第二十二話 書けなかった手紙
九月の終わり。
夕暮れが少しずつ早くなり、帰り道には秋の風が混じるようになっていた。
その日も、美月は自分の部屋で机に向かっていた。
宿題を終え、本を閉じる。
時計を見る。
午後九時。
まだ眠るには少し早い。
引き出しを開けると、一冊の日記がある。
その隣には、まだ真っ白な便箋の束。
美月は一枚だけ取り出した。
深呼吸をして、ペンを持つ。
ゆっくりと最初の一文字を書く。
朝倉くんへ。
そこまで書いて、手が止まった。
(何を書こう。)
ありがとう。
一緒にいて楽しい。
また本屋さんへ行こう。
そんな言葉はいくらでも浮かぶ。
でも。
本当に書きたいことは、もっと奥にある。
『好きです。』
たった四文字。
その四文字だけが、どうしても書けなかった。
美月は小さく笑う。
「だめだなぁ……。」
便箋を折りたたみ、引き出しへ戻した。
捨てることはできなかった。
翌日。
昼休み。
陽斗は図書室の窓際で本を読んでいた。
「また難しい本読んでる。」
美月が隣へ座る。
「栞堂で勧められた。」
「最後まで読めそう?」
「半分くらい。」
「頑張って。」
二人で笑う。
しばらくして、美月がふと聞いた。
「朝倉くん。」
「ん?」
「手紙って、もらったら嬉しい?」
陽斗は本から顔を上げた。
「手紙?」
「うん。」
「今どき珍しいかなって。」
少し考えてから答える。
「嬉しいと思う。」
「メールより?」
「うん。」
「どうして?」
陽斗は照れくさそうに笑った。
「字って、その人らしいだろ。」
「だから。」
少し間を置く。
「手紙の方が、その人を近く感じる。」
美月は思わず俯いた。
(そんなこと言うんだ……。)
胸が熱くなる。
「どうした?」
「ううん。」
慌てて首を振る。
「ちょっと聞いてみただけ。」
「そっか。」
陽斗はまた本へ目を戻した。
その何気ない返事に、美月は少しだけ安心して、少しだけ困ってしまう。
(そんなこと言われたら。)
(ますます渡せないよ。)
放課後。
栞堂には、秋らしい栗色の栞が並んでいた。
店主は読書ノートを閉じながら言う。
「秋はね。」
二人が顔を上げる。
「手紙を書く人が増える季節なんだ。」
「そうなんですか?」
美月が尋ねる。
「昔はね。」
店主は懐かしそうに笑う。
「本を一冊送る代わりに、便箋を一枚入れる人が多かった。」
「何を書くんですか?」
陽斗が聞く。
「本の感想だったり。」
「元気ですか、だったり。」
「好きでした、だったり。」
最後の一言だけ、少し静かだった。
二人は顔を見合わせる。
何も言えない。
店主も、それ以上は話さなかった。
帰り道。
空には高い秋の雲。
「朝倉くん。」
「ん?」
「もし。」
美月は歩きながら前を向いたまま言う。
「手紙をもらったら。」
「ずっと取っておく?」
陽斗は迷わず頷く。
「たぶん。」
「大事な人からなら。」
その言葉を聞いた瞬間。
美月の心の中で、引き出しにしまった便箋が、少しだけ重くなった気がした。
その夜。
美月はもう一度、便箋を取り出した。
『朝倉くんへ。』
その下に、ゆっくりと書く。
『今日は、「手紙は嬉しい」って言ってくれてありがとう。』
そこまで書いて、また止まる。
ペン先に、小さなインクの粒が滲む。
少しだけ考えてから、美月はその紙をそっと封筒へ入れた。
切手も貼らない。
宛名も書かない。
引き出しの奥へしまう。
「いつか。」
小さくつぶやく。
「いつか、渡せる日が来るのかな。」
部屋の窓から入る秋風が、カーテンを静かに揺らしていた。
その封筒は、まだ誰にも届かない。
けれど。
言葉になれなかった想いだけは、確かにそこに残っていた。




