第三十六話 灯のない日
春。
その日、駅前の空気はいつもより静かだった。
風はあるのに、音だけが少ない。
陽斗は、久しぶりに栞堂へ向かっていた。
理由は特にない。
ただ、ここ数日ずっと同じ夢を見ていた。
本棚の前で、誰かが立っている夢。
顔は見えないのに、なぜか懐かしい。
商店街に入ると、少し違和感があった。
いつも開いているはずの場所に、人の気配がない。
店の前に近づく。
『休業中』
貼り紙は、これまでと違っていた。
丁寧に書かれている。
でも、その丁寧さが逆に現実感を持っていた。
陽斗は、しばらく動けなかった。
(休み、じゃない)
(閉まってる、でもない)
言葉にできない違和感があった。
少し遅れて、美月も同じ通りに来ていた。
手には小さな紙袋。
中には、誰にも見せていない本のメモが入っている。
今日、渡そうと思っていたものだった。
角を曲がった瞬間、足が止まる。
「え……」
声にならなかった。
栞堂の前に立つ。
でも、扉の向こうに“いつもの気配”がない。
同じ頃、陽斗は店の裏手に回っていた。
郵便受けは空。
窓にはカーテンが下ろされている。
二人は、まだ出会っていない。
けれど、同じ場所で同じ空気を吸っていた。
美月はそっと扉に手を伸ばす。
鍵はかかっていた。
当たり前のことなのに、その音がやけに重く響く。
その時だった。
扉の横に、小さな封筒が貼られているのに気づく。
『来てくれてありがとう』
『しばらく、店を閉めます』
『本は、そのままにしてあります』
『屋根裏には、上がれます』
『鍵はいつもの場所です』
文字は、店主のものだった。
いつもの柔らかい字。
でも少しだけ、力が抜けていた。
陽斗も同じ封筒を見つけていた。
別の角度から。
同じ手紙。
同じ言葉。
美月はその場にしゃがみ込む。
「閉まってるだけだよね……」
誰に向けたわけでもない声。
陽斗は手紙を読み終えたまま、しばらく動けなかった。
(しばらく)
その言葉が、やけに引っかかる。
二人はようやく同じ場所にたどり着く。
商店街の前。
ほんの数十メートルの距離。
でもまだ気づかない。
空気だけが、少しずつ重くなる。
夜。
それぞれの部屋。
同じように、封筒の文を読み返す。
『屋根裏には、上がれます』
その一文だけが、何度も頭に残る。
美月は小さく呟く。
「また、行けるってことだよね」
陽斗も同じ言葉を心の中で繰り返す。
(また、行ける)
でもその「また」が、いつなのかは書かれていない。
翌日。
陽斗はもう一度、栞堂へ向かう。
美月もまた、同じ時間に向かっていた。
だが、この日は雨だった。
そして、二人の歩幅はわずかに違っていた。
栞堂の前。
誰もいない。
でも、完全な空ではない。
扉の前に、小さな箱が置かれていた。
中には、二つのしおり。
そして、一枚の短いメモ。
『この場所は、まだ続いています』
『でも今は、少しだけ休んでいます』
『また、本を読みに来てください』
それだけだった。
陽斗はしおりを手に取る。
美月も同じように、別の場所で同じしおりを手に取る。
同じものを持っているのに、まだ会わない。
それが、この数年間のすべてを象徴しているようだった。
夜。
二人はそれぞれの部屋で、しおりを本に挟む。
本は閉じられる。
でも、終わってはいない。
窓の外では、春の雨が静かに降っていた。




