第三話 あの日の続きを、私は知らない
「美月、大丈夫?」
夫の優しい声で、私は我に返った。
「え?」
「ぼーっとしてたけど、疲れた?」
「あ……ううん。大丈夫。」
私は慌てて笑顔を作った。
ホームには電車が滑り込み、春風がコートの裾を揺らす。
さっきまで向かい側のホームにいた人影は、もう見えなかった。
朝倉陽斗。
高校時代の同級生。
そして、社会人になってからもう一度恋をした人。
「ママ!」
息子の湊が袖を引っ張る。
「電車きた!」
「ほんとだ。」
私はしゃがんで、小さな手を握った。
「乗ろうか。」
「うん!」
夫がベビーカーを持ち上げながら笑う。
「今日は楽しかったな。」
「そうだね。」
嘘ではない。
今日は本当に楽しかった。
家族三人でお花見をして、美味しいものを食べて、湊が転ばないように追いかけ回して。
そんな、ありふれた幸せな休日だった。
なのに。
ほんの数秒。
陽斗の顔を見ただけで、胸の奥にしまっていた記憶が、静かに目を覚ましてしまった。
未練ではない。
今の暮らしに不満があるわけでもない。
夫は優しく、湊は世界で一番大切な存在だ。
この幸せを失いたいなんて、一度だって思ったことはない。
それでも、人の心には消えない景色があるのだと知った。
家に帰ると、湊は遊び疲れたのか、ソファでうとうとし始めた。
「寝かせてくるよ。」
夫が湊を抱き上げる。
「お願い。」
寝室のドアが閉まる。
静かになったリビングで、私は食器棚の引き出しを開けた。
奥に、小さな箱がある。
何年も開けていない箱。
引っ越しのたびに捨てようと思って、それでも捨てられなかった箱。
ゆっくりと蓋を開ける。
中には、高校時代の卒業アルバム。
色あせた映画の半券。
文化祭の写真。
そして、一枚だけ残してあった電車の切符。
もう日付も読めないくらい古くなっている。
「懐かしいな……。」
自然と笑みがこぼれた。
恋人だったわけじゃない。
手をつないだことも、告白されたこともない。
それなのに、どうしてこんなにも大切な思い出なのだろう。
もし、あの日。
どちらかが一歩踏み出していたら。
そんなことを考える夜も、昔はあった。
でも今は違う。
あの頃の恋は、私の人生を彩る一ページになった。
だから、今日こうして笑って思い出せる。
箱を閉じ、そっと棚の奥へ戻す。
二度と開けないわけではない。
けれど、毎日開くものでもない。
それでいい。
「美月。」
寝室から夫が顔を出した。
「湊、寝たよ。」
「ありがとう。」
私は立ち上がり、いつもの笑顔で夫のもとへ向かった。
幸せだった。
今の私は、間違いなく幸せだ。
それでも。
高校一年の春。
教室の窓際で本を読んでいた私に、一人の男の子が声をかけてくれた日のことだけは、今でも昨日のことのように覚えている。
あの日の私は、その出会いが十年後まで心に残る恋になるなんて、想像もしていなかった。




