七幕
いつからだったろう。
小雪が疎ましくなったのは。
蛍はぼんやりと焚き火に目を向けた。色素の薄い瞳が、炎の明かりにぬれひかる。
滝丸党の根城。杉の木立に囲まれた一角で一党の数人が、焚き火を囲んで談笑していた。
何をするでもなく、寛ぐ宴。その片隅で、蛍は膝を抱えていた。
目的はない。おそらく、集まった全員、そうだろう。
ただ、安心したいのだ。唯一気の抜ける仲間たちの間で。
彼らは他の場所では常に意識を張り詰めている。
ために、安らげる場所が、心にとってどれほどの甘露となることか。
そこには、三代目滝丸も同席していた。
老いてなお、眼光の鋭さは増すばかり。小柄だが、決して無視できない。
存在感は、巨大な岩石が鎮座しているかと思うほど。
彼を中心に、強烈な波光が荒っぽく広がっていた。
だが、次代をすぐにでも指名すべきだと、仲間内の声は高い。
中でも、娘同然の小雪は心細い声で繰り返していた。
彼女には、他の仲間よりよっぽど、三代目の老いが心配で不安でたまらないのだろう。
小雪は真面目な女だ。掟に忠実で、どこまでも真っ直ぐである。孝行者で、情が深い。
だが、戒律を破るものには容赦なかった。
ヒトが変わったような、冷淡な一面を覗かせるのだ。
同時に、彼女の中に一点潜む無垢がある。成長しても、それは腐らなかった。
彼女に、長七は惹かれた。すべてひっくるめて。
蛍には、あらゆる面が鼻につく。
小雪は、これといった実力者でない。蛍ほどの美貌の主でもなかった。
ゆえに、間諜となることもできず、一党への貢献などたかが知れている。
だが、小雪は三代目の養女だ。
のみならず、四代目と目されていた亡き長七の婚約者であった。
虎の威を借りるような女ではないが、一党の誰もが彼女に敬意を払った。
たいした働きなどしていないくせに、すべてを奪っていく女。
蛍は集積された憎悪を視線に変え、闇に沈めた。
蛍は身体を代償に、情報を得る。そして仲間を助ける。それがイヤだと言うわけではない。
駆け引きには心躍る。性に合っていた。
しかし、小雪は汚れないのだ。とうに両腕は双方、血まみれである。
だが、小雪の身体はきれいなままだ。蛍と違って。
それでも別に構わなかった。どうせ、蛍も小雪も行き先は地獄。漆黒に塗り潰された闇。
小雪は、手足を縛りあって歩を進める仲間だ。
彼女を恨んだところで、自らの肉を食むようなもの。
達観した蛍の視線。その寛大が、死滅した理由は。
長七。
誰よりも大切な幼馴染。男。
彼を小雪にとられた。二人は心を通じ合わせたのだ。
この一事が心の正気を骸に変えた。
うそっぱちの祝福と共に、決意する。
壊そう。幸せなど許すものか。なぜ苦もなく、小雪ばかり。よりにもよって、あの女。
小雪に、長七を奪われてなるものか。
騒動を起こせば、いかに豪腕無双の滝丸党といえども、怖気づき、自粛のために祝言を延期するだろう。
なにしろ相手は如月一清一味である。
情報操作はお手の物だ。巧みに蛍はそれを手繰った。
だが、さすがに一人では扱いかねる事態である。結果、仲間に引き入れたのが甲介だ。
彼は、蛍に忠実だった。
一年前の、長七の死は想定外だ。それは本当だ。しばし蛍も魂が抜けたようになった。
だが、小雪は生きている。
しぶとい。
蛍は歯噛みした。小雪の亡骸を見るまで蛍は死ねない。死ぬものか。
小雪の死は近いだろう。
なぜなら彼女は、一清を狙うといった。長七の仇、その命を。
