六幕
夜空は晴れている。
小雪の顔は、枝を通った月光でだんだらに染まっていた。
その形状は刻々と変化している。彼女は、森の中を駆けていた。
目指すは、滝丸党の根城。
長年の習性で、自然と足が向かったのもある。
だが確かめねばならないこともあった。
右京は志野に預けた。これで彼は大丈夫だ。
小雪は、彼らを潜み見ていた一清一味の存在には気付いていない。
一年前。
右京に救われ、正気に戻った後。
ひとときも休まなかった精神が、昨夜から更に火がついたように加速している。
思考が焼け落ちそうだ。
今回のことで、分かったことはただひとつ。
小雪に、右京は害せない。
火柱に巻き込まれた右京を見るなり、小雪の中で雑念が消えた。
彼は一清だとか、仇だとか、そんなものは一切見えなかった。
真っ先に思った。助けなければ。右京は失えない。絶対に。
小雪は死に物狂いになった。刃をふるったのは、彼を助けるためだ。
それ以外の使用法など意識の外にあった。
それが、小雪の本能が掴み取った道だ。
今まで一筋に見据えてきた、一清への憎悪。
それは、長七への想いに根ざしていた。
だが、この過去の延長線にいた頑なな視線が、ようやく翻って見たもの。
それは、右京というこれから。
瞬時に、視界と意識の色が変わった。衣を替えるより鮮やかに。
右京に、即ち一清に、どんな思惑があったかは知らない。
彼がどうして小雪に手を差し伸べたのか。分からない。
だが、結果はこうだ。小雪に右京は殺せない。
戦う前に、屈した。恩人は殺せない。
長七を殺したのが右京と思えば、本末転倒だが。どうしようもない。
それに、今夜のこと。
右京は察したろう。小雪が情報をもらしたと。口止めすらされていなかったのだ。
もとより彼はそのつもりで情報を与えたのだろうが。
小雪はまさか、ここまでの事態になるとは思っていなかった。
今更、言い訳にしか過ぎないけれど。
意表を突いたのは、蛍の敏速な行動。
甲介に情報を与えるだけでは飽き足らず、今夜の混乱を招いたのは、彼女だ。
蛍も長七の幼馴染である。
小雪と同じかそれ以上の憎悪を一清に抱いて不思議はない。
一清の名がどれほど大きいか。人々の関心を領しているか。
群がるならず者の多さに、小雪はたじろいだ。
しかし一点、不審があった。
それが滝丸党にて確かめねばならない一事。
小雪はふ、と視線を横へ投げる。駆ける最中、彼女は右腕で宙を振り払った。
そこには何もない。が、行き違いかけた木の幹に、腕が絡みつく。
小雪の足が、幹の周辺でぐるりと半円を描いた。
減速、方向転換。
立ち止まるなり、小雪は鋭く誰何する。
「誰だい」
小雪は清い両眼をきらとひからせる。
「甲介だね」
声は、確信で縁取られていた。
小雪は尋ねながらも分かっていたのだ。彼女についてくるのが何者か。なぜなら。
火事の現場に、彼もいたからだ。いたことは不思議ではない。
蛍が真っ先に情報を与えたのは、甲介だ。ただ、彼の行動が、小雪の不審に火をつけた。
足を、滝丸党の根城へ向かわせた。
彼女は闇を見透かすように目を細める。
森の暗がり。
その一部が、動いた。
小山と見えるほど、大きい影だ。ヒトの形をしている。なのに、音ひとつ立てない。
「小雪」
月光の照明に、顔が浮かび上がる。男だ。
魁偉である。巨躯の上に乗る童顔の中で、丸い目がぱちぱち瞬いた。
甲介。滝丸党の、一角を担う男。
短気でさえなければ、次期滝丸は彼であったかもしれない。
それだけの実力者でもある。
双方の視線が空中でかち合った。どちらも逸らされない。
「甲介。一清を下敷きにしたあの柱。倒したのは、アンタだね」
小雪は突き詰める。
「けど、あれは私を狙ったものだ。なぜだい?」
だからこそ、右京は柱の倒壊に巻き込まれた。
殺意の一端でも己へ向けられていれば、彼は避けたはずだ。
なによりあの柱は、倒れにくいものであった。
沈着な判断力は、一瞥したきり、そこに目も向けないだろう。
だがそれは、別の目的で第三者が突き倒した。
しかも、目的は達せられず、範疇外にいた右京が被害に遭った。
事を起こした甲介が短気ゆえ、見切り発車で計算違いが生じたのだろう。
甲介は肩を落とした。次いで首を横に振る。哀愁に満ちた所作だ。
この期に及んで、否定するわけでもなかろうが。
「小雪。なんで、死ななかった」
口調は、沈痛。小雪を責める色がある。小雪は眉根を寄せた。
