第1話 柱の陰の補助椅子
劇場の桟敷席には、手すりのすぐ後ろに、椅子が二つ並んでいた。
天鵞絨張りの、背もたれの高い椅子。二つの肘掛けがくっつきそうなほど近い。婚約者どうしが並んで座るための席だ。奥の壁ぎわの太い柱の陰に、もう一つ、補助椅子が置いてあった。
桟敷の入り口でわたしは一瞬で数えた。前の椅子が二つ。補助椅子が一つ。人が三人。
前の二つに、フレデリック様とわたし。補助椅子にはカトリーナ様。柱の陰では舞台が半分しか見えないから、幕間に、わたしと席を代わってさしあげればいい。
頭の中でそう並べた。並べたとたん、いつもの癖で胸の奥がすっと落ち着いた。
「わたし、後ろでいいわ。フレディ、わたしは……」
「いいから」
カトリーナ様が言いかけたのを、フレデリック様はひと言で切った。それから右の椅子に腰を下ろして、左の椅子にカトリーナ様を座らせた。
左の椅子に座ろうと半歩出ていたわたしの手首を、フレデリック様が軽くつかんだ。
「エステル、悪いが後ろに回ってくれないか。カトリーナは背が低いから、後ろじゃ舞台が見えないんだ」
わたしは宙に浮いた手を、そのまま下ろした。
前の椅子は二つしかない。その二つとも、もう埋まっている。後ろに回るというのは、柱の陰の補助椅子に一人で座るということだった。
「でも、わたしの席は……」
「カトリーナが寂しがるから。ひとりだけ離れたところに座らせるわけにはいかないだろう?」
ひとりだけ離れたところに座るのはわたしのほうだった。
そう言いかけて口を閉じた。カトリーナ様が困ったように眉を下げて、わたしを見上げていたからだ。
「ごめんなさいね、エステル様。フレディがどうしてもって」
フレディ。
この二年、わたしは一度も、この人をそう呼んだことがない。呼んでいいと言われたこともない。
「……いいえ。どうぞ」
わたしは補助椅子に腰を下ろした。
板の座面に、薄い布が一枚かけてあるだけの椅子だった。腰を下ろしたとたん、尾てい骨に、硬いものがごつんと当たった。
目の前に、金色に塗られた太い柱があった。
幕が上がった。楽団が鳴った。
舞台は柱の右側から半分だけ見えた。主役の歌姫の、右半分。ときどき、くるりと回ると全身が見えて、すぐにまた柱の向こうに消える。
前の二人がときどき顔を寄せてくすくす笑う。
カトリーナ様の淡い黄色のドレスの肩が、フレデリック様の肩に触れたり離れたりしている。あの黄色は夜の劇場では、燭台の光で少しくすんで見える。わたしなら、昼の茶会に着ていく。
そう思ってから、手袋の中で指を一本ずつ折った。
意地の悪いことを考えている。
わかっている。わかっているのに、頭が勝手に数えはじめる。カトリーナ様の髪飾りは、去年の流行だ。フレデリック様は、さっきから三回、カトリーナ様の耳もとに口を寄せた。わたしのほうは一度も振り返っていない。
この人たちは席の並べ方も知らない。
前に椅子が二つ、後ろに補助椅子が一つ、人が三人。どう座ればいちばん角が立たないか。そんなことも考えない人たち。
胸の奥で、小さく、黒いものがうごめいた。
その黒いものを、わたしは、自分でもあまり見たくなかった。見下している。婚約者と、その幼馴染を。席次の一つも読めない人たちだと。
見下していれば、柱の陰の椅子でも、少しは楽に座っていられるから。
わたしは膝の上で手袋の指をそろえた。
柱の金色の塗りが、目の高さのところで一か所だけ剥げているのに気がついた。親指の爪くらいの大きさで、下の灰色の木地がのぞいている。
剥げた縁に、細かい金粉が浮いていた。
わたしはそれを、ずっと見ていた。
婚約して二年になる。
二年のあいだ、わたしとフレデリック様が二人きりで出かけたことは、一度もなかった。
お茶会にも、遠乗りにも、春の花祭りにも、カトリーナ様がついてきた。理由はいつも同じだった。
カトリーナが寂しがるから。
カトリーナ様の家は、三年前に母君を亡くしている。お父君は領地に引きこもって、王都の屋敷にはほとんど戻ってこない。だから、隣の屋敷で育ったフレデリック様が、兄のように気にかけてあげている。
それは立派なことだと思う。
思うのだけれど。
第二幕の途中で、舞台の上の恋人たちが抱き合った。客席のあちこちでため息がもれた。
わたしの位置からは、柱しか見えなかった。
抱き合っているはずの二人の、男のほうの片腕だけが、柱の右の縁から少しのぞいていた。
