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「承知いたしました。では、後任への引き継ぎはございません」

「承知いたしました。では、後任への引き継ぎはございません」


秋の離宮では、開け放した窓から金木犀の匂いが入り、磨かれた床に細長い日だまりを作っていた。王太子アルフォンスは、その日だまりの中央に立つ婚約者を見下ろしながら、銀糸の入った白い上着の襟を二度引っ張った。朝食で飲んだ濃い珈琲が舌の奥に残っており、机の端には一口だけかじった林檎の焼き菓子が、紙に油染みを広げていた。


「王太子妃教育など、誰にでもできる。お前は自分を特別な人間だと思い込みすぎているのだ」


アルフォンスがそう言うと、壁際に控えていた男爵令嬢リネットは、薄桃色のドレスの胸元へ手を添えた。彼女の髪からは甘い薔薇の香油が匂い、先ほどから靴の爪先で絨毯の房を何度も撫でている。公爵令嬢オフィーリアは、膝の上に置いていた紺色の手帳を閉じ、銀色の留め具を指で確かめた。


「つまり殿下は、私との婚約を解消なさりたいのですね」


オフィーリアが確認すると、アルフォンスは胸を張り、リネットの肩を引き寄せた。その拍子にリネットの袖飾りが珈琲の受け皿へ触れ、白いレースの先に茶色い染みがついた。彼女は小さく声を上げたが、アルフォンスは気づかず、壁に掛けられた自分の肖像画へ顎を向けた。


「そうだ。お前のように、朝食の席で小麦の備蓄量を尋ねる女では息が詰まる。リネットなら、焼き菓子が温かいうちに食べろと言ってくれる」


「わたくし、冷めた焼き菓子も好きですわ。固くなった端を珈琲へ浸すと、おいしいのです」


リネットが付け加えると、アルフォンスは一瞬だけ眉を寄せた。オフィーリアは二人を見比べ、先ほどまで使っていた羽根ペンをインク壺の脇へ置いた。今日の彼女は葡萄色のドレスを着ており、袖口には祖母から譲られた黒い釦が並んでいたが、右手首の釦だけ糸が緩んでいた。


「承知いたしました。では、後任への引き継ぎはございません」


オフィーリアが立ち上がると、アルフォンスは口元だけで笑った。窓辺の花瓶には赤いダリアが七本挿してあり、そのうち一本が重そうに首を垂れていた。オフィーリアは花瓶へ手を伸ばしかけたものの、もう自分が直す必要はないと考え、紺色の手帳を抱えて扉へ向かった。


「待て。引き継ぎ書は置いていけ」


アルフォンスの声が背中へ飛んできたため、オフィーリアは足を止めた。廊下では女官が昼食用の銀器を運んでおり、盆の上で匙がかすかに触れ合っていた。彼女は振り返り、胸の前で手帳を持ち直した。


「何の引き継ぎ書でしょうか」


「王太子妃として学んだことに決まっている。式典の手順、各国大使の扱い、王宮使用人の配置、慈善院への支出、王領の収穫記録、それから母上の薬のことだ。お前が記録しているのは知っている」


アルフォンスは指を折りながら並べたが、四つ目を過ぎたところで左右の手を見失った。机の上には未開封の封書が山になっており、その下から、昨日なくしたと騒いでいた金のカフスが片方だけ覗いている。リネットは珈琲へ焼き菓子を浸しながら、ふやけすぎた端を受け皿へ落とした。


「王太子妃候補者が扱う情報については、婚約契約書第十八条に機密保持義務が定められております。婚約者本人以外への開示、複製、譲渡は禁止されています。婚約が解消された時点で、私には一文字も残す権限がございません」


オフィーリアが答えると、アルフォンスは鼻で笑った。契約書を最後まで読まなかった彼は、署名の際にも釣りへ出かける時刻ばかり気にしていた。オフィーリアはその横顔を見た途端、六年間、眠る前まで書き続けた記録を軽く扱われた熱が喉まで上がった。


「もっとも、殿下には引き継ぎなど必要ないのでしょう。王太子妃教育は誰にでもできるそうですから」


その一言を置いて、オフィーリアは扉を開けた。言いすぎたと気づいたのは、乾いた蝶番の音が廊下へ響いてからだった。祖母なら、相手が愚かな時ほど言葉を一つ飲み込みなさいと言ったはずだが、彼女は緩んだ袖口の釦を強く握り、そのまま離宮を出た。


