八幕
左腕がもげていないのが不思議だ。
全身が、痛覚で構成されたようでもある。一歩踏み出すことに全力を要した。
小雪は息を詰める。
世は迷路に満ちている。迷路には難局が蔵されている。罠の形で幾重にも。
その中でもとびきり性質の悪い罠に引っかかった気分だ。
もっとじょうずなやり方があったかもしれない。逃げ道のない方向へ小雪は全力疾走した。
だがこうする以外の方法は、彼女の中で遂に姿を見せなかったのだ。
小雪は震えた。
寒い。
血が失われたせいだ。過剰に。
肩に食い込んだままの刃。小雪は、その側面に指を這わせた。
冷たい鋼に、ほんのりと小雪の体温が移っている。
小雪は剣の柄に手をかけた。少女の体躯には、少しの緊張も力みも見られない。
が、頭上で一度、星がちかりとまたたいた一瞬後。
人体深く食い込んだ刃はいとも軽々と引き抜かれた。玩具でも扱うように。
だが、小雪の指先は、巨大な鉄塊でも掴んだ風情で力なく太刀を取り落とす。
重い音と共に刃は地面に横たわった。その隣で、小雪は膝をつく。
身体が大地に沈むほど重く感じた。
仰向いた表情は、霞んでいた。朦朧と。瞳は虚ろ。血塗れた肌は、白蝋のごとく。
明白な死相が、透明に浮き出ていた。
眼球の虚無、その奥に。
ひとつの影が映りこんだ。
「小雪」
呼ぶ声に、命の光が瞳に蘇る。小雪はうっすら微笑んだ。
「右京さ、ま」
顔に刻まれるのは、幼子よりも稚い微笑。小雪はしあわせそうに、相手を呼ぶ。
「小雪、生きて戻りました。この命、どうぞ、あなたさまがお刈り取りくださいませ」
そのためだけに、小雪は生きる道を選んだ。
本来ならば、滝丸に命を捧げるのが筋であろうに。
滝丸党のために散ることが、小雪の道であったろうに。
最後の最後で。
優先順位が、音を立てて入れ替わった。
滝丸党でもなく、長七でもない。
風見右京そのヒトが、小雪の至上たる存在なのだ。
彼以外のものは、小雪の中で苦もなく圧殺できる。
愛とか恋とか名付けられる感情ではない。ひたすら、大切なだけだ。
この一年は、それだけ輝いていた。小雪の一生、その全ての比重を預け得るほどに。
うな垂れようとする小雪の顎を、右京の手がとらえた。
だが小雪には、もう彼が見えない。
瞳に映るのは、おぼろな輪郭のみ。
「小雪には、光が、似合うのに。死の訪問が、こんな場所で。みとるのが僕なんかが一人だけだなんて」
右京の声が、重く沈んでいた。
彼の中で、心まで悲しみに損なわれようとしていることまでは、小雪は知る由もない。しかし。
「光ならば、ここにあります、右京さま」
慰めるでもなく、小雪は笑みを深めた。
「小雪には、右京さまが光でございました」
だから今、小雪は幸せだ。
よいのだろうか。こんなにしあわせで、いいのだろうか。
小雪に、恵まれた死という幸福など、与えられていいはずがないのに。
右京は目を見張った。
小雪の笑顔と言葉。与えられたそれに、日向に照らされたようだ。
なのに、疼きに似た悲哀が果て知らずに深まる。
与えられるなり、失われることが確実なしろものだったからだ。
先ほど、小雪が甲介に襲われたところに直面したのち。彼女の決意を右京は聞いた。
気が進まなかった。だが、引き止めたところで、小雪は行くだろう。
また、無理に引き止めれば彼女の魂は死んでしまう。
だから、行かせた。死ぬと予測していても。
ただ、戻ってこいと命じた。
小雪の命、それだけは右京へ捧げよ、と。
小雪は約束を果たした。
瀕死になって、なお。
