第二十六話 屋根裏の書庫
五月。
朝から細かな雨が降り続いていた。
教室の窓は白く曇り、校庭は静かに雨を受け止めている。
「今日も降るね。」
昼休み、図書室で美月が窓の外を見ながらつぶやいた。
「梅雨はまだなのにな。」
陽斗は文庫本を閉じる。
「放課後も止まなさそう。」
「傘、持ってきた?」
「一応。」
「よかった。」
その一言が、少しだけ嬉しかった。
放課後。
二人は一本の傘を挟むように並んで歩き、栞堂へ向かった。
雨の日の商店街は、人通りも少ない。
雨粒が軒先を打つ音だけが、静かに響いていた。
「いらっしゃい。」
店主は濡れた二人を見ると、奥から乾いたタオルを持ってきた。
「風邪をひかないように。」
「ありがとうございます。」
美月は丁寧に頭を下げる。
「今日は、お客さんも少ないから。」
店主は少し考えるように天井を見上げた。
「特別に、見せたい場所がある。」
「見せたい場所?」
陽斗が聞き返す。
店主は店の奥へ歩き、小さな木の扉を開けた。
その先には、急な階段が続いていた。
「気をつけて。」
ギシ、ギシ、と木の階段が鳴る。
上り切ると、小さな屋根裏部屋が現れた。
思わず二人は息をのむ。
壁一面の本棚。
古い木箱。
天窓から差し込む淡い光。
紙と木の匂いが混ざり合い、まるで時間そのものが眠っているようだった。
「すごい……。」
美月は小さくつぶやく。
「こんな場所があったなんて。」
店主は静かに笑う。
「栞堂の書庫だ。」
「絶版になった本や、大切な本を置いてある。」
陽斗は背表紙を眺める。
見たことのない装丁。
何十年も前に出版された本。
どれも誰かの人生を見守ってきたような顔をしていた。
部屋の隅には、小さな丸テーブルがあった。
店主はそこへ湯気の立つコーヒーと紅茶を置く。
「雨の日だけの特等席。」
「昔は私も、ここでよく本を読んでいた。」
「店主さんも?」
「若い頃はね。」
少しだけ遠くを見るような目だった。
それ以上は語らない。
けれど、その一瞬だけ、店主にも語られていない物語があることを二人は感じた。
「この本。」
美月が一冊の古い本を手に取る。
表紙は少し色あせていたが、大切に扱われてきたことが分かる。
「開いてごらん。」
店主に促され、ページをめくる。
すると、一枚の押し花が挟まっていた。
小さな白い花。
もう色は抜けている。
「しおり……。」
美月がつぶやく。
「昔のお客さんが挟んだまま返したんだ。」
店主は苦笑する。
「返そうと思ったけど、その人は二度と来なかった。」
「だから、そのまま。」
陽斗はその花を見つめる。
「待ってるんですか?」
店主は少し考えてから答えた。
「いや。」
静かに首を振る。
「帰ってこなくてもいい。」
「でも、その人がここで本を読んだことだけは、消したくなかった。」
雨音だけが聞こえる。
その言葉は、不思議なくらい心に残った。
帰る頃には、雨は小降りになっていた。
階段を下りる前、美月がもう一度だけ屋根裏を振り返る。
「また来てもいいですか。」
店主は微笑む。
「もちろん。」
「ただし。」
人差し指を一本立てる。
「ここは、大切な人とだけ来る場所。」
美月は少し驚き、照れたように笑う。
「はい。」
陽斗も何も言わずに頷いた。
その言葉の意味を、この時の二人はまだ深く考えてはいなかった。
帰り道。
雨上がりの空に、薄い夕焼けが広がっていた。
「いい場所だったね。」
美月が言う。
「うん。」
「秘密基地みたいだった。」
陽斗が笑う。
「子どもの頃なら、毎日入り浸ってたかも。」
「今でも入り浸ってるじゃない。」
「それもそうか。」
二人は笑い合う。
その笑い声は、雨上がりの空へ静かに溶けていった。
その夜。
店主は一人、屋根裏の書庫へ上がる。
丸テーブルの上には、二つのカップの跡が残っていた。
窓を少し開けると、雨上がりの風が古い本の匂いを運んでくる。
「また一つ。」
誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。
「この部屋の思い出が増えた。」
そう言って、本棚を優しく撫でた。
屋根裏には、今日も静かな時間だけが積み重なっていく。




