第4話 カトリーナが寂しがるから
フレデリック様から使いが来たのは、劇場の夜から十日目の朝だった。
今日の午後、伺います。
短い走り書きだった。ほかには何も書いていなかった。カトリーナ様と一緒に、とも書いていなかった。
「お嬢さま、それ、三回目です」
ミュゲがわたしの髪を梳きながら言った。
「何が」
「その紙を読むの。鏡ごしに見てました。三回ひっくり返して、三回とも同じところを読んでました」
「裏に何か書いてないか、見ていただけよ」
「書いてありました?」
「書いてなかったわ」
ミュゲは鏡の中でにんまりと口の端を上げた。それから櫛を置いて、わたしの耳もとに顔を寄せた。
「料理番に、胡桃の焼き菓子をお願いしてきましょうか。フレデリック様のお好きな」
「……頼んでいいかしら」
「もう頼んであります!」
ミュゲは胸を張って部屋を飛び出していった。廊下の向こうで、料理番を呼ぶ大きな声がした。
わたしは鏡の中の自分を見た。
頬が少し赤い。ばかみたいだ、と思った。婚約して二年の相手が、一人で家に来るというだけで。
でも、二年で初めてのことだった。
今日、言おう。
午前のあいだじゅう、わたしは刺繍の枠を膝にのせて、針を一度も通さずに、そればかり考えていた。
今年の慈善晩餐会は、控えの間には入りません。叔母様にもお願いしてあります。あなたの隣に座ります。
頭の中で何度も言ってみた。三度目あたりで少し声が震えた。五度目で、ふと、別のことを考えた。
今日はカトリーナ様がいない。
そのことがうれしかった。
うれしいと思った自分に、針の先で指を突かれた気がした。カトリーナ様は母君を亡くされた方だ。いないことを喜ぶなんて。
それでも、うれしかった。
わたしは刺繍の枠を脇に置いて、窓の外の庭を見た。
遠乗りのことを思い出した。去年の秋。郊外の丘まで三頭で馬を走らせた日。
フレデリック様の栗毛と、カトリーナ様の白い牝馬が並んで先を行って、わたしの鹿毛はその後ろについた。前の二頭が蹴り上げる土ぼこりが、ずっとわたしの顔に当たっていた。丘の上に着いたとき、口の中がじゃりじゃりした。
二人は丘の上で、遠くの川を指さして笑っていた。わたしは水筒の水で口をすすいで、草の上に吐いた。
春の花祭りのことも思い出した。
広場に花冠の店が並んでいて、フレデリック様はカトリーナ様のために、白と桃色の小さな花冠を選んだ。カトリーナ様はなかなか決められなくて四つも頭にのせてみた。そのあいだ、わたしは二人の荷物を抱えて店の横に立っていた。
代金を払いながら、フレデリック様が振り返った。
「エステル、君も要るか」
「いいえ」
わたしはそう答えた。
どうして、いいえと言ったのだろう。今でもときどき考える。
欲しかった。でも、カトリーナ様の花冠のついでに買ってもらう花冠は、欲しくなかった。だから、いいえと言った。
言ってから、ほんの少し、フレデリック様が残念がってくれることを期待した。
フレデリック様は、そうか、と言って銀貨を店の主に渡した。それきりだった。
わたしの「いいえ」は、そのまま本当の「いいえ」になった。
婚約が決まった春には、花をもらったことがある。
ハーコート家の庭で、両家の顔合わせがあった日だ。帰りぎわに、フレデリック様が庭の白い花を一輪、手で折ってわたしにくれた。茎の折り口がつぶれていて、緑の汁がわたしの手袋に染みた。
「母上が、何か渡せってうるさいんだ」
照れくさそうに、そう言った。
あの手袋は今も衣装部屋の引き出しにある。緑の染みは洗っても落ちなかった。
午後のお茶は客間で二人きりだった。
本当に、二人きりだった。
フレデリック様は一人で馬車を降りて、一人で客間に入ってきて一人で長椅子に座った。向かいの椅子に座ったわたしは、胸の前で両手を組んでいたことに気づいて、そっと膝に下ろした。
卓の上には、胡桃の焼き菓子が皿に山になっていた。料理番が張り切りすぎたのだ。
「ずいぶんあるな」
「料理番が、フレデリック様がいらっしゃると聞いて」
「そうか。ありがたい」
フレデリック様は紅茶を一口飲んで窓の外を見た。
