第10話 私の鐘で水門を開く
正しい潮時は、いつも劇的に訪れるわけではない。
空が晴れることも、天使の梯子が水面に落ちることもなかった。霧は薄くなったが、王都の石壁はまだ湿り、橋の下には白い泡が残っている。見物人たちは息を潜め、さっきまでの祭りの名残を足元で踏んでいた。
ミレーナは、その地味さに少し救われた。人生が変わる瞬間に、空まで都合よく輝かなくていい。濡れた袖、冷えた爪先、腹の空いた体。そういうものを抱えたままでも、人は選び直せる。婚約指輪を外した指はまだ赤いが、鐘紐を握るには邪魔にならない。
ミレーナは正門鐘の下に立った。
鐘紐は太く、古い麻で編まれている。母が握った場所だけ、少し黒ずんでいる気がした。実際には多くの水門暦係が握ってきた跡だろう。けれど今日は、母の手の跡だと思いたかった。
「第一門、固定解除準備」
門番長が合図を返す。
「第二門、封鉛札確認」
トマが声を張った。
「確認!」
「第三門、橋鐘順」
マルタが鐘楼から手を上げる。
「耳は起きてるよ」
「第四門、予備札は」
ベルトランが新しい予備札を掲げた。治水局の封印が押されている。
「監査官立ち会いで再発行済み」
エリオはミレーナの隣にいた。少し後ろでも、前でもない。彼女が水面を見られる位置を空けて、記録係に指示を出している。
「上流の舟は」
「停止線で待機」
「下町の水位」
「洗濯場、床下。染め場、桶安定」
「婚礼船は」
エリオが答える。
「係留済み。積荷押収。ベルシュ嬢は証言書に署名しました」
ミレーナは少しだけセリーヌを見た。彼女は白い衣装の上に、誰かが貸した灰色の外套を羽織っている。もう水祝姫には見えない。だがその方が、彼女自身に近いのかもしれない。
セリーヌはミレーナに気づき、小さく頭を下げた。
ミレーナも返した。
許した、とはまだ言えない。けれど、彼女を水へ沈める必要もない。自分で船を降りた人には、岸を歩く時間が要る。
ジュリアンは広場の端で監査局の者に囲まれていた。外套は濡れ、髪も乱れている。彼は最後までミレーナを見ようとしたが、ミレーナは水面へ目を戻した。
今見るべきものは、彼ではない。
潮見塔から白旗が上がった。
水尺半線戻り。
「正門鐘、準備」
ミレーナは鐘紐を握った。
手はもう震えていない。嘘だ。少し震えている。けれど震えごと握れる。完璧に静かな手でなければ仕事ができないなら、王都の水門は一度も開かなかっただろう。
「ミレーナさん」
エリオが低く呼んだ。
「はい」
「あなたの判断で」
それだけだった。
許可でも命令でもない。判断を求める言葉。ミレーナは息を吸った。川の匂い、塩、濡れた石、焼き菓子の焦げた甘さ、染料の藍。全部が混じった王都の匂いがした。
「正門鐘、三つ。第一門、半開。第二門、遅れ二拍。第三、第四は固定のまま。下町排水を待ってから順次開門」
「記録しました」
エリオの返事を聞き、ミレーナは鐘紐を引いた。
一つ。
鐘の音が霧を押し上げる。
二つ。
橋の上の人々が静かに頭を上げる。
三つ。
第一門が、ゆっくり動いた。
さっきのような唸りはない。水は狭い隙間から乱暴に押し込むのではなく、門の下を滑るように抜けた。泡は白く広がったが、すぐにほどける。門番たちが手動軸を押さえ、第二門の鐘が二拍遅れて鳴る。
「下町は」
「床下のまま!」
洗濯場から声が返った。
「染め桶、動かず!」
オスカーの太い声。
魚売りの老人が籠を掲げた。
「魚も怒ってない!」
広場に笑いが起きた。今度の笑いは、心底からのものだった。
