第3話 橋鐘守は聞いていた
第四門の門番小屋は、川の匂いが一番きつい場所にある。
満ち戻りの日は、内海の塩気と上流の泥が小屋の壁でぶつかる。古い木戸には白い塩が吹き、鉄の蝶番は毎年取り替えても赤くなる。ミレーナは子どもの頃、この小屋が嫌いだった。母に連れられて来るたび、髪にも服にも水の古い匂いが移るからだ。
今は、その匂いで落ち着く。
人の香水より、川の機嫌の方が分かりやすい。
「予備札箱を開けたのは、誰ですか」
エリオの声は大きくないのに、小屋の中でよく通った。門番長のベルトランは、分厚い手を胸の前で組み、困ったように顎髭をなでている。
「朝の交替までは、鍵が掛かっておりました」
「鍵を持つ者は」
「私と、夜番の二人。それから水門暦係の控え鍵が潮見塔に」
ベルトランの目がミレーナへ向いた。疑っているというより、規則上見ざるを得ない目だ。
「控え鍵は私の腰にあります」
ミレーナは鍵束を出した。真鍮の小さな鍵は、革紐で水門暦に結んである。エリオは近づいて見たが、手を出さなかった。
「封蝋は」
「昨夜のままです」
「では控え鍵は使われていない」
彼がそう言ってくれたことに、ミレーナは胸の力が少し抜けるのを感じた。信じます、ではない。事実として、使われていない。それがいい。
門番長が札箱を机へ置いた。箱の内側には、鉛の粉が薄く残っている。ミレーナは指で触れず、顔を近づけた。古い鉛の匂いに、甘い油の香りが混じる。
「香油」
「分かりますか」
エリオが聞いた。
「婚礼船の飾り紐に使う油です。水を弾いて房を広げるために、ロゼル家がよく使う」
「またロゼル家ですか」
門番長が渋い顔をした。彼は下町の出で、貴族の名を口にするときだけ声を低くする。怖いのではない。面倒なのだ。
外で鐘が鳴った。
一つ。間を置いて、二つ。
ミレーナは顔を上げた。
「マルタさんの鐘です」
橋鐘守マルタは、第四橋のたもとにある小さな鐘楼で夜番をする老女だ。背は曲がっているが耳は鋭い。川面に落ちた櫂の音だけで、舟が上流から来たか下流から来たか言い当てる。
鐘楼へ向かうと、マルタは黒い肩掛けを羽織り、鐘紐の横に立っていた。白髪を布で包み、口元にはいつもの不機嫌が貼り付いている。
「遅いよ、ミレーナ」
「呼びましたか」
「呼んだ。若い監査官も来たね。耳が飾りでなけりゃ、ここに座りな」
エリオは素直に古い椅子へ座った。椅子がきしみ、彼の膝が少し窮屈そうに曲がる。マルタはその様子を見て、ふんと笑った。
「昨夜、第三橋は鳴っていませんね」
「鳴ってない。鳴らせなかったんじゃない。鳴らす前に、第四橋が鳴った」
「誰が」
「分からないと思うかい」
マルタは鐘楼の窓から外を指した。川沿いの石畳は濡れていて、ところどころに白い砂が残っている。
「夜半、ロゼル家の小舟が一艘、音を殺して上がってきた。漕ぎ手は二人。舳先に若い男が立っていたよ。声がよく響く、嫌なほど自信のある男だ」
ミレーナは目を伏せた。
ジュリアンの声は、水の上でよく通る。婚約したばかりの頃は、それを頼もしいと思ったこともある。今は、夜番の老人にまで届く無遠慮さが恥ずかしい。
「鐘を鳴らしたのは、その男ですか」
エリオが尋ねる。
「直接じゃない。小舟の者が鐘紐に鉤をかけた。試しに一つ、鳴らしたんだろう。けどね、橋鐘は順に鳴らすもんだ。第三を飛ばして第四を鳴らせば、川が気持ち悪がる」
エリオは笑わなかった。そういうところは、かなりいい。
「その後、何か起きましたか」
「洗濯場の排水口が一息だけ逆に吹いた」
マルタは窓の下を顎で示した。
下町の洗濯場では、朝から女たちが桶を並べていた。だが一角だけ、石床が泥で汚れている。布を絞る音に混じって、怒鳴り声が聞こえた。
