第三十五話 静かな灯り
それから、数年が経った。
季節の流れを数えるのが難しくなるくらい、日々は静かに積み重なっていた。
美月は、小学校の教師になっていた。
まだ新人で、毎日が手探りだった。
教室の騒がしさと向き合いながら、それでも黒板の前に立つと、不思議と落ち着く自分がいた。
ある日の放課後。
机の上に置いた教科書の端に、小さな付箋を見つける。
「読む順番、間違えないでね」
誰が書いたわけでもない言葉に見えた。
けれど、美月はすぐに思い出した。
(あの人みたいだな)
ほんの少しだけ、笑った。
陽斗は、地元の企業でエンジニアとして働いていた。
日々の仕事は忙しく、資料とコードと会議に追われていた。
それでも、ふとした瞬間に思う。
(これ、誰かの役に立ってるのかな)
そんな時、デスクの引き出しに入っている小さなしおりを取り出す。
高校の卒業式でもらった革のしおり。
今でも、使い込まれた文庫本に挟まっている。
ページを閉じると、少しだけ呼吸が整う。
連絡は、まだ続いていた。
ただし、それはもう「毎日」ではなかった。
『久しぶり。元気?』
『うん、なんとかやってる』
『そっちは?』
『子どもたちが元気すぎて大変』
そんな短いやりとりが、数ヶ月に一度。
それでも、不思議と途切れなかった。
ある冬の日。
陽斗は仕事帰り、ふと駅前で足を止めた。
(栞堂、どうなってるんだろう)
気づけば、そう思っていた。
数年、行っていない。
行けないわけではない。
ただ、日常の中で優先順位が少しずつ下がっていっただけだった。
同じ頃。
美月も同じことを思っていた。
教室の窓から見える冬空。
(今年、行けてないな)
(店主さん、元気かな)
そのどちらも、確かめていないまま時間だけが過ぎていた。
春。
夏。
秋。
そしてまた冬。
二人はそれぞれの場所で、それぞれの生活を続けていた。
誰かと出会い、誰かと別れ、小さな成功と失敗を繰り返しながら。
そして、ある春の前。
陽斗は久しぶりに休みを取った。
理由はなかった。
強いて言えば、「なんとなく」だった。
電車に乗る。
見慣れた駅。
見慣れた商店街。
でも、少しだけ違う。
時間が進んだことが、風景の端々に滲んでいた。
栞堂の前に立つ。
扉は、閉まっていた。
『本日休業』
その札は古くなっている。
長く同じ場所にかかっていたことが分かる。
陽斗はしばらく、その前に立っていた。
少し遅れて、美月も同じ通りに来ていた。
だが、角を一つ違えていた。
同じ場所。
同じ時間。
それでも、二人はすれ違ったまま気づかない。
夜。
それぞれの部屋で、同じようにスマートフォンを開く。
『今日、栞堂行った』
送信したのは、ほぼ同時だった。
そして返ってきたのも、ほぼ同時。
『俺も行った』
『私も行った』
短い文字。
それだけ。
画面の向こうで、同じ場所にいた。
でも、会えなかった。
高校生の頃なら、ありえなかったこと。
けれど今は、それが普通になりつつあった。
その夜。
陽斗はしおりを本に挟む。
美月もまた、机の上のノートに手を置く。
どちらも、何も言わない。
ただ一つだけ思う。
(また、行こう)
それは約束ではなかった。
予定でもなかった。
ただの、気持ちだった。
それでも、不思議と続いていく何かがあった。
栞堂の灯りは、その夜も静かに消えていた。
けれど、それは終わりの灯りではない。
次に灯る日を待つ、静かな休息だった。




