。ただ、なぜ予定通りに笑わないのかと責める顔をしていた。
彼女はミレーナの手を取った。
白い手袋の内側は、汗で湿っていた。飾られた令嬢も、怖いときは手が濡れる。それが分かっただけで、ミレーナの胸の棘が少し向きを変えた。
花嫁船の青い房飾りは、風に揺れている。
美しい飾りの根元で、欠けた鉛が鈍く光っていた。




