表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮時を読むだけの女はいらないと言われましたが王都の婚礼水門は開けません  作者: むむさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

第10話 私の鐘で水門を開く

正しい潮時は、いつも劇的に訪れるわけではない。


空が晴れることも、天使の梯子が水面に落ちることもなかった。霧は薄くなったが、王都の石壁はまだ湿り、橋の下には白い泡が残っている。見物人たちは息を潜め、さっきまでの祭りの名残を足元で踏んでいた。


ミレーナは、その地味さに少し救われた。人生が変わる瞬間に、空まで都合よく輝かなくていい。濡れた袖、冷えた爪先、腹の空いた体。そういうものを抱えたままでも、人は選び直せる。婚約指輪を外した指はまだ赤いが、鐘紐を握るには邪魔にならない。


ミレーナは正門鐘の下に立った。


鐘紐は太く、古い麻で編まれている。母が握った場所だけ、少し黒ずんでいる気がした。実際には多くの水門暦係が握ってきた跡だろう。けれど今日は、母の手の跡だと思いたかった。


「第一門、固定解除準備」


門番長が合図を返す。


「第二門、封鉛札確認」


トマが声を張った。


「確認!」


「第三門、橋鐘順」


マルタが鐘楼から手を上げる。


「耳は起きてるよ」


「第四門、予備札は」


ベルトランが新しい予備札を掲げた。治水局の封印が押されている。


「監査官立ち会いで再発行済み」


エリオはミレーナの隣にいた。少し後ろでも、前でもない。彼女が水面を見られる位置を空けて、記録係に指示を出している。


「上流の舟は」


「停止線で待機」


「下町の水位」


「洗濯場、床下。染め場、桶安定」


「婚礼船は」


エリオが答える。


「係留済み。積荷押収。ベルシュ嬢は証言書に署名しました」


ミレーナは少しだけセリーヌを見た。彼女は白い衣装の上に、誰かが貸した灰色の外套を羽織っている。もう水祝姫には見えない。だがその方が、彼女自身に近いのかもしれない。


セリーヌはミレーナに気づき、小さく頭を下げた。


ミレーナも返した。


許した、とはまだ言えない。けれど、彼女を水へ沈める必要もない。自分で船を降りた人には、岸を歩く時間が要る。


ジュリアンは広場の端で監査局の者に囲まれていた。外套は濡れ、髪も乱れている。彼は最後までミレーナを見ようとしたが、ミレーナは水面へ目を戻した。


今見るべきものは、彼ではない。


潮見塔から白旗が上がった。


水尺半線戻り。


「正門鐘、準備」


ミレーナは鐘紐を握った。


手はもう震えていない。嘘だ。少し震えている。けれど震えごと握れる。完璧に静かな手でなければ仕事ができないなら、王都の水門は一度も開かなかっただろう。


「ミレーナさん」


エリオが低く呼んだ。


「はい」


「あなたの判断で」


それだけだった。


許可でも命令でもない。判断を求める言葉。ミレーナは息を吸った。川の匂い、塩、濡れた石、焼き菓子の焦げた甘さ、染料の藍。全部が混じった王都の匂いがした。


「正門鐘、三つ。第一門、半開。第二門、遅れ二拍。第三、第四は固定のまま。下町排水を待ってから順次開門」


「記録しました」


エリオの返事を聞き、ミレーナは鐘紐を引いた。


一つ。


鐘の音が霧を押し上げる。


二つ。


橋の上の人々が静かに頭を上げる。


三つ。


第一門が、ゆっくり動いた。


さっきのような唸りはない。水は狭い隙間から乱暴に押し込むのではなく、門の下を滑るように抜けた。泡は白く広がったが、すぐにほどける。門番たちが手動軸を押さえ、第二門の鐘が二拍遅れて鳴る。


