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君に甘えていたわけじゃない

作者:reika1021
最終エピソード掲載日:2026/10/30
朝、日本橋のオフィスに着くと、薄明千景の机にはいつも飲み物が置かれている。自分で頼んだわけでも、約束したわけでもないのに、それはいつからか当たり前になっていて、千景も「ありがとう」と言うだけで、その小さな優しさの意味を考えたことはなかった。

用意しているのは、同じチームで働く一歳上の常盤井燈成だ。昼食を後回しにすれば声をかけ、資料を抱えれば何も言わず半分を持ち、帰りが遅くなれば人形町まで同じ速度で歩いてくれる。それでも千景が彼のそばにいると楽なのは、仕事仲間として気が合うからだと思っていた。

千景は人に頼ることが苦手だった。誰かを必要とすればその人がいなくなった日に困るから、自分のことくらい自分でできる人間でいたかったはずなのに、燈成の前でだけはどうしても「大丈夫」と言い切る前に助けられてしまう。そのことを嫌だと思ったことは一度もなかった。

そんな日常が、ある朝から少しずつ変わり始める。机の端に飲み物がなく、昼になっても声をかけられず、帰り道も自然には重ならない。燈成は冷たくなったわけではないのに、昨日まで自分のそばにあったものだけが静かに引いていく。

困ることなどないはずだった。飲み物は自分で買うし、食事も自分で忘れなければいい。仕事だって一人で片づけられるのに、何も失っていないはずの一日がどうしてこんなにも長いのか、千景には分からなかった。

やがて気づいてしまう。欲しかったのは助けではなく、自分より先に疲れを見つけてくれる視線で、甘えたかったのではなく、燈成の前だから甘えることができたのだと。

恋に落ちた瞬間など、きっとどこにもない。朝の飲み物、人形町までの帰り道、信号が変わりそうなときに急かさず立ち止まってくれたこと。その何でもない一つ一つの中に、名前をつけないまま恋はずっと置かれていた。

これは、好きになる物語ではない。すでに好きだったことを、やさしさがなくなりかけた朝にようやく知る物語。

誰かがいなければ生きていけないわけではない。それでも、その人がいない明日だけをは選びたくない、という気持ちに恋という名前を与えるまでの日本橋から人形町へ続く十日間を描いた、静かな純愛小説です。
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