わたしも紅茶を飲んだ。熱くて舌の先が少しひりついた。
何から話せばいいのだろう。
劇場の夜のお礼。果実水のお礼。そこから、晩餐会の話に持っていけばいい。わたしは頭の中で言葉を一つずつ並べた。名札を並べるのと同じように。
「来月の慈善晩餐会のことなんだが」
先に言ったのはフレデリック様だった。
わたしは紅茶の茶碗を受け皿に戻した。かちん、と思ったより大きな音がした。
晩餐会。
フレデリック様のほうから。
笑いそうになった。わたしが言おうとしていたのと同じことを、この人も考えていたのだ。今年は隣に座ってほしいと、言いに来てくれたのだ。
胸の奥で、鈴がひとつ、鳴りかけた。
「今年は、カトリーナを連れていこうと思う」
焼き菓子に伸ばしかけた手が、止まった。
「……カトリーナ様を、ですか」
「ああ。あいつ、母君が亡くなってから、あの晩餐会には一度も出ていないんだ。母君が生きていたころは、毎年、母君と一緒に行っていたのに。今年は喪も明けたし、行きたいって言うんだよ」
鈴の音は鳴らなかった。
わたしは止まった手を、膝の上に戻した。
「それはよろしいと思います。カトリーナ様のお父君にお願いして招待状を……」
「いや、そうじゃなくて」
フレデリック様は紅茶の茶碗を置いて、わたしを見た。
「僕が、カトリーナの同伴者として行く」
客間の時計の振り子が、こち、こち、と鳴っていた。
慈善晩餐会では婚約者のいる者は婚約者を同伴するのが決まりだ。
去年も一昨年も、わたしは女官長の手伝いとして、王妃さまのお許しをいただいて控えの間に残った。フレデリック様はご両親と並んで座り、その隣は詰められた。フレデリック様の隣に、わたしの名札が置かれたことは、一度もない。
今年こそはと思っていた。
叔母に頼んで、控えの間をルフェーヴル夫人に引き継ぐ手はずまで整えた。フレデリック様の隣には、まだ名前を書いていない白い札が一枚、置いてある。
今日のお茶の席で、それを打ち明けるつもりだった。胡桃の焼き菓子は、そのために用意したのだ。
「では、わたしは」
声がかすれた。
「君は、今年も裏方だろう? 去年も一昨年も、ベルモント夫人の手伝いがあるって、僕の隣には来なかったじゃないか」
言ったことはある。
そして、そのとおりだった。
「去年なんか、ロランに、また婚約者に置いていかれたのかって笑われたよ。まあ、笑い話だけどさ」
フレデリック様は、軽く肩をすくめた。
わたしはその言葉を聞いていなかった。
正確には、耳には入っていた。入っていたけれど、胸のどこにも引っかからずに、するりと抜けていった。そのときのわたしの胸は、別のことでいっぱいだった。
二年、わたしはこの人の隣を空けてきた。だから今年こそ、と言うつもりだったのに、その言葉は喉の手前で止まって出てこなかった。
今さら、今年は隣に座ります、と言ったら。
この人は困るのだ。もうカトリーナ様と約束してしまったから。
「カトリーナが寂しがるから。ひとりで行かせるわけにはいかないだろう? 頼むよ、エステル。君はわかってくれると思っていた」
わかってくれると思っていた。
その言葉が胸の真ん中に、冷たく刺さった。
冬の朝、井戸の釣瓶の鎖をうっかり素手でつかんだときに似ていた。冷たいのに、焼けるように痛い。
わかってきた。二年間ずっと。
柱の陰の椅子に座って。遠乗りでは二人の馬の後ろで土ぼこりをかぶって。花祭りでは二人が花冠を選ぶあいだ、荷物を抱えて立っていた。
わかってきたから、こうなったのだ。
喉の奥が熱くなった。目の奥も熱くなった。ここで泣いたら、きっとフレデリック様は眉を下げてため息をつく。困ったな、エステル、と言う。
わたしは膝の上でぎゅっと両手を握った。爪が手のひらに食いこんだ。劇場の夜につけた三日月の跡が、まだ少し残っているところに。
それから、ふと思った。
慈善晩餐会の席次を決めるのはわたしだ。
フレデリック様は知らない。知らないまま、わたしに頼んでいる。頼んでいる相手が、自分の座る椅子の場所を、自分の両親の座る椅子の場所を、カトリーナ様の座る椅子の場所を、全部決める人間だということを。