「下町は」


「床下のまま!」


洗濯場から声が返った。


「染め桶、動かず!」


オスカーの太い声。


魚売りの老人が籠を掲げた。


「魚も怒ってない!」


広場に笑いが起きた。今度の笑いは、心底からのものだった。


ミレーナは水門暦に赤線ではなく、青い開門線を引いた。閉じるための朱線と、開くための青線。どちらも水門暦係の仕事だ。


王都の水が、正しい道へ戻っていく。


すべてが終わったわけではない。第四封鉛札の予備管理は見直しが必要だ。婚礼水路の規則も、商会荷の抜け道を塞がなければならない。旧暦帳は修復に出す。ロゼル家の処分も続く。


それでも、今日の水は守れた。


エリオが審理の最終書を読み上げた。


「ロゼル家の水路利権申請は取消し。ジュリアン・ロゼルは治水局指定の現場研修を修了するまで、水路契約代理権を停止。無許可積荷に関わる商会契約は凍結。セリーヌ・ベルシュ嬢は証言協力により、水祝姫商法への関与を不問とし、以後同名目での勧誘を禁ず」


ジュリアンが何か叫んだが、鐘の余韻にかき消された。


ミレーナは彼を見なかった。


エリオは続けた。


「ミレーナ・カルヴァ係については、臨時閉門判断、証拠保全、正時開門判断の功により、王都水門暦師への任命を治水局より推薦します」


今度こそ、ミレーナは顔を上げた。


「暦師?」


「係ではなく、七門全体の暦を編む役です。現場を離れる任命ではありません」


最後の一文を先に言ってくれるところが、彼らしいと思った。


「現場に残れるのですか」


「あなたが望むなら」


「望みます」


迷わなかった。


貴族の屋敷で美しい妻になる未来より、濡れた石段を上がる朝の方が、自分の足に合っている。そう言うと、昔の自分が少しかわいそうな気もした。けれど昔の自分も、きっとどこかで知っていた。水の匂いが取れない手を、本当は嫌いではなかったことを。


マルタが後ろからミレーナの肩を叩いた。


「暦師様、初仕事は旧暦帳の修理だね」


「はい」


「それから昼飯を食べな。朝から何も食べてない顔だ」


ミレーナのお腹が、非常に正直な音を立てた。


近くにいたトマが吹き出し、オスカーが大笑いした。ミレーナは頬を押さえた。審理で泣かなかったのに、腹の音で赤くなるのは不公平だ。


エリオが咳払いをした。


「それでしたら」


ミレーナが見ると、彼は少しだけ視線を横へ逃がした。


「監査報告を出した後で、温かい食事でも。もちろん、職務の区切りがついてからです」


マルタがにやにやしている。オスカーまで妙な顔をしている。ミレーナは水門暦を閉じ、できるだけ平静に答えた。


「職務の区切りがついたら、お願いします」


「はい」


「ただし、報告書をごまかしたら食事はなしです」


エリオは真面目に頷いた。


「ごまかしません」


その真面目さが少しおかしくて、ミレーナは笑った。


川風が吹き、霧がようやく切れた。中央運河の向こうに、王都の屋根が見える。洗濯場では女たちが桶を戻し、染物屋では濡れた布が広げられ、魚売りは朝市へ急ぎ始めた。


婚礼船は岸に繋がれたまま、白い帆を畳んでいる。


けれど水路は閉じていない。


正しい時に、正しい門が開いたからだ。


ミレーナは薬指を見る。指輪の跡はまだ薄く残っていた。しばらくは消えないだろう。それでいい。跡があるからといって、そこに同じ指輪を戻す必要はない。


彼女は赤鉛筆と青鉛筆を筆箱に戻し、潮見塔へ向かって歩き出した。


石段はまだ濡れている。明日の朝も、きっと濡れている。


ミレーナはその濡れた石を、自分の足で上がる。


自分の潮時は、自分で読む。


塔の下で、エリオが記録係に何かを確認している。彼は約束の食事を急かさないだろう。ミレーナも急がない。まず報告書、次に旧暦帳の修復、予備札箱の鍵の見直し。それから温かいスープを飲む。恋が仕事の褒美になるのではなく、仕事を終えた日常の中に少しずつ置かれていく。そのくらいの速度が、今の彼女には信じられた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