前の席で、カトリーナ様が鼻をすすった。フレデリック様が、上着の内側から手巾を出して渡した。白い麻の手巾。去年の誕生日に、わたしが縁にかがり縫いをして贈ったものだった。
カトリーナ様はそれで目もとを押さえて鼻をかんだ。
わたしは手袋の中で爪を手のひらに立てた。
怒ってはいけない。手巾は手巾だ。泣いている人に貸すのはやさしいことだ。
でも、その手巾の隅の、フレデリック様の頭文字の刺繍は、三晩かけて縫った。糸が三度もつれて三度ほどいた。
幕間に、フレデリック様が振り返った。
「エステル、喉は渇いていないか」
わたしは少し驚いた。
「……少しだけ」
「そうか。ちょうどいい、売り子が来ている」
フレデリック様は、桟敷の入り口に来た売り子から、果実水を三つ買った。一つをカトリーナ様に、一つを自分に。三つ目を、わたしに手渡してくれた。
「ほら。ぬるくなる前に飲んで」
硝子の杯は冷たかった。
わたしは両手でそれを受け取った。指先に、杯の冷たさが沁みた。
こういうところがあるのだ、この人には。
忘れているわけではない。わたしがここにいることを、ちゃんと覚えている。覚えていて、柱の陰に座らせる。
だから、いっそ嫌いになれない。
果実水は檸檬と蜂蜜の味がした。甘すぎて、喉の奥に、べたりと貼りついた。
カトリーナ様が杯を手に、こちらを振り返った。
「エステル様、そこ、見えてる?」
「ええ、半分くらいは」
「半分も見えるなら、いいじゃない。わたしなんて、前の席でも、あの歌姫の帽子しか見えないもの」
カトリーナ様はからからと笑った。悪気のない笑い方だった。悪気がないのがいちばん困る。
わたしも、笑った。口の端を上げるだけの笑い方で。
終演後、劇場の前の石段には、馬車を待つ人があふれていた。
ハーコート侯爵家の馬車が回ってきた。御者が扉を開けて踏み台を置いた。
フレデリック様が、先に乗りこんで手を差し出した。
その手を取ったのはカトリーナ様だった。
カトリーナ様が奥の席に座って、フレデリック様がその隣に座った。向かいの座席がわたしの席になった。
わたしは御者の手を借りて一人で踏み台を上がった。
走り出した馬車の中で、二人は第三幕の歌の話をしていた。わたしの位置からは見えなかった、第三幕の。
わたしは窓の外を流れる街灯を見ていた。
膝の上で手袋を脱いだ。手のひらに、爪の跡が四つ、赤く三日月の形に残っていた。
親指の爪の先に、金色の粉がほんの少しついていた。
いつのまに、柱の剥げをなぞっていたのだろう。
わたしはその金粉を、ドレスの膝でこすって落とした。何度こすっても、爪の溝に入りこんだ粉は、取れなかった。
「そうだ、エステル」
カトリーナ様の屋敷の前で馬車が止まったとき、フレデリック様が言った。カトリーナ様が降りるのを手伝いながら、振り返りもせずに。
「近いうちに、君の家に寄るよ。少し、相談があるんだ」
扉が閉まった。
馬車の中に、わたしと、フレデリック様の二人だけが残った。
婚約して二年。二人きりになったのは、たぶん、これが初めてだった。
フレデリック様は、向かいの席に移ってこなかった。カトリーナ様の座っていた場所の、まだ温かい座面に手を置いて、窓の外を見ていた。
わたしは爪の溝の金粉を、もう一度だけこすった。
◆アルベルト
王族の桟敷は舞台の正面の二階にある。
兄王と王妃のうしろの席で、アルベルトは、第二幕の半分を見ていなかった。
斜め下の、横手に並んだ一般の桟敷。椅子が二つきりの小さな桟敷の、その奥の柱の陰。
去年の春、控えの間の床で名札をばらまいていた娘が、補助椅子に座っていた。背筋をまっすぐ伸ばして、舞台ではなく、目の前の柱を見ていた。
前の席の男が隣の娘の耳もとに口を寄せるたびに、柱の陰の娘の肩がほんの少しだけ下がる。
ハーコート家の嫡男。モンテール嬢の婚約者。
アルベルトは手すりにのせた指で、とん、と一度、木を叩いた。
劇場の支配人に、あの柱を塗り直させればいい。いや、あの桟敷の前の椅子を三つにさせればいい。王弟の名で言えば、明日には済む。
そう考えてから、自分の考えのさもしさに、舌の奥が苦くなった。
椅子を一つ増やしたところで、あの娘はまた、柱の陰の席を選ばされる。そして自分には、それを止める立場がない。
「アルベルト」
前の席から、王妃が振り返らずに言った。
「さっきから、どちらの舞台をご覧になっているのかしら」
「……歌姫の帽子が、大きすぎる」
王妃は扇の陰で小さく笑った。
アルベルトは上着の内ポケットの上から、角の丸くなった名札を、指先で一度だけ押さえた。




