第3話 一年前の控えの間
劇場の夜から五日がたって、慈善晩餐会の招待状の返事が届きはじめた。
作業部屋の卓の端に、封蝋を割った返書が積まれていく。叔母はその束を一通ずつ開けて出席と欠席を読み上げる。わたしはそれを聞きながら、大広間の見取り図の上に名札を置いていく。
「ラファイエ伯爵ご夫妻、ご出席。ご長男もご一緒」
「長卓の三列目に」
「シャロン子爵、ご欠席。腰を痛められたそうよ」
「では、奥様おひとりで。お隣に、お話し好きの方を」
返書の封蝋は家ごとに色が違う。赤、緑、黒、くすんだ金。叔母が割るたびに、蝋のかけらが卓の上にぱらぱらと散った。わたしは指先でそれを払いながら、頭の中の大広間に人を座らせていく。
長い卓が五列。その奥の一段高いところに、主催の卓。
主催の卓の真ん中に、王弟アルベルト殿下の名札を置いた。
その右隣に、ガルシア将軍の名札。
四度目だった。殿下の右に将軍を置くのは。
札を置いた指が名札の角から離れなかった。
あの方は今年もこの席で、黙ってスープを飲むのだろう。疲れた肩を少しだけ下げて。
そう思ったら、胸の奥で、鈴が鳴るのとは別のところが、ことんと小さく動いた。わたしはあわてて指を引っこめた。
「主催の卓の左は」
「王妃さまのお身内の席でしょう。今年はまだ、どなたをお座らせになるか、王妃さまがお決めになっていないの。空けておきなさい」
わたしは殿下の左隣に、何も書いていない名札を一枚置いた。
白い札だ。点もない。
「叔母様。お願いがあります」
返書の束が半分ほど減ったところでわたしは言った。
自分の声が思ったより大きく出て少し驚いた。叔母が封蝋を割る手を止めた。
「今年の慈善晩餐会の控えの間を、どなたかにお願いできないでしょうか」
叔母は眼鏡を外した。
考えるとき、叔母はいつもそうする。外した眼鏡の弦を折りたたんでまた開く。かちり、かちりと、小さな音がした。
「フレデリック殿の隣に座るのね」
「……はい」
「やっとですか」
叔母は眼鏡をかけ直した。
「二年、あなたは晩餐会のたびに控えの間に逃げこんでいました。わたくしが頼んだからではありませんよ。あなたが自分から残ると言ったのです」
「逃げこんだわけでは」
「では、何ですか」
わたしは返事ができなかった。
逃げこんだのではない。控えの間には、わたしにしかできない仕事がある。遅れて着いたお客様の席を詰め直すのも、急に中座なさった方のあとを埋めるのも。
そう言い返そうとして、喉のところで言葉が止まった。
フレデリック様の隣に座るより、控えの間の冷たい床に膝をついているほうが、気が楽だった。それはたぶん、本当だった。
「ルフェーヴル夫人に頼みましょう」
叔母は返書をもう一通、手に取った。
「あの人なら、二の間の席割りまでできます。あなたが下書きを全部作って渡せば、ですけれど」
「作ります。全部」
「知っていますよ」
叔母は封蝋をぱきりと割った。それから、手紙に目を落としたまま、何でもないことのように言った。
「それから、殿下から、今年もご注文がありました」
「ご注文?」
「今年と同じ考えで組んでくれ、と。三年前の晩餐会のあとから、毎年、同じことをおっしゃいます。誰を隣にしろとはおっしゃらない。同じ考えでとだけ」
わたしは手に持っていた名札を、取り落としそうになった。
三年前。わたしが初めて主催の卓を任された年。
「……叔母様は、殿下に、何と」
「何も申しあげていません。女官長の務めでございます、と言っただけです」
叔母は手紙を畳んだ。
「あなたのことを申しあげたら、あなたは浮かれて手もとが狂うでしょう」
「狂いません」
「狂いますよ。今、名札を落としかけたじゃありませんか」
わたしは名札を握り直した。
頬が熱かった。叔母のほうを見られなくて、見取り図の上の、殿下の名札ばかり見ていた。
同じ考えで。
三年間、あの方は顔も知らないわたしの考えを、毎年、もう一度と頼んでいたのだ。
去年の春の、開宴の一時間前のことを、わたしは今でもはっきり思い出せる。
控えの間は大広間の裏にある、窓のない細長い部屋だった。燭台が二つと、名札を広げる小さな卓が一つ。その卓は二の間の席割りの見取り図で埋まっていた。
だからわたしは主催の卓の名札を床に広げていた。
石の床は春でも冷たい。スカートの布を一枚通して、膝の皿にじんと冷えが沁みてくる。
その年は格の都合で、殿下の隣にある公爵が入っていた。叔母が王妃さまと相談して決めた席でわたしは口を出せなかった。
その公爵の家から、使いが来た。急な熱で、今夜は来られない、と。