正直なところ、右京は彼が出した条件を小雪が肯うとは思わなかった。
なにしろ、彼女の中での一番は、滝丸党である。命は、滝丸党へ捧げてしまうだろう。
そう予測した。第一、小雪が戻ったところで右京に彼女は殺せない。
命を捧げろと言ったのは、小雪を少しでも生かす方便だ。小雪に生きてほしかった。
戻った小雪は、彼女にとって、右京が光だと言う。
仇と、承知していながら。
ふいに、小雪の身体から力が抜けた。
右京は肩を支え、小雪の身体を胸に抱く。
小雪は震える吐息を吐いた。
「やはり、右京さまは温かい」
うっとりと、目を閉じる。口元は、笑んだまま。
無意識に伸びた右京の手が、小雪の頬を拭った。指が、血で彩られる。
周囲を取り囲まれたのは、その時だ。
一塊に迫った巨大な影が、分裂し、さっと散って二人の周囲を固めた。
動きは統御され素早く、一部の隙もない。
右京は顔を上げる。
彼の前へ、進み出たのは、小柄な老人。
三代目滝丸だ。彼は、仲間を引き連れ、小雪を追ってきたのだ。
右京と視線を合わせ、滝丸は一言。
「何者」
低く、問う。
右京は慌てず、騒がず。
にこと笑んだ。
「如月一清」
右京は、太刀をとった。
小雪が引き抜き、放り出し、彼女の血に濡れ果てた太刀を。
あまりにも平気な所作だった。緊張は微塵もない。
青年は、戦いと一切が無縁に見える。結果、滝丸党の精鋭たちは惑った。
如月一清。目の前の青年が?まさか!
一清は豪傑。目の前にいる青年がまとう柔和さと彼は、重ならない。
しかも胸に抱いているのは、小雪である。
一清を仇と狙う、小雪なのだ。
一清ならば、己の命を狙う相手を宝でも抱くように扱うだろうか。
惑いは、一呼吸の間彼らを支配した。
惑乱に散った、空気のど真ん中。
右京は笑った。それはたちまち鋭利な刃物と化す。合間に太刀が薙ぎ払われた。
切っ先が、月光を弾いて踊る。軽快なその動きを誰もが視界の端に見た、直後。
青年の姿が消えた。
間を置かず鮮烈な血潮が寒風に舞い上がる。
渦を巻いて、首が、腕が、宙を跳ねた。
倒れた滝丸党の者たちの身体から、贓物が吐き出され、地を滑る。
滝丸は瞠目した。
仲間の命が、刹那に潰えた。火を吹き消すより容易く。一薙ぎの元に。
青年は空を蹴り、馳せ寄る。滝丸目がけて、衝突の勢いで。
彼の手から、閃光が放たれる。抜き打ちで、叩きつけられた刃だ。滝丸は受けた。
かろうじで。
それは、骨に響く重い一打であった。
遥かな天より、降り落ちたかと思われるほど。
二本の刃の間で火花が咲いた。刹那の輝きに照らされた互いの表情は暗い。
しかし、はた、と滝丸は目を眇めた。
その場にとどまることなく飛び離れ、直後。
双方相手目がけて地を蹴った。動きは同時。
ほんの一瞬、またたきののち。
鋼の噛み合う音が、天へのぼる。闇をつんざき、夜を透き通らせながら。
同時に、鈍い音が地に落ちた。肉が割かれた音だ。
と聞こえたときには、二人は直前まで、相手がいた場所に立っている。
最初からそうであったかのように、まるごと入れ替わっている。
違うところといえば、互いに背を向け合っている状況のみ。
しばし、どちらも動かない。
周囲の木々に同化したごとく。
先に動いたのは右京だ。身体が傾ぐ。
それを支えようと太刀が動いて、切っ先が地を穿った。
彼のわき腹が抉れている。深い。そこから命の朱が吐き出されていた。
手当てが間に合わねば、助かるまい。
だが、右京の表情は穏やかだ。夢見るように。
