第5話 わかりました
「それで、フレデリック様のご相談は何だったの」
夕食の席で母が訊いた。
鱒の焼いたのが出ていた。わたしはナイフで身をほぐしながら、骨を一本ずつ皿の端に寄せていた。
「慈善晩餐会のことです」
「まあ」
母の手が止まった。
「やっと、並んで座るのね。姉さんから聞いたわよ。今年は控えの間をほかの方に任せるって」
叔母は母の姉だ。二人は三日にあげず手紙をやりとりしている。わたしが叔母に頼んだことは、母にはとっくに伝わっていたのだ。
わたしは鱒の骨を、また一本、皿の端に寄せた。
「……いいえ。今年も、裏方です」
「裏方?」
「フレデリック様は、カトリーナ様の同伴者として行かれるそうです。カトリーナ様は喪が明けて初めての晩餐会だそうです。お一人では寂しいだろうから、と」
言いながら、自分の声が、他人のことを話しているみたいに平らだと思った。
母はしばらく何も言わなかった。
それから、ナイフとフォークを皿の上に揃えて置いた。
「エステル。あなた、それで、何と言ったの」
「わかりました、と」
「わかりました、じゃないでしょう」
母の声が少し高くなった。
「あなたがいつもいつも叔母さまのお手伝いを先にするから、こういうことになるのよ。二年よ、二年。婚約者の隣を空けっぱなしにして。侯爵家のご嫡男が、ほかのお嬢さんを連れて歩きたくなっても……」
そこで母は口をつぐんだ。
言いすぎたと思ったのだろう。でも、言った言葉は戻らなかった。
わたしは鱒の身を一切れ口に入れた。
塩が効いていた。料理番は今日、胡桃の焼き菓子の残りを気にして、少し塩を強くしたのかもしれない。そんなことを考えた。考えていないと、何かがこぼれそうだった。
母の言うことは半分、正しかった。
正しいから、腹が立った。
「もういいだろう」
父だった。
わたしも母も、父を見た。父は新聞もない夕食の席で、自分の皿の鱒を見下ろしていた。
「エステルは、よくやっている」
劇場の三日後の朝と、同じ言葉だった。
ただ、今夜の父は、書斎へ逃げなかった。最後まで席に座って、鱒を骨まできれいに食べて、それからわたしの皿の端に寄せた骨の山を、ちらりと見た。
それだけだった。
それだけのことが、どうしてこんなに喉に来るのだろう。わたしは水を飲んでそれをやりすごした。
その夜、わたしは衣装部屋の奥から、淡い青のドレスを出してきた。
二年前、婚約が決まったときに母が仕立ててくれたものだ。
フレデリック様の隣で慈善晩餐会に出る日のために、と母は言った。絹は春の朝の空の色だった。袖口と裾に、細いレースがあしらってある。
その日は一度も来なかった。
一昨年の春も、去年の春も、このドレスは衣装部屋の奥で、薄い紙に包まれて待っていた。袖を通したのは去年の秋の夜会が一度きりだ。
わたしは裾のレースを指でなぞった。
膝のあたりに、小さな染みがある。
去年の秋の夜会で、カトリーナ様がこぼした葡萄酒の染みだ。カトリーナ様が杯を傾けたとき、隣にいたわたしの裾に、赤い滴がいくつか跳ねた。
フレデリック様は、あのとき、カトリーナ様の袖ばかり拭いていた。カトリーナ様の袖には、一滴もかかっていなかったのに。
染みは洗っても薄い茶色になっただけで消えなかった。
わたしはドレスを胸に抱えて寝台の端に座った。
絹がひんやりしていた。紙に包まれていたあいだに、衣装部屋の樟脳の匂いが移っている。鼻の奥がつんとした。
泣くのだと思った。
涙は出なかった。
かわりに、喉の奥から、変な笑いがこみあげてきた。
ふ、と息がもれた。もう一度もれた。肩が小さく揺れて止まらなくなった。
「……わたし、何をしているのかしら」
声に出してみると、少しだけ楽になった。
二年分の晩餐会のためのドレスを抱えて、晩餐会に出ない女が、寝台の端で笑っている。
おかしかった。おかしくてまた笑った。
「お嬢さま?」
扉が細く開いて、ミュゲが顔をのぞかせた。寝台を整えに来たのだ。
「笑ってらっしゃるんですか。……あ」
ミュゲの目がわたしの抱えたドレスに止まった。