「オスカーの染め場だよ。藍を一桶だめにした」
「染物屋の?」
「あんたが子どもの頃、赤い上着を染め直してくれた親方だ」
ミレーナは覚えていた。母の古い上着をもらったが、袖口に大きな染みがあった。オスカー親方はそれを赤ではなく深い葡萄色に染め直し、「水門暦係は汚れるから、濃い色がいい」と笑った。
洗濯場へ降りると、オスカーは腕まくりをして桶を洗っていた。太い腕に青い筋がいくつも残っている。染料ではなく、仕事の色だ。
「ミレーナか。今朝はずいぶん偉い連れがいるな」
「治水監査官です。昨夜の逆流について証言をお願いできますか」
「証言も何も、この桶を見ろ」
彼は底に残った濁りを見せた。藍の深い色に、茶色い泥が混じっている。
「昨夜の水はおかしかった。排水口からぼこっと戻ってきたんだ。半拍だけだが、染めは半拍で死ぬ」
エリオは桶を覗き込んだ。
「損害額は」
「金にすりゃ大したことはない。だが今日の市に出す布が減る。うちの若いのが一人、妹の薬代を払う予定だった」
ミレーナは唇を噛んだ。
こういう損害は、貴族の会計帳には小さく見える。けれど下町では、小さな桶一つが夕飯の鍋を薄くする。
「私の判断が遅れました」
「違う」
オスカーは濡れた手を振った。水滴が石床に散る。
「悪いのは、水を飾りだと思ってるやつだ。あんたは止めに来たんだろう」
「はい」
「なら止めろ。遠慮するな。俺たちは、婚礼船の花なんか食えない」
ミレーナの喉が熱くなった。涙ではない。怒りに近い。けれど怒りだけでもない。自分の仕事を見ている人がいると知ると、体の奥に置き忘れていた芯が戻ってくる。
エリオが証言を書き取る間、ミレーナは洗濯場の排水口を確認した。石の縁に、新しい水跡が残っている。高さは指二本分。もし正午の満ち戻りに中央門を開ければ、これは指二本では済まない。
「カルヴァ係」
エリオが呼んだ。
「はい」
「あなたの閉門判断を、監査局の暫定判断として支持します」
その言葉は、華やかではなかった。甘くもない。けれどミレーナの背筋は、婚約指輪をもらった日よりまっすぐ伸びた。
「ありがとうございます」
「礼は不要です。根拠が揃っています」
「それでも」
ミレーナは一度言葉を切った。仕事中に余計な感情を混ぜるのは嫌いだ。けれど、これは言っておきたかった。
「根拠を根拠として扱ってくださって、助かります」
エリオの筆が止まった。彼は少しだけ目を細めた。
「それは、本来当然のことです」
「当然が一番高価な日もあります」
マルタが横から笑った。
「あんたたち、川っぷちで礼儀の売り買いをしてないで上を見な」
上流から、白い布をかけた船が下ってくるのが見えた。花房をつけた小舟ではない。もっと大きい。舳先に水鳥の銀飾りがあり、青い房が風に揺れている。
婚礼船だ。
予定は明日の昼と聞いていた。いや、ジュリアンは今日の正午と言った。けれど今はまだ昼前。潮はさらに悪い。
「早めたのか」
エリオが低く言った。
ミレーナは橋の上へ駆けた。花嫁船の舳先で、銀髪の令嬢が白い手袋を振っている。セリーヌ・ベルシュだろう。その足元で、青い房飾りが一つ、妙に重たく揺れていた。
鉛の重さを、ミレーナは見慣れている。
「ランベール監査官」
「ええ」
「あの飾り房、第四封鉛札の破片かもしれません」
橋鐘が、風に押されて小さく鳴った。
まだ鳴らす時刻ではない。
ミレーナは赤鉛筆を握りしめ、橋の欄干から婚礼船を見下ろした。華やかな布と花の下で、水は濁った色をしている。
婚礼水路は飾りではない。
その言葉を、今度は王都じゅうに聞かせる必要があった。