一清が、己を害する刺客を捨て置くはずもない。
蛍は労せずして、小雪の遺体を目にすることができる。
蛍の胸は躍った。
その時を、今か今かと待って。
しかし、それでも小雪は生きていた。一清の命を、的にしながら、それでも。
もう待ちきれなかった。
もとより、蛍は一清のことも許せない。一清は、長七の命を奪ったのだ。
まず小雪に探りを入れた。甲介に殴られたと言ったのは方便だ。
彼に、蛍を打つことはできない。そう装っただけだ。
それだけで、小雪は蛍に同情するだろう。深く考えもせず、蛍の言を信じるだろう。
案の定、小雪は蛍にすんなり口を割った。
小雪が一清に生かされたことは驚いたが、どうでもいい。どうせ、二人とも今夜死ぬ。
甲介にも命じてある。
せめて小雪だけは確実に殺せ、と。
蛍は微笑む。憎悪の心が反響しない、清らかな笑みだ。
それを目に止め、少し離れた場所にいた滝丸が笑う。口の端に皺が寄った。
人好きのする笑みだ。これが盗賊の首領かと思うほど。
「なんだ、機嫌がいいな、蛍」
珍しい。
アナタの娘が死ぬからです、と心で応じて蛍は笑みを深める。
だがその艶麗な面が。
ふいに凍った。
周囲に林立する、杉の木立。その、焚き火の明かりが届かない高み。
丁度、蛍の真上。そこで息を潜める影がひとつ。
それを知覚したものがいたかどうか。
蛍は影を見たわけではない。
しかし、彼女が前のめりに身を投げたのと、影が飛び降りるのは同時。
蛍は頭上から、背骨を貫く落雷じみた衝撃を感じた。殺意だ。
それによって完全に射抜かれる直前、身を翻した。刹那。
太刀が降る。それまで蛍がいた場所へ、刃が突き立った。垂直に地面へ。
からくも、一髪の差。
曇りない刃の面に、蛍の美貌が映りこむ。
呆然となった表情はあどけない。童女めいている。
だが、刃の柄を握った相手を目にしたとたん。
尻餅をついた格好で、彼女の眦がつりあがった。
今、蛍の命を狙ったのは。
「小雪ぃ!」
蛍ははね起きた。
彼女は瞬時に悟ったのだ。
失敗した。甲介は失敗したのだ!
あの愚図、と蛍は喉奥で罵る。
一条、懐から光が迸った。それは引き抜かれた匕首の輝き。
周囲は、呼吸を忘れたように呪縛されてその光景を見た。
眼前の現実を拒否する、沈黙の虜囚となって。
小雪も蛍も滝丸党の仲間である。なのに。
彼女たちを鎧のごとく覆う気配。これは対象へ叩き付けずには終われない闘争本能だ。
しかも切迫している。絶望的なほど。
とどめる手段は、既にない。
その場にいた全員、それを理解できないものはいなかった。不幸にも。
刹那、仕掛けたのは蛍だ。
内側から滅茶苦茶な破壊衝動が突き上げる。構わず、蛍は身を委ねた。
蛍の瞳は、真っ直ぐ小雪の急所に突き立っている。
迫る蛍を前に、小雪は太刀を捨てた。地面に生えた刀身。引き抜く暇はない。
小雪の手元で刃がひかった。いつどのように掴まれたのか。
短刀が握られていた。逆手に。
構え、小雪は走る。
双方の影が重なり、とびちがった。
しかしどちらの刃も互いに触れていない。傷一筋すら生じなかった。
少女たちの足元で、焚き火にゆらめく影が躍る。
次、二人が踏み出したのは同時だ。
「小雪!」
響くのは、蛍の声のみ。小雪は一言ももらさない。
蛍は叫ぶ。勝ち誇った表情で。嫣笑を燃え立たせながら。
「裏切ったね!」
この期に及んで。
凍った意識の片隅で、小雪の思考が砕けた。
蛍は、小雪を陥れようとするのか。