翌朝、王宮の正門前には、夜明け前から十七台の馬車が列を作っていた。北方三国の使節団、秋の収穫祭へ招かれた領主、王妃の診察に訪れた医師、厨房へ香辛料を届ける商人まで、同じ門で止められていた。門番は寝癖のついた頭へ兜を無理にかぶり、昨夜の残りらしい玉葱入りのパンを片手に、名簿を裏返していた。


「使節団は東門から入れるはずではなかったのか」


アルフォンスが馬から下りると、門番は口いっぱいのパンを飲み込んだ。濃紺の礼装を着た王太子の肩には、道中で落ちた銀杏の葉が一枚貼りついている。門番は名簿の余白を指で擦り、途方に暮れたように首を振った。


「例年はそうなのですが、今年は東門の石畳を修理しております。オフィーリア様から変更された名簿が届く予定でしたが、昨日、婚約解消と同時に配送が止まりまして」


「古い名簿を使えばよいだろう」


「昨年、東方公国の公使と北方連盟の公使を同じ控室へ案内し、花瓶を投げ合う騒ぎになりました。オフィーリア様が、今年は絶対に動線を分けると仰っていたのですが、どなたをどこへ通せばよいでしょう」


門番が尋ねると、アルフォンスは馬車の紋章を見回した。どの鳥が北方連盟のもので、どの獅子が東方公国のものか、彼には区別がつかなかった。後ろでは香辛料商が胡椒の袋を抱え直し、早く入れなければ昼の煮込み料理が間に合わないと厨房係へ怒鳴っていた。


「リネットを呼べ。王太子妃教育を受け始めたのだから、これくらい分かるはずだ」


一時間後、リネットは水色の外出着の上に毛皮の肩掛けを羽織り、欠伸を噛み殺しながら正門へ現れた。髪は片側だけ巻かれ、もう片側には寝癖が残っている。彼女は馬車の列より先に、門番が食べていた玉葱入りのパンへ目を留めた。


「それ、どこのパン屋ですの。いい匂いですわ」


「西通りの角です。朝は豆のスープも売っております」


「まあ、帰りに寄りたいですわ。殿下、わたくし、朝食を食べておりませんの」


リネットが袖を引くと、アルフォンスは声を荒らげかけた。しかし正門の外では各国の使者がこちらを見ており、北方連盟の馬車からは苛立った馬が鼻息を噴いている。彼は肩の銀杏の葉を払い落とし、できるだけ低い声で彼女へ尋ねた。


「どの馬車をどの門へ回せばよい」


「わたくしに分かるはずがありませんわ。昨日、誰にでもできるとおっしゃったのは殿下でしょう」


リネットは悪びれずに答え、門番のパンをもう一度見た。アルフォンスは喉元までせり上がった言葉を飲み込み、使節団をすべて正門から入れるよう命じた。その判断によって、北方連盟と東方公国の公使は同じ玄関広間で顔を合わせ、十年前の国境紛争について言い争いを始めた。


昼になるころには、王宮の廊下に怒鳴り声と焦げた肉の匂いが満ちていた。厨房へ胡椒が届かなかったため料理長は塩を増やし、王妃は一口食べただけで皿を押し戻した。アルフォンスの執務机には三十六通の苦情が積まれ、その上へ侍医が王妃の薬箱を置いた。


「午後の薬は、白い瓶でしたか、茶色い瓶でしたか」


侍医に尋ねられ、アルフォンスは薬箱の蓋を開いた。中には同じ大きさの瓶が六本並び、どれにも古い文字で薬草名が記されている。窓の外では秋明菊が風に揺れ、開けたままの窓から入り込んだ冷気が、机の上の苦情書を一枚ずつ床へ落としていた。


「侍医であるそなたが、なぜ分からない」


「私は先月着任したばかりです。前任者は王妃陛下と薬の相性をオフィーリア様へ報告し、服用時刻の調整を任せておりました。昨日までは、紺色の手帳に挟まれた紙が毎朝届いていたのです」


侍医は薬瓶を光へ透かし、沈殿物を確かめた。アルフォンスは紺色の手帳という言葉を聞き、昨日のオフィーリアの姿を思い出した。葡萄色の袖、緩んだ黒い釦、閉じられた銀の留め具が、床に散った紙の向こうへ浮かんだ。


