第三十話 一冊を閉じる日
三月。
校門の桜は、まだ固い蕾のままだった。
卒業式の日。
体育館には静かな音楽が流れ、制服姿の三年生たちが整然と並んでいる。
卒業証書を受け取る名前が、一人ずつ呼ばれていく。
「朝倉陽斗。」
「はい。」
少し緊張した声。
証書を受け取り、一礼する。
拍手の音が体育館に響く。
少し離れた席では、美月も静かに拍手を送っていた。
やがて。
「水瀬美月。」
「はい。」
凛とした返事。
壇上へ向かう姿を見ながら、陽斗は思った。
(高校一年の春。)
(図書室で、本を読んでいたあの日。)
(あの日、声をかけてよかった。)
胸の奥に、温かなものが広がる。
卒業式が終わる。
教室では、笑い声と涙が入り混じっていた。
「写真撮ろう!」
「連絡してね!」
「あっちでも頑張れ!」
そんな声が飛び交う。
陽斗は教室を出ると、自然と図書室へ足が向いた。
扉を開ける。
本棚。
窓際の席。
静かな空気。
何一つ変わっていない。
「やっぱり来た。」
振り返ると、美月が立っていた。
「来ると思った。」
「俺も。」
二人は笑った。
最後まで、同じだった。
「終わっちゃったね。」
美月が窓の外を見る。
「うん。」
「早かった。」
「早かったね。」
沈黙が流れる。
でも、それは気まずい沈黙ではない。
三年間で覚えた、心地よい静けさだった。
「栞堂、行こうか。」
陽斗が言う。
「うん。」
それが、卒業の日の最後の約束になった。
栞堂の扉を開ける。
カラン、と鈴が鳴る。
「卒業、おめでとう。」
店主は二人を見ると、いつものように穏やかに笑った。
「ありがとうございます。」
二人は同時に頭を下げる。
「座って。」
窓際には、温かなコーヒーと紅茶が用意されていた。
「今日は、お祝いだから。」
店主は小さな包みを二つ取り出した。
「卒業祝い。」
開くと、中には革のしおりが入っていた。
高校一年の春にもらった紙のしおりとは違う。
年月を重ねても使える、落ち着いた色合いだった。
裏には、手書きの言葉。
『本は、読み終えても終わらない。人との出会いも、同じだ。』
二人は何も言えなかった。
その短い言葉が、三年間のすべてを語っているようだった。
「君たちは。」
店主が静かに口を開く。
「三年間で、ずいぶん本を読んだ。」
「でもね。」
少し笑う。
「それ以上に、お互いという一冊を読んできた。」
陽斗も、美月も顔を上げる。
「人は。」
店主は窓の外を見つめた。
「最後のページまで読まないと、その本の本当の価値は分からない。」
「だから焦らなくていい。」
「人生は、まだまだ続く。」
その言葉は、励ましというより、祈りのようだった。
店を出る頃には、夕暮れが商店街を優しく染めていた。
駅までの道。
高校一年の春から、何度歩いたか分からない道。
「大学。」
陽斗が言う。
「頑張ろう。」
「うん。」
「水瀬も。」
「朝倉くんも。」
言葉は、それだけだった。
伝えたいことは山ほどある。
ありがとう。
楽しかった。
寂しい。
そして——好き。
どれも本当だった。
でも、そのどれも口にはしなかった。
言えなかったのではない。
言わなかった。
その選択を、二人とも後悔しないように歩いていこうと思った。
改札の前。
人の流れが、二人を少しずつ離していく。
「じゃあ。」
美月が笑う。
「また。」
陽斗も笑う。
「また。」
たった二文字。
それだけで十分だと思えた。
二人は別々のホームへ向かって歩き出す。
振り返らない。
振り返れば、立ち止まってしまいそうだったから。
その夜。
美月は高校生活最後の日記を書いた。
三月一日。
卒業した。
朝倉くんと、最後まで笑って「また」って言えた。
だから泣かなかった。
本当は少しだけ泣きたかった。
でも、笑って別れた今日を、私はきっと好きになれる。
引き出しを開ける。
三年間書き続けた手紙。
封筒はもう、何枚もの便箋でいっぱいになっていた。
『朝倉くんへ。』
そう書かれたまま、一度も渡せなかった手紙。
美月は封筒をそっと箱へしまう。
誰にも聞こえない声でつぶやく。
「ありがとう、私の初恋。」
同じ頃。
陽斗は机の上に、卒業祝いの革のしおりを置いていた。
一冊の文庫本に挟む。
ページを閉じる。
高校生活という一冊は、今日、読み終えた。
けれど。
店主の言葉どおり、本は読み終えても終わらない。
この三年間は、きっとこれから先の人生の中で、何度もページを開くことになる。
その時はまだ。
いつか、栞堂で再びそのページをめくる日が来ることを、二人は知らなかった。
これで高校生編は終了です。
よろしければ評価やリアクションをいただけると励みになります。