殿下の隣が一つ空く。公爵の向かいの夫人の席も、動かさなければならない。夫人は公爵の話し相手として置かれていたから、相手がいなければ、一晩じゅう黙って座っていることになる。
一枚動かすと、三枚が動く。
わたしは名札を一枚ずつ床に並べ直した。夫人を少し下の卓の、刺繍の好きな伯爵夫人の向かいへ。そこにいた若い男爵を、夫人のいた席へ。
そして殿下の隣には、一昨年もその前の年もそうしたように、ガルシア将軍の札を戻した。
戻した瞬間、鈴が鳴った。
わたしはほっとして床に手をついた。手のひらに石の冷たさが貼りついた。
「……君が、これを?」
頭の上から、低い声がした。
顔を上げると、扉のところに、背の高い男の人が立っていた。黒に近い紺の礼服。胸に、王家の紋章の入った銀の留め具。
王弟、アルベルト殿下だった。
わたしは慌てて立ち上がろうとして、膝の上にのせていた名札の束を、床じゅうにばらまいた。
「も、申し訳ございません」
「いや、いい。驚かせたのはこちらだ」
殿下は扉を閉めて床にかがんだ。
王弟殿下が控えの間の床に膝をついている。礼服の裾が石の床に触れている。わたしは止めようとして、どう止めればいいのかわからなかった。
殿下は散らばった名札を、一枚ずつ拾い集めてくれた。
拾いながら、ときどき手が止まった。
札を燭台の明かりのほうへ傾けて右下の隅を見ている。
わたしの心臓がどくんと跳ねた。
点だ。最後の文字の右下に打った、針の先ほどの点。殿下はそれを見ている。
見ているはずがない。あんな小さな点、誰も気づかない。五年間、誰も気づかなかった。
殿下は何も言わなかった。拾った札を揃えて、それから一枚だけを指でつまんで首をかしげた。
「今年も、ガルシア将軍が私の隣か」
「はい。あの……公爵様が、いらっしゃれなくなって。それで、元に戻しました」
「将軍は、食事中に一言も喋らない人だ」
「存じております」
わたしは名札を胸に抱えたまま言った。言ってから、王弟殿下にずいぶん生意気な口をきいたと気づいた。でも、言いはじめたら止まらなかった。
「殿下は、晩餐会の前に、いつも挨拶回りでお疲れです。開宴までに、百人近くと握手をなさいます。お食事のときくらい、静かにしていただきたいと思って、三年前から、この晩餐会では将軍のお隣にしてまいりました。将軍なら、殿下に話しかけません」
殿下はしばらく黙っていた。
燭台の火が殿下の頬の上で小さく揺れた。
それから、殿下はふっと短く息を吐いた。笑ったのだと、少したってから気づいた。笑わない王弟、と宮廷で呼ばれている人の、笑い方だった。
「なるほど。ここ何年か、なぜか、この晩餐会の食事のときだけ楽だと思っていた」
殿下は名札の束をわたしの手に戻した。指先がわたしの指の腹の、インクで黒くなったところに一瞬だけ触れた。
殿下は立ち上がって扉に手をかけた。そこで一度だけ振り返った。
「床は冷える。膝に何か敷くといい」
扉が閉まった。
わたしは名札の束を抱えて、しばらく床に座りこんでいた。
名前を、訊かれなかった。
訊かれなかったことに、ほっとした。ほっとしたあとで、胸の底のほうが少しだけしぼんだ。
その夜も、わたしは控えの間で宴の終わりまで働いた。裏方に下げられてくる冷めた鴨を、名札の束を片手に、立ったままつまんだ。皿の上で白く固まった脂が、舌の上でなかなか溶けなかった。
壁の向こうの大広間で、殿下は今ごろ、温かいスープを飲んでいる。
そう思いながら食べる冷めた鴨は、いつもより少しだけ、おいしかった。
そのことを、わたしはフレデリック様に話そうとしたことがある。
晩餐会から五日ほどあとの、ハーコート侯爵家の庭だった。薔薇の棚の下を、フレデリック様とカトリーナ様が並んで歩き、わたしがその二歩後ろを歩いていた。
カトリーナ様はまだ喪の黒を着ていた。黒い袖が薔薇の若い緑の中でよく目立った。
「フレデリック様。先日の慈善晩餐会で、控えの間に、王弟殿下がいらしたのです」
わたしはフレデリック様の背中に向かって言った。
「晩餐会?」
フレデリック様が、半分だけ振り返った。
「ああ、あの晩餐会か。君がいないから、僕は父上と母上のあいだに、子どもみたいに座らされてさ。ロランのやつには、婚約者に置いていかれた男だって……」
「フレディ、蜂!」
カトリーナ様が黒い袖を振りまわして飛びのいた。
フレデリック様はすぐにそちらへ駆け寄った。上着を脱いで、カトリーナ様の頭の上をばたばたと払った。蜂は一匹、のんびりと薔薇の向こうへ飛んでいった。