彼に背を向けたまま、滝丸の口元が弧を描いた。満足に、笑んだのだ。
「…如月一清。まさしく」
見事、という声は、血と共に吐き出された。
「だがその顔、記憶違いでなければ、風見の次男、右京だろう。…小雪が世話になっている、幾度も風見に足を運んだ。だから覚えているぞ。なぜ小雪を殺さなかった。否、…殺せなかった、か?なあ」
憐れむ声音は、最後は呼気のみで吐かれた。それが大気に失せた刹那。
滝丸の身体が斜めにズレた。
左肩から右のわき腹へ一直線の筋が走るなり、頭が先に地面へ落ちる。
ぶちまけられた贓物に引き摺られ、両足が倒れた。
その音が、不動であった右京の背を押す。
ゆらり、右京の足が踏み出した。小雪の亡骸目指して。
彼女は地べたに寝かしつけている。あのままでは寒いだろう。
太刀はその場に残し、無手で小雪の身体を抱き上げた。
「小雪の恋人のみならず、育ての親まで、僕は殺してしまった。それでも、小雪は光と言ってくれるかな」
右京は周囲を見渡す。その目が止まったのは、より暗い方角。
誘われるようにそちらへ進みながら、右京は言った。
「お前たちも、もう行きなさい。四代目は、もう少しましな相手を選ぶといい」
声は、周囲に潜む気配に発される。
潜むのは、結局見守るだけだった、如月一清の一党だ。寂として、声は返らない。
構わず、右京は行く。
彼は覚悟していた。おそらくは、昨日、小雪に今夜の行動をもらしたときに。
死を。
だからこそ、顔をさらした。いつも半面は隠していた顔を。
右京の顔はよく知られている。風見の次男坊として。
さらせば、一清が右京と悟るものは多かろう。面倒は避けたかった。
呉服屋風見のためにも。
だが。
小雪と対峙するに際してそれは礼を失する。
礼など。今更、だろうが。きちんと向き合いたかったのだ。小雪に対しては。
右京が進むうちに、気配ははぐれていく。
ひとつ、ふたつ。
無言のまま、名残を惜しむように。
その間にも、小雪と右京の肉体から、絶え間なく血が流れ落ちた。
それは地を這い、右京のうしろに続く。
右京の歩はゆるぎない。
やがて、最後の気配が消えたとき。
小雪を抱いた右京の背も、闇に沈んだ。
× × ×
その朝は、霧が深かった。
巨大な魂のように霧が流れる。
それに覆われた山道で。
茂みから、茶の剛毛に覆われた身体がうっそり現れた。腹をすかせた山犬だ。
犬は、ふと鼻をうごめかす。それを、思慮深げに地面へ落とす。
えぐれたような腹を抱えた痩身ながら、軽快に足は前へ進んだ。
犬が見つけたのは、太い血の筋。獣道を辿り、真っ直ぐに続いている。先へ。
爪が、土を掻き、地面を蹴った。その爪先が、ふいに止まる。
山犬の髭を、吹き上がる風が嬲った。
遥か下方から、逆さに落ちる滝のごとき勢いでふき出している。
犬のわずか一歩先にあるのは、崖だった。
一晩でできた血の轍は、その淵へ擦り付けられたのを最後に失せている。
山犬は何かを惜しむように、崖を端から覗き込んだ。
だが、乳白色の流れが視界を覆っている。底は見えない。
犬の耳が、ふと動いた。
山犬は崖への興味を断ち切り、顔を上げる。その耳に、今度は確かに遠吠えが届いた。
仲間だ。近い。餌を見つけたのか。
呼ぶ声に、犬は身を翻した。痩せた身体は、現れた茂みの中へ飛び込み、消える。
のぼる太陽に、血潮がひかった。
涙のように清い光だ。
だが、それはすぐさま失せた。
山はいつもと変わらぬ表情で、霧の底に沈んでいった。
読んでくださった方ありがとうございました。