「……侯爵ご夫妻は、ご存じなのですか」
そう訊こうとした。
口を開いて、閉じた。
訊けば、フレデリック様はきっと、まだ話していないと答える。そうしたら、わたしは「では、ご夫妻にお話しになってから」と言わなければならなくなる。
わたしは訊かなかった。
「……わかりました」
声は震えなかった。自分でも驚いた。
「カトリーナ様の席も、わたしがご用意いたします。フレデリック様のお隣に」
「本当か! さすがエステルだ。助かるよ」
フレデリック様は、ほっとしたように肩を落として笑った。
「父上には、僕から話しておく。母上はまあ、少しうるさいかもしれないけど」
話しておく、とこの人が言ったことで、本当に話してあったことが、これまでにいくつあっただろう。
わたしは数えなかった。数えようと思えば、すぐに数えられた。
フレデリック様は、胡桃の焼き菓子を一つつまんだ。
「うまいな、これ」
「料理番の自慢です」
わたしは紅茶をひと口飲んだ。
さっき舌をひりつかせた紅茶は、もう少しぬるくなっていた。
フレデリック様は、一時間もしないうちに帰っていった。
「カトリーナに、いい知らせを持っていってやらないと」
玄関で外套を受け取りながら、そう言った。
わたしは玄関の石段の上で、馬車が門を出ていくのを見送った。春の風がまだ少し冷たかった。
客間に戻ると、卓の上に、胡桃の焼き菓子が山のまま残っていた。フレデリック様が食べたのは二つだけだった。
一つは半分かじったまま、皿の端に置いてあった。
わたしはその半分の焼き菓子を、指でつまんだ。
胡桃の欠片がぽろりと卓の上に落ちた。
口に入れた。甘くて、香ばしくて少し湿気ていた。料理番の自慢の味だった。
喉を通るとき、途中で一度つかえた。
わたしは紅茶でそれを流しこんだ。
客間の窓の外で、ミュゲが洗濯物を取りこみながら、大きな声で歌っていた。わたしが二人きりのお茶をうまくやったと、思っているのだ。
あとでどう言えばいいのだろう。
わたしは卓の上に落ちた胡桃の欠片を、一つずつ指先で拾って受け皿の上に集めた。
八つあった。
◆アルベルト
同じ日の午後、アルベルトは作業部屋の前を通りかかった。
通りかかったことにした。王妃からの言伝を女官長に届けるのは本当なら侍女の仕事だ。ヴァランスが無言で言伝の紙を差し出してきたのを、アルベルトは受け取って自分で持ってきた。
作業部屋には、誰もいなかった。
ベルモント夫人は王妃のところへ行っているのだろう。北向きの窓から、薄い光が卓の上に落ちていた。
卓の上に、大広間の見取り図が広げてあった。今年の慈善晩餐会の。
主催の卓の真ん中に、自分の名札がある。その右に、ガルシア将軍。
四年目だ。アルベルトは名札の右下の点を、見なくても知っていた。
自分の左隣には、何も書いていない白い札が置いてあった。王妃の身内の席。今年はまだ決まっていないらしい。
アルベルトは見取り図の上を目で追った。
長卓の二列目。ハーコート侯爵家の並び。
侯爵、侯爵夫人、嫡男。三枚とも、右下に点がある。
その嫡男の隣に、もう一枚、白い札があった。
何も書いていない。点もない。
アルベルトはしばらくその白い札を見下ろしていた。
あの人は二百枚の名札を全部書いて、全部に点を打って自分の札だけ書いていない。
婚約者の隣に、自分の名前を書けずにいる。
胸の奥で、何かが、ぬるりと動いた。
うれしい、という形をしていた。
アルベルトは卓の端を指でとん、と叩いた。
あの白い札に、別の名前が入ればいい。あの人の名前ではない、別の誰かの名前が。
そう思った自分の舌の根に、苦いものがじわりと広がった。
人の婚約者の隣の空席を見て喜んでいる。三十近い男が。王弟が。
アルベルトは言伝の紙を卓の端に置いた。白い札には指一本触れなかった。
作業部屋を出ると、廊下でヴァランスが待っていた。
「ご用は、お済みで」
「済んだ」
ヴァランスは何も言わずに一礼した。
その一礼がいつもより半拍だけ長かった。




