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君に甘えていたわけじゃない  作者: reika1021


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4/10

第4章:満たされない充足感

日本橋の朝は、昨日と同じ白さで明けていた。千景は、その白さの中をいつもより意識的な足取りで歩いていく。


信号待ちの間、隣に並ぶ会社員たちの靴音が規則正しく舗装を叩き、誰かの鞄から漏れる香水の匂いが朝の空気にわずかな彩りを添えていた。


信号が変わると周囲の人波が一斉に動き出し、千景もその流れに乗るようにいつもより少し速い足取りで歩き出した。


コンビニの前で立ち止まり、迷わず店内へ入った。今まで甘えすぎていただけだ、と自分に言い聞かせながら、冷蔵ケースの前でカフェオレを手に取った。


棚に並んだ他の飲み物にも一瞬視線が向いたが、結局いつも通りの銘柄を選んでしまう自分に千景は少し苦笑した。


レジで会計を済ませ外に出ると、朝の光が缶の表面に反射してまぶしかった。この程度のこと、これまで誰かに頼る必要すらなかったはずだった。


指先に伝わる缶の冷たさは思っていたより鮮明で、誰かが用意してくれる温かさとは違う質感がそこにははっきりと存在していた。


フロアに入り、席に着き、鞄からカフェオレを取り出して机の端に置いた。


その動作はこれまで何百回と見てきた光景を自分自身で再現しているだけのはずだった。それなのに指先の動きがどこかぎこちなく感じられた。


その場所に自分で用意したものを置く行為が思っていたより不自然に感じられ、いつも誰かが置いていた位置に今日は自分の手で置いている。


隣の席では燈成がいつも通りキーボードを打っており、千景の手元をちらりと見たようだったが何も言わなかった。


その一瞬の視線が何を意味していたのか、千景には読み取れなかった。表情を変えないまま作業に戻る横顔はいつも通り穏やかなだけだった。


「おはようございます」


「おはよう」


短いやりとりの後、それぞれの画面に向き直った。千景はカフェオレのふたを開け、一口飲んだ。


味は悪くない。ただ、いつもの味と何か違う気がした。理由を探そうとして、千景はすぐにその考えを打ち消した。


甘さも温度も、成分表示を見る限り同じもののはずだった。それでも、舌に残る印象だけが微妙にずれている気がしてならなかった。


午前中の作業はいつも通り淡々と進んだ。資料の確認、メールの返信、来週の企画案の骨組み。段取りを崩さないよう、千景は一つずつ丁寧に片づけていった。


キーボードを打つ音だけが、フロアの静けさの中で一定のリズムを刻んでいる。今日は、誰かに助けを求める場面が来ないように、あらかじめ余裕を持って進めていた。


一つの作業を終えるたびに、これで大丈夫と胸の内で確認する癖がついていたが、それは慎重さというよりむしろ、何かを恐れているような響きを帯びていた。


昼が近づくと、千景は自分から席を立った。忘れずに昼食を摂ることも、今日は誰かに促されるのではなく、自分の意志で決めたことだった。


窓の外の光が真上に近づくにつれ、空腹を感じる前に体が動いていた。その行為自体が、これまでとは違う筋肉の使い方をしているようだった。


一人で近くのパン屋に入り、サンドイッチを選ぶ。会計を済ませて外に出ると、日本橋の通りは昼の人波で賑わっていた。


トングでパンを挟む手つきに迷いはなく、何を選ぶか誰にも相談せず即座に決められることに千景は小さな誇らしさすら覚えていた。


レジに並ぶ間も、誰かを待たせているという焦りはどこにもなく、自分のためだけの時間を自分の速さで使えることの気楽さを千景は久しぶりに味わっていた。


フロアの休憩スペースで、千景はサンドイッチを一口ずつ丁寧に食べた。誰かと分け合うこともなく、自分の分だけをきちんと食べきった。


パンの断面に挟まれた具材の彩りを、千景はぼんやりと眺めていた。誰かに褒められるためのものではない食事が、こんなにも静かなものだと千景は初めて知った気がした。


それだけのことに、なぜかいつもより時間がかかった。噛む回数を数えているわけでもないのに、一つの動作に必要以上の意識が向いてしまう。


窓の外を歩く人々の歩行速度と自分の咀嚼速度が、今日はどこか噛み合っていない気がした。理由の分からないズレが、些細な動作の端々に紛れ込んでいた。


午後の会議も資料の印刷もすべて自分の手で完結させ、誰かに助けを求める場面が今日は一つもなかった。


プリンターの前に立つときも燈成の気配を探すことなく淡々と紙を数えていった。その徹底ぶりに自分でも少し驚くほどだった。


慣れというものは恐ろしく早く根付くものだと、千景は今日一日を通して実感していた。数日前まで当たり前だった甘えの記憶さえ、すでに少しずつ遠ざかり始めている気がした。


