第2話 名札を並べる指
「エステル、あなた、劇場でずっと柱を見ていたんですって?」
劇場の夜から三日後の朝食の席で、母がパンにバターを塗りながら言った。
バターナイフが焼いたパンの表面をがりがりと削る。母は何かを言いにくいときほど、バターを厚く塗る。
「ハーコート侯爵夫人から聞いたのよ。昨日のお茶会で。あちらの奥様、桟敷の向かいの席にいらしたんですって」
「……柱の陰の席でしたから」
「だったら、柱の陰からでも、笑っていればいいのよ。婚約者が振り返ったときに、ちゃんと笑っていなさい。あなたはいつも、何を考えているのかわからない目をして座っているから」
わたしは匙を持つ手を止めた。
何を考えているのかわからない。
考えていたことを母に話したら、どうなるだろう。カトリーナ様のドレスの色は夜会向きではない、と。婚約者は席の並べ方も知らない人だ、と。
話せるわけがなかった。
「侯爵家に嫁ぐのよ、エステル。あちらはうちよりずっと格が上なの。少しくらい譲っても、嫁いでしまえば、あなたが女主人なんだから」
母はバターで重たくなったパンを、皿の上に置いた。一口も食べずに。
向かいの席で、父が、新聞を一枚めくった。
「……あなたも、何か言ってくださいな」
「うん」
父は新聞から目を上げずに言った。
「エステルは、よくやっている」
父の言葉はそこで終わった。父はそのまま新聞を畳んで、紅茶を一息に飲み干して書斎へ行ってしまった。古い文書の匂いのする書斎へ。
母が小さくため息をついた。
わたしは冷めかけたスープを一匙すくった。表面に、薄く脂の膜が張っていた。匙の先で破ると、ぬるい湯気が少しだけ上がった。
「お嬢さま! 叔母さまからお使いです!」
朝食のあと、侍女のミュゲが、手紙を振りまわしながら階段を駆け上がってきた。十七の、声の大きな侍女だ。
「王妃さまの午後のお茶会で、急にお一人お休みになったそうです。すぐに作業部屋へ来てほしいって」
「どなたが?」
「ええと……ロシュ伯爵夫人です。あちらのお嬢さまのご婚約が破談になって、今朝から寝こんでいらっしゃるとか」
わたしは外出用の手袋をはめながら、頭の中の名簿をめくった。
ロシュ伯爵夫人。王妃さまの午後のお茶会。招待客は十六人。伯爵夫人の席は窓ぎわの小卓の二番目。隣はバロー子爵夫人と、メルシエ男爵夫人。
伯爵夫人が抜ければ、その二人のあいだが空く。
バロー子爵夫人とメルシエ男爵夫人は、去年の冬から口をきいていない。娘の嫁ぎ先をめぐって、夜会の真ん中で言い合いになったからだ。あいだに伯爵夫人という大きな壁を置いて、やっと隣に並べておけた二人だった。
壁が抜ければ、二人は、肩を並べて座ることになる。王妃さまの目の前で。
「ミュゲ、馬車を」
「もう表に回してあります!」
ミュゲはわたしのショールを広げて肩にかけてくれた。
「お嬢さま、これって、王妃さまのお茶会の席をお嬢さまが決めるってことですよね。すごいですよね。王妃さまですよ」
「叔母さまのお手伝いよ」
「でも、決めるのはお嬢さまなんでしょう?」
わたしは返事をしなかった。
ミュゲの言うとおりだった。決めるのはわたしだ。でも、王妃さまのお茶会の席次表に、わたしの名前が書かれることはない。
王宮の奥の、女官たちが使う作業部屋は、春なのに冷えていた。
北向きの窓が一つと、大きな卓が一つ。卓の上に、お茶会の部屋の見取り図と、十六枚の名札が並んでいる。叔母のベルモント夫人は、朝の謁見の支度で手が離せないと、走り書きの紙が一枚だけ残されていた。
あとは任せます。昼の鐘までに。
わたしは手袋を外して卓の前に立った。
窓ぎわの小卓の、二番目の名札を取りのけた。ぽっかりと、空いた。
さて。
バロー子爵夫人とメルシエ男爵夫人を、どう離すか。
一人を別の卓に移せば、その卓の誰かがあぶれる。あぶれた人をどこに置くか。置いた先で誰と誰が隣になるか。一枚動かすと、三枚が動く。三枚動かすと、七枚が動く。
わたしは名札を一枚ずつ、指先で動かしていった。
バロー子爵夫人を、中央の卓へ。中央の卓の、耳の遠いデュボワ老夫人の隣へ。
手が止まった。
バロー子爵夫人は、噂話が何より好きな人だ。お茶会のたびに、誰かの縁談の破れたのをさも気の毒そうに言いふらす。今日はきっと、ロシュ伯爵夫人のお嬢さまの話を持ち出す。
デュボワ老夫人は、耳がほとんど聞こえない。何を話しかけられても、にこにこと、ええ、ええ、とうなずくだけだ。
子爵夫人は一時間、聞こえない人に向かって噂話を続けることになる。
わたしはその名札を、そこに置いた。
置いた瞬間、胸の奥で小さく何かが鳴った。
鈴の音に似ていた。ぴたりと収まったときにだけ鳴る、わたしにしか聞こえない音。
でも、今日の鈴の音には、ほんの少し、いやな響きがまじっていた。