この、ぎりぎりの局面で、なお。
双方、ふりかぶった刃を。
振り下ろす。振り抜いた。
互いが闇に生んだ刃の軌跡は、交錯の寸前。
蛍の刃は、小雪の左頬を裂いた。白い肌に朱が散る。石榴がはじけるように。
小雪は痛みに顔をしかめた。
蛍は笑う。凄絶に。しかし。
小雪の刃は。
蛍の喉に、半ばまで食い込んでいた。
中途で止まったのは、骨を噛んだせいだ。
小雪は力を込めた。満身に。
裂帛の気合と共に、刃を押し通す。引き抜いた。
うつくしい首が跳ねあがる。
栓が飛んだように、血がしぶいた。
生命の灼熱は、激しい雨となって地上に降り注ぐ。
温かいはずのそれを浴びても、小雪は蒼白のままだ。勝ち誇ることもない。
課された義務を果たした。小雪にあるのは、その氷のような覚悟のみ。
血の温かさも、それを決して溶かしはしない。
蛍の身体が傾ぐ。血の勢いに押される形で、ゆうらりと。
だが、残された蛍の肉体が、地面に倒れこむ寸前。
小雪は鞭打たれたように振り向いた。黒髪が蒼白の頬に乱れ散る。
彼女の視界を裂いたのは、白光の一閃。
見たのは、頭上へ叩き落された刃の一振り。小雪は避けきれない。
脳天から唐竹割りの惨状は避けた。
しかし刃は左肩に落ちる。逃れ得ない速さで。
刃は鎖骨を砕き、肉を裂いた。
心臓へ至る刹那。
「なぜだ、小雪。お前」
刃を持った人物が、喉を絞った。
滝丸だ。
口元が引き歪み、彼は瞠目していた。瞳は、現実を否定している。
それでも、肉体は掟に沿うのだ。
裏切りは、死で誅す。
小雪は蛍を殺した。仲間を殺した。言い訳がきくものではない。
ここにうち揃った全員が、目撃者だ。
二人の目が合う。滝丸がわずかに怯んだ。
「…ごめんよ。でも、今はまだ死ねないんだ」
滝丸の油断。そこに、小雪はつけこんだ。
滝丸の腹部に膝を打ち込む。
彼は後方にとんぼをきった。小雪の膝は空振る。しかし、滝丸の手は太刀から離れた。
間髪入れず、小雪は背後に跳んだ。刃は肩に埋まったまま。
追うべく動いた滝丸の目の端に。
異様なものが映った。
彼は足を止める。鎖でもかけられたように唐突に。
焚き火の上。巨大なものが落ちてくる。
呆れるほど大きな影。岩か。
しかし、周囲にあるのは杉ばかり。自然と岩が落ちてくるものではない。
誰にも気付かれず、木から木へ飛翔した影が、行きがけの駄賃とばかりにそれを落として行ったとは露知らず。
焚き火の明かり。それが領する場所にまで落ちた小山のごとき影は。
全貌を光の中に見た滝丸は目の端が裂ける寸前まで見開いた。
「こ、甲介!」
滝丸は叫んだ。同時に、彼の巨体は、焚き火を抱きこむ形で地面に這い蹲った。
衝撃に大地が揺れる。火花が散り、灰が舞い、薪が跳ねた。煙が燻り、火が消える。
世界は夜闇に支配された。
甲介は、いったん跳ねて、わずかに転がる。それきり、動かない。
巨体が発散するのは、死の気配。
死んだのか。いつ。投げ落とされる前か、それとも今の衝撃ゆえか。
いずれにせよ、甲介の巨体を抱えて嘲笑うように投げ捨てていった相手。
これは、一筋縄ではいくまい。いったい何者か。
気付けば、小雪の姿も消えている。
「と、頭領」
呼びかける仲間の声も、遠い。
悪夢の泥沼に囚われたように、感覚が鈍かった。だが正気に戻りたくない。
滝丸は唸った。
取り戻した正気はおそらく、小雪ばかりでなく滝丸たちも追い詰める。
「なぜだよ、小雪」
ひどく無気力に小柄な老人は呟いた。