紙詰まりが起きたときも、千景は落ち着いてトレイを開け、詰まった紙を丁寧に引き抜いた。以前より手際が良くなっている自分に少しだけ満足した。


かつては横から伸びてきた手を待っていたはずの場面を、今日は最初から自分だけで処理していた。その手順の一つひとつが体に馴染んでいくのを感じた。


慣れとはこんなにも静かに、こんなにも早く訪れるものなのかと千景は少し怖くなった。誰かの手を必要としない自分になることを望んでいたわけではなかったはずだった。


だが、その満足感の奥に何か引っかかるものがあった。うまくやれているはずなのに、心のどこかが落ち着かない。


達成感と呼ぶには何かが足りず、かといって不満と呼ぶほどの理由もない名前のつけられない感情が胸の奥で静かに渦を巻いていた。


その渦は外側からは決して見えない場所で静かに、しかし確実に大きくなっていくようだった。誰にも打ち明けられないまま千景はそれを抱えて一日を終えようとしていた。


夕方、資料をすべて片づけた千景は大きく息をついた。何も困っていない一日だったはずなのに、達成感よりも先に妙な疲労感が押し寄せてきた。


窓の外の光が橙色に変わり始めるころ、フロアの誰もが同じように一日の終わりに向けて動き出していた。その中で、千景だけが一人分の静けさを抱えているようだった。


「今日、順調そうだね」


燈成がふとそう言うと、千景は少し驚いて顔を上げた。


「うん、なんとか」


「そう」


それだけの会話で燈成はまた自分の作業に戻っていき、千景はその横顔をしばらく見つめてからパソコンを閉じた。


短い言葉の中にいつものような踏み込みはなく、踏み込まれないことへの安堵と踏み込んでほしかった気持ちが胸の中で同時にせめぎ合っていた。


どちらも本当の気持ちのはずなのに、両立しているという事実が千景自身を最も困惑させていた。矛盾を抱えたまま平然と過ごすことの難しさを今日ほど痛感した日はなかった。


フロアを出ると、外の空気は昼間の熱をまだ残していた。日本橋の通りは夕方特有の橙色に染まり始めていた。


ビルの隙間から漏れる光が歩道のあちこちに長い影を落としており、その影を踏みながら歩く足取りは今日一日で一番重く感じられた。


影の長さは、光の角度が変わるたびに形を変えていく。今の自分の気持ちもその影のように、掴もうとするたびに形を変えてしまうようだった。


「今日は寄らずに帰る」


千景がそう言うと、燈成は少し間を置いてから頷いた。


「うん、分かった」


その返事に拒絶も引き止めもなかったが、ただ受け入れられただけの一言がなぜか千景の胸に小さな棘のように残った。


自分から告げた言葉のはずなのに、その通りに受け止められると、少しだけ寂しさがにじむことに、千景は自分でも戸惑っていた。


望んだ通りの結果を手にしたはずなのに、心の反応がそれに追いついてこないそのちぐはぐさに、千景はしばらく立ち尽くしそうになった。


駅への道を、千景は一人で歩いた。人形町の路地を通らない選択を自分から告げたのは、今日が初めてだった。


いつもの角を曲がらずに直進する足が、どこか他人のもののように感じられた。体は覚えている道順を、頭が意図的に上書きしていた。


角を通り過ぎる瞬間、視界の端に人形町へ続く路地がちらりと映ったが、千景は意志の力だけでそちらへ向かいたい衝動を押し殺した。


橋を渡る際、川面には夕方の空が映り込んでいた。いつもならこの景色を誰かと共有していたはずなのに、今日はその共有相手を自ら手放していた。


橙と灰が混ざり合う空の色はいつも通り美しかったが、その美しさを誰かに伝えたい衝動を千景は行き場のないまま飲み込んだ。


欄干に手をかけることなく、千景はそのまま歩き続け、立ち止まる理由を今日は自分で作らなかった。


風が前髪を揺らしても、それを押さえるしぐさすら今日は必要なかった。誰かの視線を意識する必要がないというだけで、動作の一つ一つが簡素になっていく。


駅の改札を抜け、電車に乗り込む。窓の外を流れる灯りを眺めながら、千景は今日一日を振り返っていた。


車両の揺れに身を任せながら、今日こなした仕事の一つひとつを頭の中で数え上げていく。抜け漏れは、どこにも見当たらなかった。


すべて自分でやり遂げた。誰にも頼らず、誰の手も借りずに一日を完結させることができた。それなのに、その事実がもたらすはずの充実感がどこにも見当たらない。