わたしは名札から指を離してその指を見下ろした。
気持ちがいい。
人を思ったとおりの場所に置いて、思ったとおりに黙らせる。それがこんなに気持ちがいい。
柱の陰の補助椅子に、黙って座ったわたしが。
指の腹がインクで黒ずんでいた。何年も名札を書いてきて洗っても落ちなくなった黒。わたしはその黒い指先を、もう一方の手でぎゅっと握った。
十五の年に、叔母の手伝いで名札を並べたのが始まりだった。
「エステル。この伯爵とこの子爵を隣にしたのはなぜ?」
「お二人とも、北の鉱山に出資なさっているからです。去年の冬、落盤があって、どちらも同じくらい損をなさいました。話が合うと思います」
「では、その向かいに侯爵夫人を置いたのは?」
「侯爵夫人は、甘いものが苦手でいらっしゃいます。お隣の男爵夫人は、甘いものが大好きです。お菓子が出たら、きっと交換なさいます」
叔母はふん、と鼻を鳴らして、それから笑った。
「あなた、頭の中に貴族年鑑が入っているのね。よろしい、次からも手伝いなさい」
あの日、わたしは、家に帰ってから、寝台の上で何度も枕を叩いた。うれしくてじっとしていられなかった。
それから五年。王宮の大きな催しの席次は、ほとんどわたしが下書きをしている。十七の年からはいちばん気をつかう主催の卓の席次も任されるようになった。
表向きは叔母の仕事だ。わたしの名前はどこにも出ない。
それでいいと思っていた。
思っていると、自分に言い聞かせてきた。
名札を書き終えるたびに、最後の文字の右下に、針の先ほどの点を一つ打つ。十五の年の、最初の一枚からの癖だ。
誰にも話していない。叔母も、たぶん気づいていない。
誰にも見せない印。そう思って打ってきた。
でも、本当は、少しだけ、思っていた。いつか、誰かが、この点に気づいてくれないかと。気づいて、これは誰の印だと、訊いてくれないかと。
五年間、誰も訊かなかった。
わたしは空いた名札を一枚取ってペンをインク壺に浸した。新しく書き直す札が、三枚ある。
バロー子爵夫人。
最後の文字の右下に、ペン先を軽く落とした。
小さな点が一つ、紙に沈んだ。
昼の鐘が鳴る少し前に、叔母が作業部屋に戻ってきた。
卓の上の見取り図を、眼鏡を外して端から端まで眺めた。
「……バロー夫人を、デュボワ老夫人の隣に」
「はい」
「あなた、ときどき、怖いことをするわね」
叔母は眼鏡をかけ直した。叱られるのかと思った。叔母の口の端がほんの少しだけ上がっていた。
「よろしい。このままいきます。……それから、エステル」
「はい」
「お茶を飲んでいきなさい。朝から何も食べていないでしょう。指が震えていますよ」
卓の端に、叔母が淹れて、そのまま忘れていった紅茶の茶碗があった。手に取ると、もうすっかり冷めていた。
わたしは冷めた紅茶を、一口で飲んだ。渋かった。
空っぽの胃に、渋みが、じんと沁みた。
お茶会は何事もなく終わったと、夕方、叔母の使いが知らせてきた。王妃さまは上機嫌で、バロー子爵夫人は一時間、デュボワ老夫人に何かを話し続けていたそうだ。
その知らせの最後に、叔母の字で一行だけ書き足してあった。
今日の主賓の卓には、王弟殿下がお見えでした。
わたしはその一行を、しばらく見つめていた。
去年の春、控えの間の床で名札を拾ってくれた人。
あの人は今日も、わたしの決めた席に座ったのだ。わたしの名前を、知らないまま。
知らないまま、のはずだった。
◆アルベルト
王妃の午後の茶会は、退屈なものと決まっていた。
その日、アルベルトは主賓の卓で、甘いものの苦手な老侯爵夫人と、甘いもの好きの男爵夫人のあいだに座らされた。焼き菓子の皿が回ってくると、二人の夫人は、アルベルトの前で黙って菓子を交換した。
アルベルトはその手の動きを見ていた。
交換したあと、二人は満足して、それぞれの菓子を食べはじめた。誰も、アルベルトに話しかけなかった。
また、楽だ。
茶会が終わって、皆が席を立ったあと、アルベルトは自分の名札を手に取った。
最後の文字の右下に、点が一つ。
窓ぎわの小卓の名札にも、中央の卓の名札にも。いや、中央の卓の、バロー子爵夫人の札だけ、点のインクがまだ新しく、少しだけ滲んでいた。
今朝、書き直したのだ。
アルベルトはその札を、しばらく指先でつまんでいた。
バロー子爵夫人は、一時間、耳の遠い老夫人に、ロシュ家の娘の破談の話をしていた。聞こえない相手に向かって。誰にも届かない声で。
あの点を打つ人は、やさしいだけの人ではない。
そう思ったら、なぜか、胸の内ポケットの古い名札が、少しだけ熱を持った気がした。
アルベルトは子爵夫人の札をそっと卓に戻した。
持って帰りたかった。持って帰らなかった。内ポケットの一枚だけで、自分がもう気味の悪い男だと、思い知っていたからだ。




