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闇路作法  作者: 野中
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五幕

大気の底冷えも、烈火と化すようだ。

激情が、火炎として皮膚を突き破りそうになる。これは小雪への怒りだ。

志野は心を持て余しながら、右京に寄り添った。


屋外。森の中。大樹の根元。


志野は小雪に呼び出されていた。

右京に関わること、と言われなければ、応じなかっただろうが。

つい先刻、彼女はここに着いたばかりだ。

家人の目を盗み、志野はきた。

辿り着いた彼女の目は、しばし右京に釘付けになった。

その右頬から下が、焼け爛れている。

暗がりではっきりと見えないが、火傷は全身に及ぶだろう。

彼には意識がない。今も。


痛みはあるのかないのか。いや、あるに違いないのに、呼吸は乱れない。

信じられないことに、穏やかですらある。


どこかで火の手が上がった騒ぎには、気付いていた。志野の部屋にも声が届いていたのだ。

町の中、遠くから。

しかし、それが右京に関わるものだとは想像もしなかった。

志野は、右京から話を聞いていた。右京が小雪に、正体を悟られたことも。

今夜再度対峙することも。

昼間会ったとき、右京の様子がいつもと違った。

些細な違和感、わずかのズレ。志野は見逃さなかった。

だから無理に聞き出したのだ。


右京と小雪。二人の間に、何があったかは知らない。


小雪は右京を、張り詰めた視線で見つめていた。混乱ではない、目には決意があった。

そこから血色のかげろうが立ち昇る。

しかし、そこに復讐と言う言葉の似合う毒々しさはない。

咲き誇る生命力そのものの色と思えた。鬱屈したものではなく、花開くような、何か。

小雪の内部では、確実に何かが変わっていた。しかしそれが、志野には許せなかった。


右京の惨状は小雪のせいだ。志野は確信している。

と言うのに、なぜまだ右京の隣にいるのか。何食わぬ顔で。

小雪は、害だ。右京にとっては、確実に。

小雪は、志野の気配に顔を上げるなり、安堵に頬を緩ませた。



だが、志野は全力で小雪を詰り、罵った。責めた。力の限り。



小雪は沈黙していた。反論はなかった。彼女は責めを甘んじて受けた。

志野が出した結論はひとつ。

消えろと言った。二度と、右京と志野の前に現れるなと。

小雪は逆らうことなく悄然と立ち去った。


これで大丈夫だ。小雪さえいなくなれば、もう脅かされることはない。

右京は強い。ばかりでなく、冷静だ。

彼の生命が危機に晒されることは二度とない。


理性は確信するのに、なぜだろう。


不安が膨らむ。

それは化け物めいた質量で志野の心を押し潰そうとしていた。

だが、今は。志野はむりやり眼前へ意識を戻した。






あたりは氷室のごとく冷えている。いつまでもこうしてはいられない。

右京を安全で、温かいところまで運ばなくては。

よろめくばかりで鈍い思考が、ようやく整然と回り始めた。

志野が右京の隣に蹲って、幾許経ったか。

小雪が立ち去ったのは、つい先ほどの気がするのだが。

志野は、役立たずの己を叱咤した。とにかく動かねば、と彼女は立ち上がる。その耳に。


低い呻きが届いた。


声、と言うより吐息に近い。志野は縋る形で右京の顔を覗き込む。

その目が開いていた。瞳は、霞みも濁りもしてない。

磨き抜かれた鏡のごとくに志野を映し出す。

「…志野さん?」

「ああ、右京さま」

涙が浮かんだのは無意識だ。

吐いた息が満身の力を抜き取ったか、志野は地面に両手をついて身体を支えた。


右京が目を覚ました。事態はなにひとつ変わらない。

が、右京の目はたまらないほど志野を安心させ、力を与えてくれる。

日頃とは似ても似つかない蓬髪だが、この青年は紛れもなく右京だ。

彼は凪いだ目で現状と共に、志野も受け入れた。

婚約者の細い肩に、右京はそっと手を添える。


「森。稲荷神社の裏手だね。志野さんが付き添ってくれてたのか。ありがとう」

右京は志野を労った。それだけで、志野の中で何もかもが報われる。だが。


「気絶する前まで、小雪が僕と一緒だったと思うんだけど。小雪がどこに行ったか、知らないかな」