代わりにあるのは、うっすらとした空腹感に似た何かだった。満たされたはずの一日の底に、埋まらない隙間がぽつりと残っている。


最寄り駅で降り、坂道を上る。いつもと変わらない距離のはずなのに、今日はやけに長く感じられた。


街灯の光が一つずつ足元を照らしていくのを、千景はただ数えるように追っていた。誰かの歩調に合わせる必要のない足取りが、今日はどこか味気なかった。


坂の途中の稲荷神社の前を、千景は今日も足を止めずに通り過ぎ、立ち止まらないことがいつの間にか癖になり始めている自分に気づいた。


赤い鳥居の輪郭が街灯の光の中でぼんやりとにじんでいた。立ち止まれば何かを願ってしまいそうで、千景はあえて視線をそらして歩き続けた。


玄関を開け、灯りをつける。部屋の空気はいつも通り静かだった。


靴を脱ぐ音だけがいつもより大きく聞こえる。誰にも報告する必要のない一日の終わりが静けさをいっそう際立たせていた。


誰かに今日の出来事を話す予定もない夜がこんなにも長く感じられるとは思っていなかった。話す相手がいないことと話す必要がないことは似ているようで、まるで違っていた。


コートを脱ぎ、鞄を置く。今日一日、誰にも迷惑をかけず、誰にも頼らずに過ごせたことを千景は改めて確認するように思い返した。


その確認作業には、達成感を噛みしめる響きよりも、何かを確かめずにはいられない不安の響きの方が色濃くにじんでいた。


ソファに腰を下ろし、スマートフォンを取り出す。画面には特に新しい通知は表示されていなかった。


指先が画面をなぞる動きはいつも通り機械的だったが、期待していたはずの何かが表示されないことに千景は今さらのように気づかされた。


いつもならこの時間、燈成から他愛のないメッセージが届いていることが多かったが、今日はその画面がいつもより静かに見えた。


通知欄を何度スクロールしても新しい文字列は現れず、ただの日常の一部だったはずの存在の大きさを千景は今夜初めて実感していた。


画面をもう一度確認する。やはり何もない。当たり前のことのはずなのに、その当たり前が今日は胸の奥を静かに冷やしていく。


冷たさは徐々に広がり指先の先まで届いていくようで、誰にも見せられないその感覚を千景はスマートフォンを握ったまま持て余していた。


千景はスマートフォンを一度伏せて天井を見上げた。困っていることなど何もないはずだった。それなのに、この落ち着かなさの正体がどこにあるのか分からなかった。


自分でできることが増えたはずなのに、その分だけ何かが軽くなるどころか逆に重くなっている気がした。便利さを失ったわけではない。もっと別の何かを失いかけているような感覚だった。


キッチンで湯を沸かし、カップに注ぐ。湯気が立ちのぼる様子を眺めながら、千景は今日買ったカフェオレの味を思い出していた。


湯気は天井に向かって伸び、やがて見えなくなるまで薄く広がっていった。そのはかなさが、今日一日感じ続けていた曖昧な感覚とどこか重なって見えた。


味は同じはずだった。しかし、誰かが用意してくれたものと自分で選んで買ったものとでは、口に含んだときの重さが違って感じられた。


液体そのものの成分は何も変わらないはずなのに、飲み込むときの喉の動きまでもがいつもより硬く感じられた。味覚とは別の場所で何かが確かに違っていた。


その違いの正体に千景はうっすらと気づき始めていたが、その気づきを言葉にすることにはまだ抵抗があった。


言葉にしてしまえば、これまで平気だと思い込んでいた自分の強がりを認めることになる気がして、まだそこまでの覚悟が千景の中にできていなかった。


一方、燈成は自宅までの道をいつもより遠回りして歩いていた。人形町へ一人で寄ることにこれまでとは違う意味が生まれ始めている。


いつもなら並んで歩いていた路地を、今日は一人分の足音だけが通り過ぎていく。醤油の匂いも提灯の明かりも、今日はどこか他人事のように感じられた。


今日、千景から「寄らずに帰る」と告げられたとき、燈成は表情を変えないよう努めていたが、その一言が胸の奥に落ちた重さは思っていたより大きかった。


「分かった」とだけ返した自分の声が、思っていたより平坦に響いたことも、燈成は後から思い返して気になっていた。もう少し違う言い方があったのではないかと、今さら悔やんでも遅かった。