ミレーナは水門暦に赤線ではなく、青い開門線を引いた。閉じるための朱線と、開くための青線。どちらも水門暦係の仕事だ。
王都の水が、正しい道へ戻っていく。
すべてが終わったわけではない。第四封鉛札の予備管理は見直しが必要だ。婚礼水路の規則も、商会荷の抜け道を塞がなければならない。旧暦帳は修復に出す。ロゼル家の処分も続く。
それでも、今日の水は守れた。
エリオが審理の最終書を読み上げた。
「ロゼル家の水路利権申請は取消し。ジュリアン・ロゼルは治水局指定の現場研修を修了するまで、水路契約代理権を停止。無許可積荷に関わる商会契約は凍結。セリーヌ・ベルシュ嬢は証言協力により、水祝姫商法への関与を不問とし、以後同名目での勧誘を禁ず」
ジュリアンが何か叫んだが、鐘の余韻にかき消された。
ミレーナは彼を見なかった。
エリオは続けた。
「ミレーナ・カルヴァ係については、臨時閉門判断、証拠保全、正時開門判断の功により、王都水門暦師への任命を治水局より推薦します」
今度こそ、ミレーナは顔を上げた。
「暦師?」
「係ではなく、七門全体の暦を編む役です。現場を離れる任命ではありません」
最後の一文を先に言ってくれるところが、彼らしいと思った。
「現場に残れるのですか」
「あなたが望むなら」
「望みます」
迷わなかった。
貴族の屋敷で美しい妻になる未来より、濡れた石段を上がる朝の方が、自分の足に合っている。そう言うと、昔の自分が少しかわいそうな気もした。けれど昔の自分も、きっとどこかで知っていた。水の匂いが取れない手を、本当は嫌いではなかったことを。
マルタが後ろからミレーナの肩を叩いた。
「暦師様、初仕事は旧暦帳の修理だね」
「はい」
「それから昼飯を食べな。朝から何も食べてない顔だ」
ミレーナのお腹が、非常に正直な音を立てた。
近くにいたトマが吹き出し、オスカーが大笑いした。ミレーナは頬を押さえた。審理で泣かなかったのに、腹の音で赤くなるのは不公平だ。
エリオが咳払いをした。
「それでしたら」
ミレーナが見ると、彼は少しだけ視線を横へ逃がした。
「監査報告を出した後で、温かい食事でも。もちろん、職務の区切りがついてからです」
マルタがにやにやしている。オスカーまで妙な顔をしている。ミレーナは水門暦を閉じ、できるだけ平静に答えた。
「職務の区切りがついたら、お願いします」
「はい」
「ただし、報告書をごまかしたら食事はなしです」
エリオは真面目に頷いた。
「ごまかしません」
その真面目さが少しおかしくて、ミレーナは笑った。
川風が吹き、霧がようやく切れた。中央運河の向こうに、王都の屋根が見える。洗濯場では女たちが桶を戻し、染物屋では濡れた布が広げられ、魚売りは朝市へ急ぎ始めた。
婚礼船は岸に繋がれたまま、白い帆を畳んでいる。
けれど水路は閉じていない。
正しい時に、正しい門が開いたからだ。
ミレーナは薬指を見る。指輪の跡はまだ薄く残っていた。しばらくは消えないだろう。それでいい。跡があるからといって、そこに同じ指輪を戻す必要はない。
彼女は赤鉛筆と青鉛筆を筆箱に戻し、潮見塔へ向かって歩き出した。
石段はまだ濡れている。明日の朝も、きっと濡れている。
ミレーナはその濡れた石を、自分の足で上がる。
自分の潮時は、自分で読む。
塔の下で、エリオが記録係に何かを確認している。彼は約束の食事を急かさないだろう。ミレーナも急がない。まず報告書、次に旧暦帳の修復、予備札箱の鍵の見直し。それから温かいスープを飲む。恋が仕事の褒美になるのではなく、仕事を終えた日常の中に少しずつ置かれていく。そのくらいの速度が、今の彼女には信じられた。




