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君に甘えていたわけじゃない  作者: reika1021


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3/10

第3章:輪郭のない優しさ

日本橋の朝はいつもと変わらず白く明けており、ビルの外壁に反射する光の角度も昨日までと同じに見える。


歩道には通勤客の靴音がいつも通りの密度で響き、誰かの傘が植え込みに忘れ物のように立てかけられているのを、千景は横目で通り過ぎた。


昨日は降っていなかったはずの雨の名残が、その傘の柄に薄く残っている。持ち主が今ごろどこかで困っているだろうかと千景は少しだけ考えたが、すぐに忘れてしまった。


千景はエレベーターを降り、フロアに入った。空気の匂いもキーボードの音も、何一つ違わないはずだった。


窓際の観葉植物には誰かが水をやったのか、葉先に小さな水滴が光っていた。その些細な変化にすら千景は今日はやけに敏感になっていた。


自分の席に着き、鞄を下ろす。視線は無意識に机の端に向かい、そこで一拍だけ止まった。


椅子を引く音さえいつもより控えめに聞こえ、何かを察知した体が先回りして構えているような感覚だった。


紙コップがない。


見間違いかと思い、千景は一度パソコンの画面を確認してからもう一度机の端を見たが、やはり何もない。


蛍光灯の光が、何もない木目の表面をただ均一に照らしているだけだった。その空白の質感が、これまで意識したこともなかったほどはっきりとした存在感を持って迫ってきた。


隣の席では燈成がいつも通りキーボードを打っており、特に変わった様子はなく朝の挨拶もいつもと同じ声だった。


その声の温度に不自然さは感じられない。だからこそ、机の端の空白が余計に際立って見えるのかもしれなかった。


「おはよう」


「おはようございます」


千景はそれだけ返し、パソコンを立ち上げた。忘れているだけかもしれない。今日だけ、たまたま用意する時間がなかっただけかもしれない。


いつもより一拍遅れて返ってきたはずの挨拶の温度差にすら、千景は敏感になっていた。気にしすぎているのだと分かっていても、止められなかった。


理由をいくつも並べては、その一つ一つに納得しようとするが、どれも自分を落ち着かせるための言い訳のように聞こえてしまい、最後まで信じきれない。


そう考えながらも、視線は何度も机の端に戻ってしまう。習慣というものの根深さを、千景はこんな形で思い知らされていた。


数えるつもりもないのに、今朝すでに三度は同じ場所を見てしまっている。そのたびに何もないことを確かめては、小さく肩を落とした。


未読のメールを開き、順番に処理していく。指先の動きはいつも通りなのに、頭の片隅だけがどこか別の場所に置き去りにされているようだった。


午前の会議で、燈成は普段と変わらず的確に発言していた。資料の数字も淀みなく答え、誰かの質問にも即座に応えていた。


その様子を見ていると、昨日までと何も変わっていないように思えてくる。だからこそ、朝の空白はただの偶然だったのかもしれないと、千景は自分をなだめようとしていた。


千景は自分の資料に目を落としながら、燈成の声のトーンを確かめるように聞いていた。冷たさは感じない。ただ、いつもより少しだけ間の取り方が違って聞こえる。


言葉と言葉の間にある、ほんのわずかな呼吸の長さ。それを気にする自分がすでに普通ではないのだと、千景はどこかで気づいていた。


「ここの数字、確認しておいて」


「はい、分かりました」


会議室を出る際、燈成はいつものように先に廊下へ出たが、今日は千景の分の資料を持っていなかった。


指示を受け取る声のトーンはいつも通り穏やかだった。それだけに、その後に続くはずだった小さな気遣いの欠落がより一層はっきりと感じられた。


両手で抱えた紙束の重さが、いつもより実感を伴って腕にのしかかる。持ってもらうことに慣れていたことを、その重さが今さらのように教えてくれた。


自分の荷物は自分で抱える。当たり前のことのはずなのに、その当たり前が今日はやけに重く感じられた。


廊下の窓から差し込む光が、腕の中の紙束の縁を白く縁取っていた。その白さを見つめながら、千景は自分の歩幅がいつもより小さくなっていることに気づかずにいた。


廊下を歩きながら、千景は昨日までのことを思い返そうとしたが、すぐにやめた。比べたところで、何が変わるわけでもない。


昼が近づいても燈成から声がかかることはなく、時計を見る余裕がなくなるほど資料に没頭していたはずなのに、今日は妙に時間の流れを意識してしまう。


窓の外の光が真上に近づくにつれ、フロアの温度もわずかに上がっていく。その調整のために強まった空調の音にも、千景は敏感に気づいてしまった。