「公爵家へ使いを出せ。手帳だけでも提出させろ」


「すでに二度、使者を送りました。公爵閣下からは、婚約契約書第十八条を遵守するとの回答が届いております」


侍従長が扉の外から答え、銀盆に載せた封書を差し出した。盆の隅には誰かが置き忘れた胡桃が一つ転がっており、侍従長は話すたびにそれを親指で押し戻していた。封書には公爵家の蝋印と、王家の法務官三名の署名が並んでいた。


そのころオフィーリアは、公爵家の台所で栗の皮を剥いていた。宮廷を去った翌朝だというのに早く目が覚め、着慣れた灰色の普段着へ着替えたものの、することが見つからなかったのである。鍋では牛乳が温まり、料理人が刻んだ林檎と干し葡萄を木鉢で混ぜていた。


「お嬢様、栗は蒸してから剥いたほうが楽ですよ」


料理人に言われ、オフィーリアは手元の栗を見下ろした。すでに爪の間には渋皮が入り、右手の親指には小さな傷ができている。宮廷では薬の服用時刻まで管理できたのに、栗一つ満足に剥けないことがおかしくなり、彼女は鼻から短く息を漏らした。


「先に教えてください。もう十二個も、この方法で剥いてしまったわ」


「お嬢様があまり真剣でしたので、声をかけにくかったのです。それに、そのうち気づくかと思いまして」


「私が間違えている時は、止めてちょうだい。間違いを立派に続けても、正しくはならないでしょう」


オフィーリアが言うと、料理人は鍋の牛乳をかき混ぜながら笑った。窓の下には黄色い小菊が咲き、濡れた土からは昨夜の雨の匂いが上がっている。椅子の背には彼女の葡萄色のドレスが掛けられ、緩んだ黒い釦がまだ糸一本でぶら下がっていた。


「王宮から使者が来ております」


執事が厨房へ顔を出すと、オフィーリアは栗を持ったまま振り返った。使者はこれで三人目であり、一人目は手帳を渡せと命じ、二人目は王妃の薬だけでも教えろと頼んだ。オフィーリアは前掛けで指を拭き、今度は何が止まったのかと尋ねた。


「収穫祭の席順が決められないそうです。王太子殿下は、オフィーリア様が王宮へ戻るなら、婚約破棄の撤回を検討すると仰っております」


使者は革靴についた泥を気にしながら答えた。床には朝、料理人が落とした小麦粉が白く残っており、彼が足を動かすたびに泥と混ざって灰色の筋になった。オフィーリアはその筋を見たあと、手の中の栗を籠へ戻した。


「撤回を検討する、ですか。殿下は、私が婚約へ戻りたがっているとお考えなのですね」


「そのようでございます。殿下は昨日からお食事も満足に取られず、今朝は冷めた焼き菓子を三つ召し上がっただけだとか」


「三つ召し上がれば十分です。それから、冷めた焼き菓子は珈琲へ浸すとおいしいそうですよ」


オフィーリアは、昨日のリネットの言葉を思い出して答えた。使者はどのような顔をすべきか迷い、濡れた帽子の縁を指で回した。彼女は一度はそのまま帰すつもりだったが、王妃の薬まで滞っていることが胸に引っ掛かった。


「王妃陛下の薬については、侍医が判断すべきことです。私が婚約者であったからといって、医療の判断まで抱え込んでいたのは間違いでした」


オフィーリアはそう言いながら、宮廷にいたころの自分を振り返った。頼まれるたびに仕事を引き受け、誰かへ教える時間を惜しみ、自分で済ませたほうが早いと考えていた。その結果、王宮には彼女しか知らない手順が増え、アルフォンスには「誰にでもできる仕事」に見えていた。


「王太子殿下へお伝えください。私は戻りません。ただし、王妃陛下の診療記録は陛下ご本人の情報ですので、王妃陛下の署名があれば侍医へ返却できます。収穫祭については、新しい責任者が自分で決めるべきでしょう」


使者が頭を下げると、オフィーリアは葡萄色のドレスへ近づいた。緩んだ黒い釦を外し、裁縫箱から丈夫な糸を取り出す。祖母から受け継いだ釦を縫い直しながら、彼女は次に働く場所では、一人だけが抱える手順を作らないと決めた。


三日後、王宮では臨時の会議が開かれた。長机には使節団への謝罪文、収穫祭の座席表、厨房の納入記録、王妃の診療記録が積み上がり、その間に食べかけの梨や冷めた茶が置かれていた。アルフォンスは三日間同じ濃紺の上着を着ており、袖にはインクの跡が何本もついていた。