橋のたもとで足を止め、燈成は欄干に軽く手をかけた。川面を渡る風が昼間の熱を少しずつ攫っていく。


いつもならこのあたりで千景の歩調に合わせていたはずだったのに、一人分の速さで歩く川沿いの道は思っていたよりも短く感じられ、燈成は少し戸惑った。


千景が自分の力で一日を完結させようとしていることに燈成は気づいていたが、その姿勢は正しいはずなのに、なぜか喜べない自分がいた。


正しさと寂しさが同時に成立してしまうことに燈成はこれまで気づいたことがなく、誰かの成長を喜べない自分を少しだけ情けなく思った。


必要とされなくなることを望んでいたはずだった。負担にならない距離を保つことが優しさだと信じてきたのに、いざその距離が現実になると燈成の胸には空白のような感覚だけが広がっていく。


望んだはずのものが手に入った瞬間に、なぜこれほど寂しいのか、その矛盾を解く鍵を燈成はまだ持ち合わせていなかった。


対岸の灯りが水面に揺れて映り、その形を保たないまま流れていく。燈成はその揺らぎを見つめながら、自分の気持ちの矛盾を静かに受け止めていた。


形を保てないのは、水面の光だけではないのかもしれない。自分の気持ちもまた、確かな輪郭を持たないまま、ただ揺れ続けているだけなのだと思えた。


近づきすぎることを恐れていたはずなのに、遠ざかることにも耐えられない。そのどちらつかずの感覚が燈成を、今日は珍しく苛立たせていた。


自分の中にある二つの気持ちが、綱引きをするように互いを引っ張り合っている。どちらか一方に決めてしまえば楽になるはずなのに、燈成はその決断からずっと逃げ続けていた。


欄干から手を離し、燈成はもう一度歩き出した。街灯の間隔が広くなるにつれて、周囲の音も少しずつ遠くなっていく。


自宅の玄関に着き、鍵を差し込む。部屋に入っても、しばらく灯りをつける気になれなかった。


暗がりの中に立っていると、輪郭のはっきりしないものだけが、かえって扱いやすく思えた。灯りをつければ、この曖昧さも消えてしまう気がした。


暗がりの中で燈成はスマートフォンを取り出し、千景に何かメッセージを送ろうとして指を止めた。


画面の明るさだけが暗い部屋の中でやけにまぶしく感じられた。打ちかけた文字を燈成は結局すべて消してしまった。


言葉を探しても、何を送ればいいのか分からなかった。心配していると伝えれば重荷になり、何も送らなければ気づかないふりをしていると思われるかもしれない。


どちらを選んでも正解にはたどり着けない気がした。選択肢の外側に答えがあるのかもしれないと思いながらも、燈成にはそれを見つける手がかりがなかった。


結局、燈成は画面を閉じ、スマートフォンをテーブルに置いた。今日という日をこのまま終わらせるしかないのだと静かに納得するしかなかった。


テーブルに置かれた画面が一度だけ暗く沈んで消え、その小さな暗転が今日という日の区切りを告げているようだった。


灯りをつけると、白い光が部屋を均一に満たしていく。燈成は上着を脱ぎながら、千景の今日の背中を思い出していた。


紙束を一人で抱えて歩いていた姿、コンビニのおにぎりを一人で食べていたであろう横顔。想像でしかないその光景が、なぜか実際に見たかのように鮮明に浮かんだ。


いつもより真っすぐ伸びた背筋には、誰にも頼らないという意志がはっきりと表れていた。


その背筋の伸ばし方に燈成は見覚えがあった。誰かに弱さを見せまいとするときの千景の姿勢が今日は一日を通して続いていたのだと今になって気づいた。


その強さを燈成は美しいと思う一方で、少しだけ寂しくも感じていた。自分の存在がその強さの前では必要とされていないように思えたからだった。


必要とされることと大切に思うことは、本来別のもののはずだった。それでも、燈成の中ではその二つがいつの間にか、分かちがたく結びついてしまっていた。


人形町の夜は、今日も静かに更けていく。互いに送らなかった言葉だけが、それぞれの部屋の中で行き場を失っていた。


送られなかった言葉は消えてなくなるわけではなく、行き場をなくしたままそれぞれの部屋の空気の中に静かに沈殿していくだけだった。


千景はソファの上でいつの間にか眠りに落ちかけており、スマートフォンの画面は最後まで何も映さないままだった。


握りしめていた指の力が緩み、画面が膝の上に滑り落ちたが、その小さな音にも千景は気づかないほど深い眠気に引き込まれていた。


夢とも思考ともつかない意識の中で、千景はふと机の端の風景を思い浮かべていた。紙コップが置かれていたあの場所を、今日は自分の手で埋めた。


それでも、まだそこに埋まらない何かが残っている。その正体を確かめないまま、千景は静かに眠りへと沈んでいった。


窓の外では、遠くのビルの灯りが一つ、また一つと数を減らしていく。誰も見ていないその変化だけが、今日という一日の終わりを確かに刻んでいた。


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