顔を上げると、燈成は自分の弁当を静かに広げているところだった。声をかけられるのを待っているわけではないと、千景は自分に言い聞かせる。


「お昼、行かないの?」


千景の方から尋ねると、燈成は箸を止めずに答えた。


「今日は持ってきたから」


「そう」


弁当箱のふたについた水滴が蛍光灯の光を受けて小さく光っているのを見つめながら、千景は次の言葉を探せないまま席を立った。


それだけの会話で昼休みは終わり、千景は一人でエレベーターホールへ。いつもの蕎麦屋とは反対の方向へ歩き出した。


エレベーターの扉が閉まる瞬間、千景は誰も追いかけてこないことを確かめるように一度だけ後ろを振り返ったが、フロアの入口はいつも通り静かなままだった。


コンビニのおにぎりを買い、フロアの休憩スペースで一人分の昼食を済ませた。味は普段と変わらないはずなのに、噛むたびに何かが足りないような感覚が付きまとった。


包装フィルムを剥がす音だけが静かな休憩スペースに響き、向かいの席には誰も座らず、窓の外の曇り空だけが千景の視界を占めていた。


午後の作業に戻ると、資料の修正はいつも通り進んだ。プリンターの音、電話の応対、キーボードの響き、フロアの空気は何も変わっていない。


その変わらなさが、かえって千景には不自然に思えた。何かが欠けているのに、周りの世界だけが平然と回り続けていることが妙に据わりの悪い感覚を連れてきた。


ただ、隣の席から視線を感じることは今日はほとんどなかった。感じないことに気づいてしまう自分に、千景は小さく苛立ちを覚えた。


苛立ちの矛先をどこに向けていいのか分からず、千景はただキーボードを打つ指先に力を込めた。文字が普段より少し強めに刻まれていくのが自分でも分かった。


紙詰まりが起きたとき、千景は一人でトレイを開け閉めしながら詰まった紙を引き抜いた。以前なら横から手が伸びてきていたはずの場面だった。


指先にインクの汚れがつくのも構わず、千景は何度もトレイを開け閉めした。誰かの助けを待たずに片付けられたことに、ささやかな達成感とそれ以上の物足りなさが同時に押し寄せてきた。


「大丈夫?」


通りがかった別の同僚が声をかけてくれたが、千景は「平気です」とだけ答えて作業を続けた。求めていた言葉とは少し違う気がした。


親切そのものはありがたいが、欲しかったのは別の誰かの別の言い方だったのだと、千景は自分の身勝手さに気づいて少し苦く笑った。


夕方、フロアの窓の外は薄い橙色に染まり始めていた。いつもなら、その色の変化に気づかせてくれる誰かの声があったはずなのに、今日は自分一人でその変化を確かめている。


橙色は少しずつ濃さを増し、フロアの白い光と混ざり合っていくその境目のあたりを、千景はしばらくぼんやりと眺めていた。


「今日、これで終わりにする」


千景が声に出すと、燈成は画面から顔を上げた。


「うん、お疲れ様」


短い返事だけが返ってきて、それ以上の言葉は続かなかった。荷物をまとめる音だけがいつもより大きく響いた気がした。


いつもならその後に続くはずの一言を千景は待っていたのかもしれないが、何も続かないままフロアの空気はいつも通りに戻っていった。


フロアを出てエレベーターに乗り込む。燈成も同じ便に乗っていたが、会話はなく、階数表示の数字だけが規則正しく変わっていった。


狭い箱の中で、それぞれの呼吸だけが静かに重なっていた。何か言葉を探そうとして、結局千景は何も言えないまま一階に着いた。


外に出ると、日本橋の通りはいつも通りの人の流れを保っており、ビルの窓の明かりもいつも通りの密度で灯っていた。


その変わらない景色の中に自分だけが違う速さで立っているような感覚が千景の足取りをわずかに鈍らせていた。


「じゃあ、また明日」


燈成がそう言って駅の方向へ歩き出すと、千景は反対方向へ行くべきか一瞬迷ったが、結局同じように駅へ足を向けた。


いつもとは逆の順番で駅に向かうことに、千景はしばらく違和感を覚え続けていた。体が覚えている道順が、今日に限って意味を持たなくなっていた。


人形町へ寄る理由が今日はどこにもなく、並んで歩く相手がいなければあの路地を通る意味も自然と消えてしまう。


醤油の匂いも提灯の明かりも、今日は千景の記憶の中にだけ残ることになる。そう思うと、駅への直線的な道がいつもより無機質に感じられた。


駅までの道を千景は一人で歩いた。普段なら誰かの歩調に合わせて歩幅を調整しているはずなのに、今日はただ自分の速さだけで進んでいく。


信号が変わりそうになっても、誰も足を止めて待ってはくれない。小走りで渡りきった後、息を整えながら千景は、その些細な違いに気づいてしまった。


いつもなら、渡り切る前に隣で歩調を合わせてくれる相手がいたのに、その不在がこんなにも呼吸のリズムを乱すとは思っていなかった。


その自由さが少しも心地よく感じられないことに、千景は戸惑っていた。誰かに合わせることが窮屈だったはずなのに、合わせる相手がいないことの方が、今はよほど窮屈だった。


