第二十三話 言葉のいらない時間
十月。
校庭の銀杏が、少しずつ色づき始めていた。
放課後。
「今日は委員会ない?」
陽斗が聞く。
「今日は大丈夫。」
美月は笑って鞄を持ち上げた。
「久しぶりに、一緒に帰れる。」
その一言だけで、陽斗の表情が少し明るくなる。
「じゃあ、栞堂寄ろう。」
「うん。」
二人は自然と商
店街へ向かった。
「いらっしゃい。」
栞堂は今日も静かだった。
窓際の席には秋の陽射しが差し込み、本棚には新しく「読書の秋」という手書きの札が掛けられている。
「いつも思うんだけど。」
陽斗が棚を見渡しながら言った。
「この店って、季節が分かるよな。」
美月は頷く。
「学校より季節を感じるかも。」
「どうして?」
「本が変わるから。」
美月は一冊の文庫本を手に取る。
「春は出会いの本。」
「夏は冒険。」
「秋は誰かを思い出す本。」
「冬は……。」
少し考えて笑う。
「人恋しくなる本。」
「そんな分け方してたの?」
「勝手に。」
二人で笑う。
それぞれ本を一冊選び、向かい合って座る。
ページをめくる音だけが店に響く。
五分。
十分。
十五分。
誰も話さない。
でも、不思議と沈黙は重くなかった。
ふと顔を上げると、美月も同じタイミングで本から目を離していた。
目が合う。
「休憩?」
陽斗が小さく笑う。
「うん。」
美月も笑う。
それだけ。
何を話すわけでもない。
それでも心地よかった。
「朝倉くん。」
「ん?」
「前はね。」
美月はカップを両手で包みながら言った。
「静かな場所が好きだった。」
「うん。」
「一人で本を読む時間も好きだった。」
「今は?」
少しだけ考えてから、美月は答える。
「誰かと静かにいる時間も、好きになった。」
その言葉に、陽斗は何も返せなかった。
言葉が見つからない。
でも、その意味はちゃんと伝わった気がした。
「俺も。」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「本を読むのが好きになった。」
「うん。」
「でも。」
少し照れくさそうに笑う。
「水瀬と本の話する方が、もっと好きかもしれない。」
美月は驚いたように目を見開く。
それから、小さく笑った。
「それ、ずるい。」
「え?」
「そんなこと言われたら。」
少しだけ俯く。
「私も同じって、言いたくなるじゃない。」
二人は顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑い出した。
店主は帳場からその様子を見て、何も言わずに本を閉じる。
窓の外では、一枚の落ち葉が風に乗って舞っていた。
帰り道。
夕焼けは春より少し早く、街を茜色に染めていた。
「今日。」
陽斗が歩きながら言う。
「本、あんまり読まなかったな。」
「ふふ。」
美月が笑う。
「話してたもんね。」
「そうだな。」
少し考えてから、陽斗は空を見上げる。
「前は。」
「本を読むために栞堂へ行ってた。」
「うん。」
「今は。」
言葉を選ぶように間を置く。
「水瀬がいるから、栞堂へ行ってる。」
足が止まる。
美月も立ち止まった。
風が吹く。
落ち葉が二人の間を通り過ぎていく。
胸が苦しくなる。
嬉しいのに。
苦しい。
あと一歩。
あと一言。
それだけで届きそうなのに。
「ありがとう。」
美月は微笑んだ。
その笑顔は少しだけ寂しくて、でも、とても幸せそうだった。
その夜。
美月は日記を開いた。
十月十五日。
今日は、あまり本を読まなかった。
でも、今までで一番、本屋さんらしい時間だった気がする。
朝倉くんが、
「水瀬がいるから、栞堂へ行ってる。」
って言ってくれた。
たぶん、深い意味はない。
朝倉くんは、そういう人だから。
それでも。
私は今日、その一言だけで、一週間くらい幸せでいられる気がした。
そんな自分が、少しだけ可笑しい。
でも、嫌いじゃない。
日記を閉じる。
引き出しには、渡せない手紙。
本には、交換したしおり。
胸には、少しずつ大きくなる想い。
秋の夜は静かに更けていく。
言葉にならない気持ちだけが、誰にも気づかれないまま、ゆっくりと育っていた。