「被害者面晒すのはアンタじゃないだろ?アンタは仲間を殺そうとした。自ら断とうとした。家族以上に濃く太い繋がりを。短気の衝動じゃなく、計算的だね?許されることじゃない。どんな理由があってのことだい」
甲介は、小雪をじっと見る。彼は何を考えているか読みにくい。
無表情の中、甲介の口が動く。開いた口は底なし沼のように見えた。
「…一年前もそうだ。生き残った。長七を失いながら。ヤツへの想いは嘘だったか?それ以上生き恥を晒すな。醜いぞ、小雪」
吐かれたのは、思わぬ痛罵だ。
小雪は言葉に詰まった。
甲介の物言いは、彼女自身抱えきれない喪失感を打ちのめす。
のそり、甲介は足を踏み出した。小雪の方へ。
「しかもなんだ、あの体たらくは。一清を殺すとお前は言った。なのに。…見ていたぞ。小雪、ヤツを助けたな?一清を。長七の仇を」
小山と見える巨躯が、ずんぐりと小雪に迫る。小雪には、言い訳の言葉もない。
だが。やはり、甲介はおかしい。行動のみならず、言葉も。
心に広がるのは、痛みではなく不穏だ。
「そうさ、一年前も私は生き残った。…だがね甲介、なぜ今それを言う。一年前、私の死を確信してたみたいな言い方じゃないか。それともあのとき、今日みたいに私を殺すつもりがあったのか。いや、だとしたら、あの事態を、アンタは予期してたってのかい?」
小雪は目を見張った。
言葉にすることで、散漫に広がった思考がぐいと引き絞られる。
解答という一点目指して。
だが、まだ何かが足りない。
順調な仕事の最中に、仲間を殺すことなどできない。
小雪を殺すつもりがあったのなら、何らかの混乱の最中でない限りは、甲介に手を下すことはできまい。
仲間を殺した者は仲間によって粛清される。彼らが絆を重視するゆえだ。
他の仲間に気付かれないように事を行うには、混乱に乗じる以外の道はなかろう。
しかし、そうまでしてなぜ。
「小雪。お前は聡明だ。こうなれば、直に手を下すより他ない」
甲介は動じない。
変わらず、小雪の死を決定している。甲介は、足を止めない。
小雪はここではじめて、後退した。
甲介は仲間だ。殺意を向けることなどできようか。今の甲介のように。
そもそも命を狙われるなど。宣言されてもなお信じられない。
「なんで。甲介」
呟きは、無意識だ。おそらく答えは返らない。尋ねるのは無駄だろう。
だが、甲介はふと思いつめた目になる。答えは、絞り上げる声で返った。
「望んだのは、蛍だ」
蛍。
小雪の脳裏に、幼馴染の顔が過ぎる。そのうつくしい顔は微笑んでいた。
にゅっと甲介の手が伸びる。蛍の面影を握り潰すように。
がしりと太い指が食い込んだ。小雪の首に。
突き飛ばす勢いに、小雪の背中が木の幹にぶち当たった。
「蛍は、長七に惚れてた。それを、ヤツは袖にしたんだ」
気道が塞がれる。
目の奥が、じん、と痺れた。
顔面の皮膚、その裏側に血がたまる感覚に、頭部が膨れ上がるかと思う。
小雪ははじめてもがいた。
「それでも蛍は心を断ち切れなかった。長七を想った。だから、陥れた。誰かのものになる前に」
死に物狂いの手が、甲介の腕を引っ掻く。跳ね上がった足が彼の胴に膝を埋めた。
しかし、丸太めいた腕も樽のごとき胴もびくともしない。
「一年前、見張り二人を殺したのは俺だ。蛍がそうしろと言った。それだけで場は乱れるからと。俺も蛍も、死ぬのは小雪だけと思った。長七が死ぬのは予想外だったな。アイツは強かったから。…ヒトを呪わば穴二つ。分かっていても蛍は長七を殺した一清を憎んでいる。長七を奪ったお前も。蛍は恨みを晴らしたがっている。俺はそれに協力するだけだ」
蛍が望むなら。
腕に致死の力を込めながら、甲介は優しく笑った。報いなど期待しない無私の従属。
勝手な、と罵る力すらない。苦しい。
小雪の中にあったのは、その一事のみだ。思考を生存本能が上回る。
だが、脳に膨れ上がる本能の表層を何か異質がつきぬけた。悔恨だ。
長七。蛍。
甲介が言ったことが事実なら。
事の起こりは、一年前ではない。もっと以前から積み重なったもの。
小雪は思った。愚かしい。己は、なんと。
友人、幼馴染と言いながら、蛍の気持ちにまったく気付いていなかった。
否、少し考えれば思い当たる節はある。
しかし彼女と、長七の間にどのようなことが起こったか。
小雪は気を回すことすらしなかったのだ。
蛍は、男を手玉に取るのが得意だ。ゆえに逆があるとは想像もしなかった。
己の恋慕に身を焦がす彼女など。
小雪は、自身の幸せに有頂天になっていたのだ。
幸せに、目が曇っていた。だが。
気付いていればいかにしたか?
