第六話 本の感想と、君の笑顔
「……読み終わった。」
陽斗は最後のページを閉じ、大きく息を吐いた。
机の上の時計は午後十一時を回っている。
約束の日までに読み終えられるか不安だった。
普段、本なんて読まない自分が、一冊読み切れたことに少し驚いている。
読み始めたのは、一昨日の夜。
最初は文字を追うだけだった。
けれど気付けば、時間を忘れてページをめくっていた。
本を読んで泣きそうになったのは、人生で初めてだった。
翌日。
昼休み。
文庫本を鞄に入れたまま、陽斗は落ち着かなかった。
(なんて言えばいいんだろう。)
「面白かった。」
それだけでは足りない気がする。
「感動した。」
なんだかありきたりだ。
考えれば考えるほど、言葉が見つからない。
「朝倉くん。」
顔を上げる。
水瀬が教室の入り口から手を振っていた。
「あ……うん。」
また廊下へ出る。
「読み終わりました?」
「うん。」
陽斗は文庫本を差し出した。
「ありがとう。」
美月は大切そうに受け取る。
「どうでした?」
その一言に、陽斗は困ったように笑った。
「それが、一番難しい。」
「難しい?」
「面白かった、だけじゃ違う気がする。」
美月は何も言わず、続きを待ってくれる。
陽斗は少し考えてから口を開いた。
「読んだあと、誰かに優しくしたくなる本だった。」
一瞬。
美月の目が丸くなった。
「……そんなふうに思ったんですか?」
「うん。」
「なんで?」
「うまく言えないけど。」
陽斗は頭をかいた。
「数学の話なのに、人のことばかり考えてる話だった。」
「……。」
「だからかな。」
言い終わると、急に恥ずかしくなる。
(何言ってるんだ、俺。)
「ごめん。」
「どうして謝るんですか?」
美月は小さく笑った。
「私、その感想、初めて聞きました。」
「え?」
「みんな、『泣けた』とか『数学が面白かった』とかは言うんです。」
彼女は本を胸に抱いた。
「でも、『誰かに優しくしたくなった』って言った人は、朝倉くんが初めてです。」
春風が廊下を通り抜ける。
カーテンがふわりと揺れた。
「嬉しい。」
ぽつりとこぼれたその言葉は、とても小さかった。
「そんな読み方をしてくれる人に貸してよかった。」
陽斗は照れくさくなって視線をそらす。
「たまたまだよ。」
「ううん。」
美月は首を振る。
「きっと、本って読む人によって違うんです。」
少しだけ間が空く。
「だから好きなんです。」
「本が?」
「はい。」
彼女は遠くを見るような目をした。
「落ち込んでる日に読むのと、嬉しい日に読むのとでは、同じ本なのに違う話みたいに感じるんです。」
陽斗は黙って聞いていた。
「本って、不思議ですよね。」
その横顔は、教室で一人静かに本を読んでいた時と同じだった。
でも今は違う。
好きなことを話している彼女は、少しだけ子どものように楽しそうだった。
「……そういう顔もするんだ。」
思わず口からこぼれた。
「え?」
「いや、ごめん。」
「何ですか?」
「教室では、いつも静かだから。」
美月は少し考えて、それから照れくさそうに笑った。
「好きなことの話になると、止まらなくなるんです。」
「そうみたいだ。」
「……変ですか?」
「いや。」
陽斗は首を横に振る。
「いいと思う。」
その言葉に、美月は少しだけ頬を赤くした。
チャイムが鳴る。
「あ。」
「戻らないと。」
「うん。」
歩き出した美月が、数歩先で振り返る。
「朝倉くん。」
「ん?」
「今度は、私じゃなくて。」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「朝倉くんがおすすめのもの、教えてください。」
「俺の?」
「はい。」
「……難しいな。」
「考えておいてください。」
そう言って、美月は教室へ戻っていった。
廊下に一人残された陽斗は、苦笑いする。
おすすめなんて、すぐには思いつかない。
でも、不思議だった。
考えてみよう。
そう思えた。
誰かのために、自分の好きなものを探してみようと思えたのは、初めてだった。