「なぜ誰も、オフィーリアがしていた仕事を知らないのだ」


アルフォンスが机を叩くと、法務官は分厚い婚約契約書を開いた。部屋には紙と蝋燭の匂いがこもり、暖炉の上の花瓶では赤いダリアが完全に首を垂れている。法務官は眼鏡を押し上げ、第十八条の下にある第十九条を指で示した。


「王太子妃候補者に王家の機密を集中させたのは、殿下のご命令です。三年前、オフィーリア様は各部署に副担当者を置くよう提案されましたが、殿下は人件費の無駄だとして退けておられます」


「そのような昔の話を、今さら持ち出すな」


「三年前は、それほど昔ではございません。私の家では、そのころ買った塩漬け肉がまだ物置に残っております。妻は食べられると言いますが、私はもう捨てたいのです」


法務官が真顔で答えたため、会議室の端で書記官が咳払いをした。アルフォンスは怒鳴ろうとしたが、机の隅にある紺色の手帳へ目が止まった。それはオフィーリアのものではなく、王妃から返却された診療記録を侍医が新しくまとめたものだった。


「婚約破棄を撤回する。オフィーリアを呼び戻せ」


アルフォンスが命じると、法務官は契約書を閉じた。銀杏の葉が窓へ貼りつき、風が吹くたび、濡れた指で硝子を擦るような音を立てている。リネットは部屋の隅で梨を薄く切り、塩を少し振って食べていた。


「オフィーリア様には、すでに隣国の行政院から招聘状が届いているそうですわ」


リネットが言うと、アルフォンスは椅子から立ち上がった。彼女は梨の一切れを勧めたものの、王太子は手で払い、その拍子に皿が傾いた。梨は床へ落ち、赤い絨毯の上を滑って、垂れ下がったダリアの花びらの下で止まった。


「なぜ隣国が、あの女を欲しがる」


「王太子妃教育が誰にでもできるなら、受けた方を欲しがる国はいくらでもございますでしょう。わたくしは、朝から薬と門と胡椒のことで呼び出される生活は嫌ですわ」


リネットは梨の皿を持って席を立った。彼女は王太子妃になるつもりなどなく、華やかな夜会へ招かれたいだけだったと告げた。アルフォンスが返事を探している間に、薔薇の香油の匂いは廊下の向こうへ遠ざかった。


その日の夕方、アルフォンスは一人で離宮へ戻った。机の上には、三日前から誰も片づけていない珈琲の受け皿があり、リネットのレースから落ちた茶色い染みが乾いていた。窓辺の赤いダリアは水を替えられないまま萎れ、甘く傷んだ匂いを漂わせていた。


「引き継ぎ書を置いていけ、か」


アルフォンスは自分が命じた言葉を口にし、書きかけの座席表を広げた。どの公使を上座へ置き、どの領主を離し、誰の食事から胡桃を除くべきか、調べることは机いっぱいに残っている。彼は紺色の手帳を探す癖で引き出しを開けたが、そこには片方だけの金のカフスと、固くなった焼き菓子しか入っていなかった。


冬の初め、オフィーリアは隣国の行政院で新しい職務に就いた。彼女は王宮の運営を立て直した実績ではなく、立て直せなくなる仕組みを作ってしまった失敗まで面接で話し、各業務に必ず二人以上の担当者を置く条件を出した。机には紺色の手帳を置いたが、銀の留め具は開いたままにし、内容は部署の全員が読める記録簿へ毎日書き写した。


「オフィーリア様、その黒い釦は、すべて形が違うのですね」


隣の席の若い書記官が、彼女の葡萄色の袖を見ながら言った。窓辺では鉢植えの白いシクラメンが咲き、昼食用の茸のスープから湯気が上がっている。オフィーリアは祖母から譲られた釦へ触れ、緩んでいた一つだけを縫い直したのだと答えた。


「今度、緩んでいたら教えてください。私は、自分の袖口には案外気づかないようです」


書記官は笑い、匙でスープの底から大きな茸をすくい上げた。オフィーリアもパンをちぎり、胡椒のきいた温かなスープへ浸した。机の端には王国から届いた三通目の復帰要請書が封を切らずに置かれていたが、その上には翌日の仕事を分け合うための担当表が重ねられていた。


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