第五話 図書室の約束
翌日の昼休み。
教室は弁当を広げる生徒たちの笑い声でにぎわっていた。
陽斗は購買で買った焼きそばパンを片手に、ふと思い出した。
「その本、本屋さんで見かけたら読んでみてください。」
昨日の、水瀬の言葉。
結局、帰りに駅前の本屋へ寄ってみた。
だが、目的の本は見つからなかった。
(そもそも、どこに置いてあるんだろう。)
文庫本の棚を眺めながら十分ほど歩き回り、店員に聞く勇気も出ず、そのまま店を出た。
「……情けないな。」
一人苦笑いする。
「朝倉。」
不意に名前を呼ばれた。
顔を上げると、教室の入り口に水瀬が立っていた。
「あ……。」
「少し、いいですか?」
教室の何人かが二人を見た。
クラスが始まってまだ二日。
女子から男子に話しかけるのは珍しかったのか、小さなざわめきが起こる。
陽斗は慌てて廊下へ出た。
「どうしたの?」
「あの……昨日のことなんですけど。」
水瀬は少し申し訳なさそうに笑った。
「もしかして、本屋さんに行きました?」
「え?」
「行ったんですよね?」
「……なんで分かったの?」
「朝倉くん、分かりやすいから。」
初めて名前で呼ばれた。
そのことに気付いているのは、陽斗だけだった。
「実はあの本、この辺の本屋さんにはあまり置いてないんです。」
「そうだったんだ。」
「だから……。」
彼女は少し迷うように鞄を開き、一冊の文庫本を取り出した。
昨日と同じ本。
『博士の愛した数式』
「よかったら、貸します。」
「え?」
「読み終わったら返してください。」
「いや、でも大事な本じゃ……。」
「大事だから、ちゃんと返してくれる人にしか貸しません。」
そう言って、小さく笑う。
昨日より自然な笑顔だった。
陽斗はしばらく迷った。
人から本を借りたことなんて、一度もない。
汚したらどうしよう。
ページを折ってしまったら。
そんなことばかり考えてしまう。
「無理なら……。」
「いや!」
思わず大きな声が出た。
廊下を歩いていた生徒が振り返る。
「あ……ごめん。」
「ふふっ。」
水瀬は口元を押さえて笑った。
「そんなに慌てなくても。」
陽斗は耳まで熱くなるのを感じた。
「借りる。」
「うん。」
両手で受け取る。
思ったより軽い一冊だった。
それなのに、不思議とずっしりとした重みを感じる。
「期限は?」
「期限?」
「返す日。」
「読み終わったらで大丈夫ですよ。」
「でも。」
少し考えたあと、水瀬は言った。
「じゃあ、一週間後。」
「一週間?」
「そのくらいなら、感想も聞けますし。」
「感想?」
「面白かったかどうか。」
陽斗は困ったように笑った。
「本の感想なんて書いたことない。」
「書かなくていいですよ。」
水瀬も笑う。
「話してくれたら、それで。」
チャイムが鳴った。
昼休みの終わりを告げる音だった。
「じゃあ。」
「うん。」
二人はそれぞれ教室へ戻る。
自分の席に着いてからも、陽斗は机の中にしまった文庫本が気になって仕方なかった。
授業中、何度も机の中へ目が向く。
そのたびに先生に注意され、クラスメイトに笑われた。
その日の放課後。
帰宅した陽斗は、制服のまま机に向かった。
人生で初めて、自分から本を開く。
ページをめくる音だけが部屋に響く。
知らなかった。
本は、こんなにも静かなのに、人の心を動かすものだったなんて。
そして、その本を貸してくれた彼女のことを。
陽斗は、昨日より少しだけ知りたいと思っていた。




