プロローグ 点のある名札
慈善晩餐会の夜は、毎年、胃の奥から酸っぱいものが上がってくる。
開宴までの二時間で、アルベルトは百人と握手をした。公爵に、侯爵に、その夫人に、娘に、娘の母に。手袋の中で、指のあいだがじっとりと湿っていくのがわかった。誰の手も、同じように湿っていた。
殿下、今年もご立派なお働きで。殿下、うちの娘をご覧になって。殿下、例の件ですが、少しだけお時間を。
王弟というのは便利な札だ。兄王に直接言えない頼みごとをまず預けておく先として。断っても角が立たず、引き受けても誰も感謝しない札として。
二十五になる今年まで、アルベルトはこの晩餐会の主催をつとめてきた。決めることは何もない。挨拶をして、乾杯の音頭をとって、最後に寄付の額を読み上げる。去年、兄王が「おまえに似合いの役だろう」と笑ったとき、アルベルトも一緒に笑った。笑いながら、奥歯の裏が少し痛んだ。
そういう自分がいちばん嫌いだった。
主催の卓の真ん中に座るのが、毎年いちばん疲れた。
去年の右隣は娘を売りこむことしか頭にない侯爵夫人だった。白粉の下から、葡萄酒と焦げた砂糖の混じった息が、前菜から菓子まで途切れずに吹きかかってきた。一昨年の左隣は北の街道の通行税の話を一度もやめなかった伯爵だった。あの男の口の端には、ずっと鴨の脂が光っていた。
アルベルトはどちらにも穏やかにうなずいた。そうして、腹の中で二人を何度も絞め殺した。
食べたものの味は一つも覚えていない。覚えているのは冷めて白く固まっていく皿の脂と、それを見下ろしている自分の手袋の白さだけだ。
大広間の扉をくぐるとき、アルベルトは、手袋の上から一度だけ胃のあたりを押さえた。
侍従のヴァランスが椅子を引いた。座る前に、右の名札を見た。
ガルシア将軍。
白い髭の老将軍が、もう座っていた。背筋を伸ばしたまま、前を向いている。アルベルトが座っても、将軍は顎をほんの少し引いただけだった。
ああ、今年はこの爺さんか、と思った。
退役兵の年金の話か。北の砦の補修費か。孫娘の縁談か。どれが来ても、うなずく用意はできていた。
前菜が運ばれてきた。将軍は黙って食べはじめた。
スープが来た。将軍は黙ってスープを飲んだ。魚が来た。将軍は黙って骨を外して皿の端に几帳面に並べた。
何も言わない。
アルベルトは手の中の匙を見下ろした。いつ来るのかと構えていた肩が、少しずつ下がっていく。下がってから、自分がずっと肩をすくめていたことに気づいた。
スープを一口、すくった。
温かかった。鶏の骨を長く煮た味と、刻んだ香草の青い苦み。舌の上でほどけて、喉を通って、胃の底の酸っぱいところに、じわりと落ちていった。
うまい、と思った。
思った瞬間、なぜか、目の奥がつんとした。二十五の男が晩餐会のスープ一杯で。ばかばかしくて、アルベルトは匙を持ったまま、少しだけ唇の内側を噛んだ。
鴨が来たとき、将軍が初めて動いた。
自分の皿の鴨を一切れ、ナイフの先に刺して、黙ってアルベルトの皿に移したのだ。
「……なぜ」
「痩せすぎだ」
将軍は前を向いたまま、もぐもぐと口を動かしていた。髭の先に、肉汁が一滴ついていた。
アルベルトは皿の上の鴨を見た。
他人のナイフで切られた肉だった。王族の皿に、他人の皿から肉を移すなど、作法も何もあったものではない。
アルベルトはそれを食べた。
うまかった。
その夜、アルベルトは、生まれて初めて晩餐会の料理を最後の菓子まで食べきった。卓を立つとき、上着の腰のあたりが、少しだけきつかった。
宴のあと、王妃の女官長のベルモント夫人をつかまえた。
「今夜の席次は誰が決めた」
「席次は、女官長の務めでございます、殿下」
「あなたが?」