「晩餐会のドレス、出したんですね! やっぱり、今日のお茶で……」
言いかけてミュゲは口を閉じた。
わたしの膝の上の手を見たのだ。手のひらに、爪の跡が四つ、新しく赤く残っていた。
ミュゲは扉を閉めて、わたしの隣に、そっと腰を下ろした。いつもは声の大きい侍女が、何も訊かなかった。
しばらく、二人で黙って座っていた。
廊下の燭台の芯が、じじ、と小さく鳴った。
「……ミュゲ。この染み、隠せるかしら」
わたしはドレスの裾を広げて見せた。
ミュゲは膝の染みに顔を近づけて、指でつまんで明かりに透かした。それから、ぱっと顔を上げた。
「隠せます。上から、新しいレースを縫いつけます。裾のと同じ柄のを、仕立て屋に端切れが残ってるはずです。いつまでにですか」
「来月の、慈善晩餐会までに」
言ってから自分で驚いた。
控えの間に、青い絹は要らない。
裏方は裏方の灰色の服で、名札の束を抱えて冷たい床に膝をつく。去年も一昨年もそうだった。今年もそうなるはずだった。
わかっていて、わたしはミュゲを止めなかった。
「どなたの隣でお召しになるんです?」
ミュゲが訊いた。
わたしは答えられなかった。
ミュゲはそれ以上訊かずに、ドレスをそっとわたしの膝から取り上げた。腕にかけて、裾の染みのところを、親指で一度だけ撫でた。
「わたし、縫い物だけは、お屋敷でいちばんですから」
ミュゲが出ていったあと、部屋の中が急に広くなった。
寝台に横になっても、眠れなかった。
天井の梁を見上げながら、考えた。
二年間、譲ってきた。柱の陰の椅子も、花冠も、遠乗りの先頭も。
譲るたびに、いつか振り向いてもらえると思っていた。黙って譲っていれば、いつか誰かが、わたしの譲ったものに気づいてくれると。
振り向いてもらえなかったのは、わたしが黙って譲ったからだ。
黙っている人の気持ちは、誰にも見えない。
名札の右下の点と同じだ。五年間、打ちつづけて誰も訊かなかった。訊かれないように小さく打っていたのはわたしだ。
それに。
わたしは寝返りを打った。
わたしのほうも、晩餐会のたびに、あの人の隣を空けてきた。
控えの間の仕事がある。叔母様が困る。わたしにしかできない。そう言って。
本当はフレデリック様の隣より、控えの間の床のほうが楽だったから。
夕食の席で、母の言葉に腹が立ったのはそのせいだ。母はわたしが自分にも言わずにきたことを、皆の前で言ったのだ。
後回しにしてきたのは、たぶん、お互いさまだ。
そう思うと、胸の奥が、少しだけ苦くなった。苦いまま、どこにも流れていかなかった。
だったら。
見えるようにすればいい。
大声で泣くのでも、怒鳴るのでもなく。母のように、言ってはいけないことを言ってしまうのでもなく。
わたしにしかできないやり方で。
わたしは寝台を抜け出して机の前に座った。
燭台に火を入れた。手提げの中に、いつも持ち歩いている白い名札の束がある。急な欠員が出たとき、その場ですぐに書けるように。
一枚取った。
ペンをインク壺に浸した。
カトリーナ・ゴドウィン様。
そこでペン先が止まった。
頼まれたのはフレデリック様の隣に、カトリーナ様の席を用意すること。
慈善晩餐会の名札には、婚約者でも家族でもない同伴者の場合、名前の前に「ご同伴」と書き添える決まりがある。去年も、ほかの家のご同伴の方々の札に、わたしは何十枚もそう書いた。
わたしはカトリーナ様の名前の上に、小さく書き足した。
ご同伴。
ご同伴、カトリーナ・ゴドウィン様。
インクが乾いていくのを、じっと見ていた。
何も違えていない。決まりのとおりだ。フレデリック様がお茶の席で言ったとおりだ。
この札が長卓の二列目に置かれる。侯爵ご夫妻の並びに。婚約者のいる嫡男の隣に。二百人の目の前に。
侯爵夫人はきっとこの札を読む。読んで、息子の隣にいるのが誰か、何と書かれているかを知る。
フレデリック様は、ご両親に話していない。わたしはそれを、ほとんど知っている。
知っていて、書いた。
胸の奥で鈴が鳴った。