志野は愕然と目を見張った。彼女の聡明はすぐに理解した。

右京は志野を真っ先に労ったが、最初から彼の心を占めていた一心は、小雪を案ずる言葉のほうにあると。

志野は強く頭を振った。不必要なほど。

「知りません。存じません」

「そう」

右京は首を傾げただけだ。追求は一言もなかった。


だが、彼は立ち上がった。


小雪を捜しに行くのだ。


志野は、すぐに悟る。彼女は右京を振り仰いだ。引き止める眼差しで。

だが、右京は。

「ありがとう、助かったよ。志野さんは、もうお戻り。僕はやり残したことがあるから、少し遅れて帰るよ。また、明日」

「…右京さま!」


志野は、去ろうとする右京の黒衣に手を伸ばした。

布地をよじり指を絡め、縋る。


口をついて出たのは、憤怒の語気だ。


「火がおこった、あの屋敷の渦中にアナタはいらした。でも今夜に限って、アナタの行く先で不吉が起こったのはなぜですか。小雪のせいではないのですか。…小雪は今夜のことを知っていました。小雪がアナタを裏切り、陥れた。そう考えるのが自然です。あの娘、右京さまを売ったのです。アナタに救われた恩も忘れて。それを捜しに行かれるのはなぜですか。討ち果たされるのですか。ならば、この手を離します。そうでないのなら」


「志野さん」

右京が、志野の声を断ち切った。

刹那、志野は時間の流れが粘る糸を引いて止まったと体感する。

喉が詰まった。


右京の気配は、気抜けている。静かだ。


というのに、冷気が鋭利さを増す。

とぐろを巻いた大気が重く、志野の肩に食い込んだ。

「う、右京さ、ま」

「もとは、小雪の恋人を僕が殺したんだ。陥れる?結構だね。どんな謀を用意してくれているのか、楽しみだ。けれどね」

右京は寂しげに笑う。


「小雪はそれができる娘じゃない。僕を殺す機会があったのに、殺さず志野さんを呼んだことといい。そう、志野さんがここにいるのは小雪の行動ゆえだろう?…少し話をしたい。その機会は、おそらく今夜しかないだろう」

安穏と休めば、その間に小雪は姿を消してしまう。

予感を突き抜けた、それは確信だ。






「…追ったとして!」


叫ぶ志野の声は、ほぼ悲鳴だった。

「小雪を追ったとして、右京さまはお戻り下さいますか。わたしと二人、生きてくださいますか。お約束くださいませ。戻ってきてくださると。わたしはアナタさまの許婚です。生半な覚悟でそう名乗っているわけではなりません。お慕いしております。どうか」

志野の瞳に、決死の覚悟が宿る。右京は微笑んだ。




「戻るよ」




簡単な、返事だった。

拍子抜けするほど軽快だ。だからこそ。






嘘だ。






諭されるまでもなく、思い知らされた。

子供でも騙されないだろう。酷なほどはっきりした嘘だった。

優しいというのに。右京の表情も声も、思いやりに満ちているというのに。

大刀で斬りつけられた気分だ。


気負いなく、正面から。


もとより、右京は志野を愛しているわけでない。女と見ているわけでもない。

商売相手の大切なお嬢さん。許婚という立場とて、親同士が決めたもの。

それ以上でも以下でもない。右京の中での、志野は。

燃え上がる恋着を持つのは、志野のみ。分かって、いたけれど。


志野は、右京からぱっと飛び離れた。彼を突き放すように。

それは右京の主張を諾とした所作ではない。彼を諦めた瞳でもない。怒気もない。

あるのは、思いつめた衝動のみ。

右京から離れた志野の手には懐剣があった。彼女のものだ。

抜き払うなり、己の胸へ押し当て叫ぶ。


「行かれるなら、わたしは今すぐここで死にます!」

右京は目を細めた。

困惑しているのか、呆れているのか。彼が動く気配はない。

思わず、緊張を志野は緩める。だが。

「…僕を縛る代価は、君の命ひとつでは足りないよ」

投げやりな一瞥を最後に、右京は踵を返した。痛烈な一言を置き去りにして。


それだけだ。


右京は去った。彼の姿はあっさりと、木々の向こうに消える。

志野は手元から懐剣を滑り落とした。


その喉が嗚咽に痙攣し、やがて狂乱に近い慟哭に変わっていった。


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