「わたくしの務めでございます」
眼鏡の奥の目は少しも揺れなかった。
嘘だ、とアルベルトは思った。この女官長は有能だが、あんなふうに人の胃袋の具合まで読む席は組まない。去年までの席を組んだのが、この人だからだ。
「では、来年も、今夜と同じ考えで組んでくれ」
言ってから、自分の口から出た声の軽さに、少し驚いた。王弟が女官長に、席の注文をつけている。
ベルモント夫人は、ほんのわずかに眉を上げた。
「殿下が、席次にご注文をおつけになるのは初めてでございますね」
「……そうだったか」
「さようでございます」
夫人は丁寧に膝を折って、控えの間のほうへ下がっていった。その背中が扉の前で一度だけ止まって、中に向かって何か小さく言うのが見えた。
扉の隙間から、名札の束を抱えた細い腕が、ちらりと見えた。インクで黒ずんだ指先だった。すぐに扉が閉まった。
アルベルトはしばらくその扉の前に立っていた。
開けてしまえばいい、と思った。王弟が控えの間の扉を開けて誰が咎める。
開けなかった。開けて、中にいたのが、自分の思い描いたものと違ったら。そう考えた自分が、少し卑しかった。
自分の居室へ戻る回廊で、靴の先に、何か硬いものが当たった。
拾い上げると、名札だった。厚手の白い紙を二つに折ったもの。
ガルシア将軍閣下。
今夜、自分の右隣に置かれていた札と、同じ字だった。書き損じの予備が、運ぶ途中で束からこぼれたのだろう。紙の端が少し反っていて、親指の形に、うっすらとインクの汚れがついていた。
まっすぐで、どこにも力みのない字だった。最後の文字の右下に、針の先で突いたほどの、小さな点が一つ打ってある。
インクの染みではない。わざと打った点だ。
アルベルトは親指の腹でその点をなぞった。紙がかすかにざらついた。
誰かがこの札を書き終えて、最後に一つ、印をつけた。誰にも見せるつもりのない印を。
捨てればいい。廊下に落ちていた書き損じの札だ。
アルベルトは名札を上着の内ポケットにしまった。
しまってから、自分の胸のあたりを見下ろした。そこに、知らない誰かの指の汚れがついた紙がある。それが妙にうれしかった。うれしいと思った自分が、少し気味悪かった。
次の年も、その次の年も、慈善晩餐会の主催の卓で、アルベルトの右隣には黙って鴨を分ける老将軍が座っていた。
慈善晩餐会だけではなかった。王宮の茶会でも夜会でも、アルベルトの隣には、ちょうどいい人が座るようになった。疲れた夜には口数の少ない老人が。退屈な夜には、古い家系の噂話を山ほど知っている、口の悪い老学者の老夫人が。
宴が終わるたびに、アルベルトは自分の卓の名札をそっと手に取った。どの札にも、最後の文字の右下に、針の先ほどの点があった。
そのたびに、ベルモント夫人に、同じ注文をつけた。来年も今年と同じ考えで。誰を隣にするかは言わなかった。言わなくても、翌年の隣には、いつも、その年の自分にちょうどいい誰かがいた。
顔も知らない誰かが、自分の胃袋の具合まで読んで自分の席を整えてくれる。それを確かめたくて、毎年同じ注文をつけている自分に、アルベルトは気づいていた。気づいていて、やめなかった。
上着の内ポケットの古い名札は、角が丸くなり、折り目がやわらかくなっていった。夜、眠れないとき、指先で探りあてて点をなぞる癖がついた。
二十七の誕生日の夜、それに気づいたヴァランスが、何も言わずに上着の内ポケットの縫い目を補強した。
点を打つのは誰だ。
王都でいちばん扱いに困る札を毎年いちばん楽な席に置いてくれるのは誰だ。
その答えを見つけるのは二年後の春。開宴一時間前の、控えの間の冷たい床の上になる。
そしてその人にはもう、婚約者がいた。