矛盾しているのは分かっている。それでも、感じてしまうものを打ち消す方法を千景はまだ知らなかった。


橋を渡る時、川面には夕方の空がそのまま映り込んでいた。いつもなら誰かと一緒に眺めていたはずの景色を、今日は一人で見下ろしている。


橙と灰色が混ざり合う空の色は昨日までと同じはずだった。それなのに隣に誰もいないというだけで、その色合いすら違って見えることに千景は静かに驚いていた。


欄干に手をかけることもなく、千景はそのまま歩き続けた。立ち止まる理由が今日はどこにも見当たらなかった。


風は昨日と同じ強さで吹いているはずだった。だが、前髪を押さえる手はどこにもなく、髪は好きなように乱れていくままだった。


駅の改札を抜けるとき、千景はふと燈成の今日の言動を思い返した。冷たかったわけではない。むしろいつも通りだったと言ってもいい。


それだけに、何を根拠に違和感を覚えているのか自分でも説明がつかなかった。曖昧な感覚だけが改札の音に紛れて胸の奥に居座り続けている。


それなのに、何かが確かに違っていた。違いの正体を言葉にしようとするたび、輪郭がするりと逃げていく。


電車に揺られながら、千景は窓の外を流れる灯りを眺めていた。ビルの明かりが線になって後ろへ流れていく様子が、今日はやけに速く感じられた。


車両の揺れに合わせて吊り革が規則正しく揺れ、その単調な動きだけが今の千景にとって唯一頼れる規則性のように思えた。


最寄り駅で降り、坂道を上る。いつもより長く感じるその距離を、千景は黙々と歩いた。


街灯の数を数えるように、一つ、また一つと通り過ぎていく。数えたところで何が変わるわけでもないのに、その単純な作業だけが今の千景を支えていた。


坂の途中の稲荷神社の前を通り過ぎる際、千景は今日は足を止めなかった。立ち止まる理由を自分でも見つけられなかったからだ。


赤い鳥居はいつも通りそこに立っていた。変わったのは鳥居ではなく、その前で足を緩めるかどうかを決める自分自身の側なのだと千景はぼんやり気づいていた。


玄関を開けると、部屋の空気はいつもと変わらない静けさを保っていた。灯りをつけ、コートを脱ぐ。


いつもなら鞄を置くと同時に安堵が訪れるはずなのに、今日はその安堵がどこか薄い膜を隔てているように感じられた。


その一連の動作の中に、今日は誰かの気配を探そうとする癖が紛れ込んでいることに、千景は遅れて気がついた。誰も待っていないはずの部屋で、無意識に何かを待っている自分がいる。


鞄からペットボトルを取り出し、ふたを開ける。冷たい水が喉を通り過ぎる感覚だけが、今日一日の輪郭をはっきりとさせてくれた。


飲み干した後の静けさの中で、千景はしばらくキッチンの床を見つめていた。何かを整理しようとしているはずなのに、思考はどこにもたどり着かなかった。


ソファに腰を下ろし、千景は今日の出来事を順に思い返した。紙コップがなかったこと、資料を一人で抱えたこと、昼食を一人で済ませたこと。


一つ一つを思い出すたびに、その軽さと重さのちぐはぐさに戸惑う。些細なはずのことがなぜこんなにも胸に残ってしまうのか、千景には答えが見えなかった。


どれも、誰かに指摘されれば些細な出来事だと笑われるようなことばかりだったが、積み重なった些細さは千景の胸の奥に確かな重さを残していた。


燈成の態度が変わったわけではない。声のトーンも言葉遣いもいつも通りだった。ただ、いつもなら動く前に一歩踏み出していたはずの何かが、今日は踏み出されないまま終わっていた。


その一歩の分だけ距離ができていることに、千景は今日初めて気がついた。


距離という言葉を使うことすら少し大げさなような気がしたが、他に当てはまる言葉が見つからなかった。


気にしないふりをしようとした自分を千景は思い返した。朝からずっと平気なはずだと言い聞かせてきたが、夜になった今、その平気さがどこにも見当たらないことに気づかされている。