「刺されてないか」
「平気。びっくりしただけ」
二人はそのまま、薔薇の棚の奥へ歩いていった。
わたしの話はそこで終わった。続きを訊いてくれる人は、いなかった。
わたしは薔薇の棚の下に立って二人の背中を見ていた。
話しても、聞いてもらえない。
そう思った。そう思うのは少し気持ちがよかった。自分は悪くないと、思えたから。
フレデリック様がロラン様に何と言われたのか、そのとき、わたしは訊かなかった。訊こうとも思わなかった。蜂のせいで途切れた話は、わたしの話のほうだけだと思っていた。
「エステル。手が止まっていますよ」
叔母の声で、わたしは見取り図の上に戻った。
返書の束はもう残り少なかった。
「ハーコート侯爵ご夫妻、ご出席。ご嫡男もご一緒。……同伴者の欄は、空いていますね」
叔母は返書をわたしのほうへ滑らせた。
同伴者の欄。去年も一昨年も、そこは空いていた。わたしが控えの間に残ると言ったから、フレデリック様は空けたまま返事を出していた。
今年もまだ、空いている。
お茶の席で言えばいい。今年は隣に座ります、と。そうすれば、フレデリック様が返書を出し直してくれる。
長卓の二列目の、ハーコート侯爵家の並びに、名札を置いていく。侯爵。侯爵夫人。フレデリック・ハーコート様。
その隣に、わたしは新しい名札を一枚取った。
ペンをインク壺に浸した。
エステル・モンテール。
書けばいい。何千枚も書いてきた。今さら一枚、増えるだけだ。
ペン先が紙の上で止まった。インクがひと粒、ペン先にふくらんで落ちそうになった。わたしは慌ててペンを壺の縁で拭った。
自分の名前を、どう書けばいいのか、わからなかった。
何千枚も書いた。誰の名前も、その人がいちばん楽に座れる場所を思い浮かべながら書いた。
自分がいちばん楽に座れる場所が、どこなのか。それを思い浮かべようとすると、柱の金色の剥げが浮かんだ。
わたしはペンを置いた。
何も書いていない名札を、フレデリック様の名札の隣に置いた。
お茶の席で言ってから書こう。言ってから。
見取り図の上に、白い札が二枚になった。一枚は殿下の左隣。一枚はフレデリック様の右隣。
どちらにも、点はない。
叔母が眼鏡の奥から、その二枚をちらりと見た。何も言わなかった。
わたしは指先についた封蝋のかけらを、手巾で拭いた。赤い蝋がインクの黒の上に小さくこびりついて、なかなか取れなかった。
◆アルベルト
去年の春、開宴の一時間前に、熱を出した公爵の使いがアルベルトのところにも来た。
隣が空く。誰が埋めるのだろう、と思った。思ったら、足が勝手に大広間の裏へ向かっていた。
ヴァランスが後ろで何か言ったが、聞こえなかった。
控えの間の扉は少しだけ開いていた。
隙間から、床に膝をついた娘が見えた。名札を一枚ずつ、石の床の上で動かしている。迷わない指だった。一枚置くたびに、肩がほんの少しだけ上下した。
三年前、扉の隙間からちらりと見た、インクで黒ずんだ指先だった。
娘がアルベルトの右隣に将軍の札を置いて、小さく息を吐いた。
声をかけたのはそのときだ。
ばらまかれた名札を拾いながら、アルベルトは一枚ずつ、隅を燭台にかざした。
どの札にも、点があった。
上着の内ポケットの、角の丸くなった一枚と、同じ点だった。
膝が石の床に冷やされていくのがわかった。それでも、アルベルトはなかなか立ち上がれなかった。
名を訊けばいい。王弟が女官の手伝いに名を訊いて、何の不思議がある。
訊かなかった。訊いてしまえば、この人が本当にいることになる。いると決まってしまえば、自分はもう、ただ毎年同じ注文をつけるだけの男ではいられなくなる。
控えの間を出てから、アルベルトはヴァランスに言った。
「女官長の手伝いで、控えの間に入っている娘がいる。誰か調べてくれ」
ヴァランスは翌朝までに調べてきた。
「女官長どのの姪御で、モンテール伯爵家のご長女、エステル嬢と申されます。御年十九。ハーコート侯爵家のご嫡男と、婚約なさって一年でございます」
一年、とアルベルトは口の中で繰り返した。
一年なら、まだ。
そこまで考えて、アルベルトは自分の頬を手のひらで押さえた。指先が冷たかった。
まだ、何だというのだ。
その日、アルベルトは一日じゅう、誰とも口をきかなかった。笑わない王弟の機嫌が悪いと、侍女たちがひそひそ言っていた。
機嫌が悪いのではなかった。自分の胸の内側が、ひどく気持ち悪かった。
その夜、アルベルトは内ポケットの名札に一度も触れなかった。上着ごと椅子の背に掛けて、そちらに背を向けて眠った。




