第十三話 特別な席
それからというもの。
栞堂へ寄ることが、二人の放課後の習慣になった。
毎日ではない。
週に一度か二度。
「今日は寄る?」
「うん。」
そんな短いやり取りだけで、自然と足は商店街へ向かう。
店の引き戸を開けると、鈴が静かに鳴る。
「いらっしゃい。」
店主は今日も本を読んでいた。
「こんにちは。」
「今日は新しい棚ができたよ。」
そう言って指差した先には、小さな手書きの札。
『春に読みたい本』
「こういうの、好きなんです。」
美月は目を輝かせる。
一冊一冊、表紙を眺めながら、ゆっくり棚を見ていく。
陽斗はその姿を少し離れたところから見ていた。
(本当に好きなんだな。)
ページをめくる指先。
背表紙をなでる仕草。
題名を見つけて嬉しそうに笑う表情。
本を見ている時の美月は、教室にいる時とも、帰り道とも違う。
一番自然な笑顔をしていた。
「朝倉くん。」
「ん?」
「これ。」
一冊の文庫本を差し出される。
『四月の手紙』
「面白い?」
「読んだことあります。」
「泣いた?」
「ちょっとだけ。」
「じゃあ読まない。」
思わず答えると、美月は吹き出した。
「どうして?」
「泣くの苦手。」
「泣いてもいいじゃないですか。」
「見られるの嫌だ。」
「じゃあ家で読めば。」
「それもそうか。」
二人で笑う。
「若いっていいねぇ。」
店主が本を閉じる。
「え?」
「好きな本を勧められる相手がいるっていうのは、幸せなことだから。」
美月は少し照れたように俯いた。
陽斗は意味が分からず首をかしげる。
「そういうものですか?」
「そういうものだよ。」
店主はそれ以上何も言わなかった。
帰り道。
駅へ向かう途中、小さな公園を通る。
夕暮れ時。
ベンチにはランドセル姿の小学生が並んで座っていた。
「私ね。」
美月がぽつりと言う。
「小さい頃から、本ばかり読んでたんです。」
「友達と遊ばなかったの?」
「遊びましたよ。」
少し笑う。
「でも、本の方が気楽だった。」
「気楽?」
「嫌われる心配もしなくていいし。」
その一言に、陽斗は足を止めた。
美月も立ち止まる。
「……嫌われるの、怖かった?」
問いかける声は、とても静かだった。
美月は少しだけ困ったように笑う。
「うん。」
風が吹く。
桜の花びらが一枚、二人の間を通り過ぎた。
「だから、本を読んでると安心したんです。」
陽斗は何も言わなかった。
慰める言葉が見つからなかった。
でも。
「俺。」
ようやく口を開く。
「水瀬のこと、嫌いになることはないよ。」
美月は目を見開いた。
「え……?」
「たぶん、一生。」
言った瞬間、自分でも驚いた。
(俺、何言ってるんだ。)
慌てて続ける。
「いや、その……。」
「本ばっかり読んでても。」
「静かでも。」
「話すの苦手でも。」
しどろもどろになりながら、必死に言葉を探す。
「水瀬は、水瀬だから。」
沈黙。
夕焼けが二人を赤く染める。
美月は何も言わない。
ただ。
その瞳が少し潤んでいた。
「ありがとう。」
その一言だけだった。
駅へ着くまで、二人はほとんど話さなかった。
でも。
気まずい沈黙ではなかった。
言葉よりも大切な何かが、確かにそこにあった。
その夜。
美月は日記を開き、一行だけ書いた。
『今日、朝倉くんに救われた。』
そして陽斗は、自分の部屋で天井を見上げながら考えていた。
「……なんで、あんなこと言ったんだろう。」
答えはまだ分からない。
でも、一つだけ分かることがあった。
美月が笑ってくれると、自分も嬉しい。
それだけは、誰に教わるまでもなく、本当の気持ちだった。