思考が一度躓く。刹那、怒涛の後悔が、潮が引くようにおさまった。
どうもできなかった。小雪は、長七を諦められなかった。蛍の心に気付いていても。
それよりも。そのこと、よりも。
脳内を焼いたものがある。赫怒だ。
許せない。憤怒が小雪の全身を貫く。
何が理由であれ、蛍は長七を陥れたのだ。
脳裏に閃いたのは、長七の亡骸。凍える川を下り来たあの姿。
寒かったろう。苦しかったろう。寂しかったろう。
…許せるものか。
蛍。
小雪は目を見開いた。虚空を睨みつける。
真実憎むべきは、あの女。
魂から溢れた怒りが、力を押し流した。身の末端まで。
萎えた小雪の身体が、突如陸に上げられた魚のごとく跳ねた。
小雪の四肢が、あらん限りをふり絞り暴れ狂う。とは言え、逃亡の算段など微塵もない。
刹那怯んだのは甲介だ。
隙ができた。ほんのわずか、彼の意識がずれる。
小雪の命から、身の防戦へ。生じた一瞬の空白、その領域に。
命の攻防の只中にある、二人の頭上。
白刃を掴んだ影が、するりと滑り込む。
甲介の意識が、白刃の光に引き摺られた。
頭上、流星のごとく流れた冷たい輝き。とたん小雪から注意が逸れる。
小雪相手に迂闊な油断。彼女はただの少女ではない。甲介はそれを承知していた。
すぐさま視線が小雪へ戻る。しかし。
一呼吸の甲介の動揺。
反撃に用意される時間は、それで十分。
小雪と、白刃の持ち主、双方にとって。
先に動いたのは小雪だ。
地を蹴った、小雪の両足が撓る。足裏が、甲介の顎下に食い込んだ。
両足、放たれた矢のごとくに。甲介の丸い頭部が仰け反った。
眼球がぐるりと回る。頭蓋の中で、脳が無防備に震動した。泡立つ勢いで。
だがまだ倒れない。
意識を失う寸前、甲介は指に万力を込めた。
そうなれば、小雪の細首などひとたまりもない。簡単にへし折れる。
最初にそうしなかったのは、やはり仲間に対する情か。
甲介にはためらいがあったのだ。
だが今、そのくびきは解き放たれた。
直後。
小雪に圧し掛かり、前屈みになった甲介の背中。そこに、ひたと二本の足が降り立つ。
その持ち主は抜き身を引っさげていた。甲介の目を引いた刃だ。
腕が上がったと見る間もない。白刃は、甲介の背中に根元まで埋まった。
甲介の肉体、中でも心臓を鞘にして、深々と。
甲介の満身が痙攣する。
断末魔だ。
凶悪な牙は、上下から甲介の身体を挟んでついに噛み合った。揺らぐ甲介の巨体。
小雪は横転し、逃げた。倒した身を起こし、足を地につけざま、鋭く甲介へ向き直る。
間一髪、甲介の身体は木の幹を抱く形で地面にくずおれた。
それまで小雪の背と密着していた木だ。
直前に、甲介に止めを刺した影も、彼から離れてふわと地面に降り立っている。
しん、と静寂が落ちた。
甲介の身体から、完全に命の火が吹き消されている。小雪は身震いした。
たった今、仲間を殺したのだ。少なくとも、彼女はその一端を担った。
己の掟に思いを潜めてみれば、なんたる禁忌を犯したことか。
「小雪」
呼ぶ声に、小雪の背が跳ねる。追われる形で立ち上がった。だが、膝が震える。
小雪はよろめいた。それでも数歩、後退する。
彼女の視線が射抜いたのは。
「右京さま」
甲介を見事一撃でしとめた男。
如月一清、そのヒトだ。彼は小雪を救った。
行動を見る限りは、そうとしか考えられない。信じられないが、しかし。
「小雪」
二度、右京は彼女の名を呼んだ。
彼の面は無表情だ。昨夜と違い、にこりともしない。
裏に秘められたのは、憤怒か、悲哀か。
いずれにせよ、右京が小雪を斬るというなら、彼の刃の下へ首を差し出そう。
小雪は彼の命を狙った。のみならず、今宵、裏切りにも近い形で彼を陥れたのだ。
手を回したのは蛍とは言え、彼女に一清の動向を語ったのは小雪である。
小雪は自嘲した。蛍のことをとやかく言えない。小雪とて、やっていることは同じだ。
だが、蛍。蛍だけは。
許せない。仲間でも。幼馴染でも。
怒りの源流が、膨張を重ね、心に裂け目を作る。だが、言葉にならない。
小雪はむせ返りそうになりながら、結局。
「右京さま」
彼の名を呼ぶだけしかできない。
そこにだけ救いが用意されているのだと、縋るように。
頷き、右京は静謐の濃度を増す声で言った。
「話は聞いたよ」
小雪は胸の上に手を置く。知らず、呼吸が苦しくなったのだ。
圧迫は、己の心から生じるのか。それとも、右京からか。
彼はわずかに首を傾げた。
「さて、どうしようか?」