澄んだ音ではなかった。茶会の日に、バロー子爵夫人の札を置いたときと同じ、少しいやな響きのまじった音だった。あのときよりも、ずっと大きかった。
気持ちがよかった。
気持ちがいいと思った瞬間、胃の底から、酸っぱいものがせり上がってきた。わたしは口もとを手で押さえてしばらく動けなかった。
夕食の鱒の塩の味が、喉の奥に戻ってきた。
これは仕返しだろうか。
頼まれたとおりにしただけ、と言えば、誰も咎められない。叔母も、侯爵ご夫妻も、フレデリック様も。そういう札を、わたしは今、書いたのだ。
わたしは札の右下に、ペン先を落とした。
点が一つ、紙に沈んだ。
いつもの点だ。いつもと同じ大きさの。
もう一枚、白い名札を取った。
今度は自分の名前を書くつもりだった。
ペンを浸した。
エ、と一画目を引いた。
そこで手が動かなくなった。
この札を、どこに置くのだろう。
フレデリック様の隣には、もうカトリーナ様の札がある。控えの間には、名札を置く卓がない。裏方は名札を持たない。
お父様とお母様の並びの端に、置けばいい。伯爵家の娘が両親と並んで座る。何もおかしくない。
そう思って、モンテール伯爵家の並びを頭の中に浮かべた。長卓の四列目。父と、母と、その隣。
婚約者に連れてきてもらえなかった娘が、両親の隣に座っている。二百人がそれを見る。ハーコート家の卓からも、見える。
ペン先から、インクがひと粒、落ちた。
エ、の一画目の横に、黒い丸がじわりと広がった。
わたしはペンを置いた。
書きかけの札を、燭台の明かりにかざした。一画目と、黒い染みだけの札。
ご同伴の札は迷わずに書けた。自分の札は一画しか書けない。
ミュゲは今ごろ、仕立て屋の端切れのことを考えながら眠っているのだろう。来月までに、あの青いドレスの染みは、新しいレースの下に消える。
消えたドレスを着て、わたしは、どの椅子に座るのだろう。
燭台の火が書きかけの札の染みを、ゆらゆらと照らしていた。
わたしはその札を、捨てられなかった。ご同伴の札と重ねて手提げの底にしまった。
◆アルベルト
翌朝、まだ朝食の盆も下げないうちに、ヴァランスが一通の返書を持ってきた。
「式部から、作業部屋へ回す前のものを借りてまいりました。昨夕遅くに出し直されたそうです」
ハーコート家から何か届いたら見せろ、と言いつけておいたのはアルベルト自身だった。
ハーコート侯爵家の封蝋だった。
アルベルトは封を開けた。
慈善晩餐会の、出席の返事だった。侯爵ご夫妻、ご嫡男フレデリック殿。
同伴者の欄に、名前が書いてあった。
カトリーナ・ゴドウィン嬢。
アルベルトはその一行を三度読んだ。
読みまちがえようのない字だった。若い男の、勢いだけで書いた字。最後の文字が紙の端に向かって跳ねている。
昨日の午後、作業部屋の見取り図で見た白い札が、頭に浮かんだ。婚約者の隣の、何も書かれていない札。
あそこに、この名前が入る。
あの人の名前ではなく。
アルベルトは返書を卓の上に置いた。指先で、卓の端を、とん、と叩いた。
もう一度、とん、と叩いた。
見取り図の上には、もう一枚、白い札があった。自分の左隣の、王妃の身内の席。
あの人は今年もまた、控えの間に戻るのだろう。婚約者の隣を取られて、両親の隣に座ることもできずに。冷たい床に膝をついて、冷めた鴨を立ったまま食べる。
戻らせない方法を、アルベルトは知っていた。
自分は今年の慈善晩餐会の主催だ。
そう思った途端、胸の奥のぬるりとしたものが、また動いた。昨日よりも、はっきりと。
あの人が傷ついたから、隣に呼べる。
婚約者に踏まれたから、自分の番が来る。
アルベルトは目を閉じた。自分の考えの、底のほうの匂いがした。腐りかけた果物の、甘い匂いだった。
「殿下」
ヴァランスがいつもの平らな声で言った。
「本日は、作業部屋へ、ついでのご用がおありでしょうか」
アルベルトは目を開けた。
侍従は窓の外を見ていた。主人の顔を見ないようにしているのだと、わかった。
上着の内ポケットの古い名札を、指先で一度だけ押さえた。
「……ある」