強がりというものがこんなにも早く底を突くとは思っていなかったし、誰かに見せていたわけでもない強さが自分自身に対してすら保てなくなっている。


窓の外を見ると、遠くの空にまだ薄い雲が残っていた。昨日と同じ雲のはずなのに、今日はその輪郭が妙に頼りなく見えた。


雲の形を目で追いながら、千景はしばらくその場を動かなかった。明日はまた元に戻っているだろうかと、答えの出ない問いだけが頭の中を巡っていた。


一方、燈成は自宅までの道をいつもより真っ直ぐ歩いていた。人形町へ寄ることも川沿いを遠回りすることもなく、最短の道を選んでいた。


普段なら意識せずに選んでいたはずの遠回りを今日は意識して避けており、その選択の重さに燈成自身も戸惑っていた。


今日、意図的に距離を取ったつもりはなかった。ただ、いつも通りに動こうとするたびに、どこかで踏みとどまる自分がいた。


その踏みとどまりの正体を燈成はまだ言葉にできずにいた。優しさのつもりで重ねてきた行動がいつの間にか自分の輪郭を侵食し始めているような、そんな感覚だけがあった。


境界線を引き直すことは簡単ではない。すでに馴染んでしまった距離感を一日で修正しようとするのは、無理な話なのかもしれなかった。


紙コップを用意しようとして、燈成は手を止めた。理由のない優しさが、いつか意味を持ちすぎてしまうことを、最近になって強く意識するようになっていた。


コンビニの冷蔵ケースの前に立っても、いつもの棚に手が伸びなかった。選ばないという選択にこれほど力が要るとは思っていなかった。


千景が困っていないか、荷物が重くないか、そうした気配りの一つ一つが燈成自身の気持ちを裏側からなぞっているように感じられる日が増えていた。


優しさのつもりで重ねてきた行為が、実は自分のための行為だったのではないかと、燈成はふとした瞬間に疑うようになっており、その疑いは簡単には振り払えなかった。


今日、千景が机の端を見て小さく戸惑っていたことに燈成は気づいていたが、声をかけることができなかった。


視界の端でそれを捉えた瞬間、手を動かしかけた自分を燈成は意識的に止めていたが、その一瞬の抑制が正しかったのかどうか、今もまだ分からない。


その沈黙の意味を燈成はまだ言葉にできずにいたが、いつも通りに振る舞うことの方が今の自分には難しくなっていた。


自宅への道を歩きながら、燈成は今日の千景の背中を思い出していた。いつもより少しだけ肩の力が抜けていないように見えた。


普段なら、気づいた瞬間に何か声をかけていたはずだった。しかし、今日はその声を最後まで飲み込んだままだった。


自分が原因かもしれないという考えはすぐに浮かんだが、それを確かめる方法はどこにもなく、燈成はただその考えを胸の奥に留めておくしかなかった。


確かめれば楽になるのかもしれないが、確かめることで壊れてしまうものがあるような気がして、燈成は問いを立てること自体を避けていた。


玄関の鍵を開け、部屋に入る。灯りをつけずにしばらく立ち尽くしていたのは、今日が初めてのことだった。


暗がりの中で、今日一日の自分の判断を一つ一つ数え直してみた。どれも間違っていなかったはずなのに、正しさの手触りだけがどこにも見当たらなかった。


窓の外に見える街の明かりはいつも通りの数を保っているのに、今日はその明かりの一つ一つがやけに遠く感じられた。


手を伸ばせば届きそうなほど近くにあったはずのものが、今日に限って何かの膜を隔てて見えている。その膜の正体を、燈成はまだ確かめられずにいた。


距離を取ることが千景のためになるのかどうか、燈成にはまだ確信が持てずにいたが、近づきすぎることの怖さだけが日に日に明確になりつつあった。


好きだという気持ちが誰かを守るための行動になるはずなのに、今日はそれが逆に誰かを不安にさせてしまったのかもしれない、という可能性を燈成は苦く受け止めていた。


灯りをつけると、白い光が部屋を均一に満たしていく。燈成は上着を脱ぎながら、明日もこのままでいいのかをまだ自分に問えずにいた。


椅子に腰を下ろし、机の上に置いたままの資料をぼんやりと見つめる。文字の羅列はいつも通りそこにあるのに、今日はどこにも焦点が合わなかった。


人形町の夜は今日も変わらず更けていくが、そこに並んで歩く影がないことに街だけが静かに気づいていた。


明日もまた同じ朝が来る、それだけは確かなはずなのに、その朝がどんな形をしているのか燈成にはまだ想像がつかなかった。


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